Jazz and Far Beyond
写真家ユージン・スミスといえば、日本ではまず「水俣」だろう。その彼がジャズ・シーン、それも音楽形成の場の証人だった時期があることはほとんど知られていない。
「アレックス君、そんな気分になったらいつでも連絡して来なさい。僕が注射してコロッとあの世に飛べるようにしてあげるよ」と云い、「Bitte! その時は頼みますよ」と二人は大笑いしていたことが今は懐かしい。
胃の検査でバリウムを飲まされ その後直ぐ食事をご馳走して頂き酒をガンガン飲まされたりと、、楽しい思い出になってしまいました。
そちらではプーさんや富樫さん、高柳さんらが待ち構えていたのでしょうね。録音機材はお持ちになりましたか?
その際の村上寛が僕に言った「先生はお元気だ!助平だもの!」に妙に納得、それで先生は長生きされたんだなぁ~。
もし、スイスで私が内田さんと巡り会わなければ、私のカメラは故障したままだったろうし、ルイ・アームストロングの姿も幻のままで終わることになっただろう。
名古屋でもあまり外出されなくなった先生と、久しぶりに電話でお話しした時、「もう私も夫もすっかり年取って、夫なんか60歳すぎました!おじいちゃんですよ」と私が話したら、「そんな風に言っちゃいけないよ」と諭された。
『新鮮組』(日本コロンビア) を制作して日本ツアーを行い名古屋の「ラブリー」に出演した際に内田先生が聴きに来てくださって演奏をほめて下さり<あなたも女だてらにすごいねー>とあきれられたことから始まる。
いまは「神の国」で、楽しく高柳さん、金井さん、宮沢昭さん、プーさんらと、心ゆくまで、スイングしていることでせう。
“Dr.Jazz”こと内田修先生の訃報と時を同じくして届けられた。岡崎市制100周年の記念事業として編まれたものだから、刊行が先生の死と相前後したのはまったくの偶然だろうが、先生はこの労作の完成を目にされたのだろうか。
それはジャンルを超えているらしい。これを図らずも示したCDがMARUのデビュー作だった。私は初めてこのCDで彼女を知った
モンクなり、エリントンなりの作曲家の個性や曲の特徴を知り尽くした上での「改造」なのだということがわかった。ジャズという知の遊園地でスタンダード曲と戯れている。「戯楽」は高度な遊びだ。即興演奏からもインスピレーションを得ていたり、その逆ということもあるのだろう。
森山威男と板橋文夫という最強のコンビがついに到達したわらべ唄の世界が『おぼろ月夜』である。
“天才ギター少年出現”と、世間を驚愕させた17才での衝撃デビュー作『インフィニット』以来45年。ギターの申し子としてこの楽器をこよなく愛し、常に世界を意識しながらシーンの第一線で奮闘してきた彼。
さらに、今後も藤井のアーティスト活動を支援していくという。かつてのパトロンのような存在だが、動機は極めて純粋だ。
作曲センスを併せ持つ特異な即興演奏家が浮上した重要な一枚
重要なことは「地下音楽」は1976〜86年の期間だけに限定される存在ではなく、いつの時代にも必ず在るということである。ジャンルやスタイルに関係なく、何かを生み出そうとする”人”と”場”と”音楽”が交わるときに起こるやむにやまれぬ表現欲求の発露であり爆発である。
また、グラウコが、ソロ・ピアノの輝かしい伝統を持つECMで自分に何ができるかと考えたというのも納得する。穏やかな時間の流れと緊張感の中にグラウコの美意識が確実に表現され、ECMの中にあっても極めて密度の高い作品となっている。
海外の<この1枚>も2枚がブラッド・メルドーがらみで、今日のジャズでは最も魅力に富み、2枚とも味わいと奥の深いアルバムだった。
多文化主義がさまざまな軋轢を生み出す現在、多様な文化が出会い、行き交い、交感する空間こそが求められているのではないか。本作が生まれたことに時代の必然性を感じている。これもジャズという開かれた精神の音楽がベースにあればこそ。
ポスト・マリア・シュナイダーの最右翼ダーシー・ジェイムス・アーギューの圧倒的な新作は、グラミー賞ベスト・ラージ・ジャズ・アンサンブル・アルバムにノミネートされた。並みいるライヴァルたちを押さえての受賞が期待される。
フリージャズの闘士アラン・シルヴァ、多彩極まりないアルトを吹くメテ・ラスムセン、ふたりのポテンシャルを高めるストーレ・リアヴィーク・ソルベルグの3人による刮目すべきセッションの記録。
私自身、今まで経験しなかった録音とミックス技術を尽くした録音表現作品だと思う。
アルバム『Mauch Chunk』(hot cup Records)はモッパ・エリオット(b)のグループMOPDK「Mostly Other People Do the Killing」の新作であるがアルト一本に絞ったイラバゴンがメイン・ストリームとフリーの間を行き来しながら存分に暴れまわっているところが痛快極まりない。
オバマ大統領等の努力でアメリカとキューバの関係が劇的に良くなった今、“マッド・ドッグ”トランプの登場で再び暗雲が漂いつつあるが、アロルドやフォンセカ、トスカ等の才能ある若手達がその魅力ある音楽で、黒雲を強烈に吹き飛ばしてくれること、切に願いたいものです。
身を以てジャズの伝統、スピリットを次世代に伝えるべく献身するディジョネットの心意気に打たれる。
「即興演奏家による作曲作品のリアライゼーション」ならぬ「作曲作品による即興演奏のコンポジション」とでもいうべき音楽。いずれにしろ驚異的な新しい才能が現れたことには間違いがない。
今年も海外編はクリス・ピッツイオコスにとどめを刺す。新境地を切り開く自己のカルテットのデビュー作は何度聴いても刺激が薄れることはない。
ビリー・ハートとクリストフ・シュヴァイツァーのふたりに共通する美点は、そのツボを押さえた大局的な音楽展開はもちろんのこと、音楽の血であり肉であるソウルフルなフィーリングが極めて自然に湧出する点にある。切り口は知的で多彩だが、いかなる時も音楽としてブレがない。
東京ビッグバンドはステージに並んだ顔ぶれを見ただけで、野趣横溢する屈強のビッグバンドであると分かる。これから何か楽しいエキサイティングな演奏が起こるという期待が湧いてくるのだ。
それぞれの音楽家としての軌跡が脳裏に断片的に浮かび上がりつつも、そこに満ちていたのは颯然と今ここを突き抜けていくサウンドだった。年輪を重ねるというのはこういうことなのか。あるべき出会いはまたとない邂逅となったのである。
新宿西口の空を白石民夫の高音が切り裂いた2夜
コンサート・ホールでの演奏の機会がとりわけ日本人アーティストにとってはむしろ減ってきているように感じる。
そうした演奏環境の中で石井彰のピアノ・ソロにかける情熱とそれを支えてプロモートするプロデューサー、スタッフの熱意によって長期にわたって継続していることに敬意を表して2016年このコンサート(国内の部)に選ばせていただいた。
意欲的、かつ挑戦的なプログラミング、大ホールを満員にする集客力、その満員の聴衆に有無を言わず自分の世界に引きずり込む技量と説得力、たいしたものだ。
過去の振り返りと今ここにある音楽表現を繋ぎ合わせ、更にこれから先の活性化の兆しを予感させて、フリージャズが死んでいないことを宣言する出来事だった。
積極的にヨーロッパ各地での公演を重ねているだけあり、喜多直毅の演奏には経験値と凄みがある。
大地のざわめきを内包したような深大なスケール、緻密な構成力に魅了された。作品の触媒となる演奏家の総合的な力量は言うに及ばず。
まともに各項目に1点づつ推すという理想にはほど遠かった。しかし、好意的な解釈をすれば、それだけ甲乙つけがたい秀演が多かったということになるだろう。
ベストというからには一つに絞るべきなのだろうが、今回はあえてベルリン・ジャズ祭で観た2つのヨーロッパのオーケストラ、アレクサンダー・フォン・シュリッペンバッハ率いるグローブ・ユニティ・オーケストラ50周年記念コンサートと、フランスの若手イヴ・リッサのホワイト・デザート・オーケストラを挙げたい。
エヴァン・パーカー、高橋悠治、異能のデュオ。
今、最も注目したいピアニスト、シャイ・マエストロは、1987年2月イスラエル生まれの29歳。繊細で色彩豊かなピアノの表現力と絶妙なタイム感を持ち、オリジナルな音楽世界を聴かせる。2016年6月には自己のトリオで来日し、期待通りの美しく素晴らしい演奏を聴かせてくれた。
ダーク系のコスチューム(小橋は黒のドレス)で登場した3人が演奏したのはチェンバー・ジャズとでもいうべきか、かつてのMJQを彷彿させるような雰囲気を醸し出す。
初めて訪れた中国で、しかも前衛音楽専門のフェスティバルを体験できたことは、2016年というよりも50余年の人生の中でも特筆すべき出来事だった。
ピアノは残酷な楽器で、叩きだされたコードひとつで力量が知れてしまうが、カウフマンのピアノを聴けばその筋の良さが瞬速で伝わる。集中力も並外れている。瀬尾高志のフレキシブルな対応力には定評があるが、この日も楽器間の歩み寄りの「極み」と思えるような忘我の瞬間がいくつかあった。
一定の形や枠のあるコンポジションまたは能動的インプロヴィゼーション、団体または個人、古い音楽または新しい音楽、こういう風にラベルを貼っていく行為は人工的であり、物事の可能性を狭めてしまう。彼の目から見れば、すべての二元性は互いの極に包括されている。すべてのインプロヴィゼーションはコンポジションであり、すべてのコンポジションはインプロヴィゼーションとして始まる。
フランク・キンボロウ(p)は、唯一無二の美しいピアノ・タッチとメロディ・センスで知られ、現代ジャズ・ピアノの吟遊詩人ともいうべきアーティストだ。本作では、カーラ・ブレイ(p)、ポール・モチアン(ds)、アンドリュー・ヒル(p)、アネット・ピーコック、マリア・シュナイダー(arr・comp.)ら曲をカヴァーし、自らの30年を越す音楽キャリアで影響を受けたアーティストをオマージュしている。恩師ポール・ブレイ、アンドリュー・ヒル亡き後、その遺鉢を継ぐことをフランク・キンボロウは、静かに宣言した作品である。
今年2016年7月8日に、東京・永福町にある残響の美しいホールsonorium で行われた、コントラバス奏者・齋藤徹のライブコンサートの録音。
NY即興シーンで切磋琢磨し、イギリスへ戻った即興音楽の求道家が放つ鉱物的サウンド・スカルプチャー。インプロヴィゼーションの極意は半人半獣の女神の微笑に包まれる。
ニューヨーク・ジャズ・シーンのファースト・コール・ドラマーのルディ・ロイストンは、セカンド・アルバムの『Rise of Orion』で、前作のメンバーのジョン・イラバゴン(ts,ss)と中村恭士(b)とのトリオで、スポンテニアスに凝縮された音世界を構築した。今のルディ・ロイストンの心の葛藤の中から生み出された、自らに誠実なスピリチュアルなサウンドが響き渡るスマッシュ・ヒット作だ。
ビリー・ハートとクリストフ・シュヴァイツァーのふたりに共通する美点は、そのツボを押さえた大局的な音楽展開はもちろんのこと、音楽の血であり肉であるソウルフルなフィーリングが極めて自然に湧出する点にある。切り口は知的で多彩だが、いかなる時も音楽としてブレがない。
名古屋を拠点に活動するアルトサックス奏者・柳川芳命(やながわほうめい、数年前に「やながわよしのり」より改名)による、2016年のパフォーマンス集。4つのパフォーマンスを収録、そのすべてが共演者違い。レーベルは柳川自身が運営する極音舎。
アルトサックス奏者・望月治孝による2016年発表作。同年、静岡江崎ホールを借り切っての録音で、アルトサックス独奏。
その時代背景の中、パットから贈られた曲への作詞・録音風景など、パット・メセニー・ファンにも非常に興味深い映像となっている。
自然発生的な音で時空を満たしてゆくというインプロの事例には事欠かない昨今、ミクロレヴェルまで徹底して考察され、弾き尽くされ、かつ一音単位でも濃密に息吹く喜多直毅クアルテットの音楽づくりは、正統派のラディカルとして群を抜く。
シドニーを拠点に30年間独自の音楽活動を続けるピアノ・トリオTHE NECKSの初来日ツアー。アヴァンギャルドにして和み系、豪州の不可知な音楽集団のイマジネーション豊かなサウンドスケープは、聴き手の魂を啓く導きであった。。
幼少期から晩年に至る本人の貴重な映像と、ミュージシャン、家族、友人からの証言と、ジャコへのインタビュー映像から丹念に構築され、観客と想いを共有しながらともに旅していく第一級のドキュメンタリー映画
ピアノとサックスの楽器としての構造と基本に立脚したシンプルかつ美しい最高の音色と、巧みなダイナミクスのコントロール、それに基づくピアノとサックスの”完璧な”インタープレイに圧倒された。
41歳という若さで3管同時演奏という世にもまれな演奏方法と誰とも違った音の世界を探求し続け、命を絶つ直前まで演奏をし続けたカークの音への意欲は想像を絶する。
2016年12月26日にAlphonse Mouzon(アルフォンス・ムザーン)が68歳で他界してしまった。70年代にはファンク系で活躍、その他マイルスのDingoに出演し曲を提供したり、確かウェザー・リポートのオリジナルメンバーだった。
沼袋のオルガン・ジャズ倶楽部の存在は知っていたが足を踏み入れるのは初めてだ。B3(ハモンド)とレスリー・スピーカーに加えピアノも常設という稀有な存在。
この高倉健の特別展はプロジェクターや大小さまざまなデジタル・モニターを駆使したデジタル時代の新しい形態の美術展のひとつと言えるかも知れない。
多くの場合、神やキリストは「あなた」に置き換えられるので、とりようによってはラヴ・ソングとしても充分通用するだろう。
各パートの楽器が凄く明瞭に浮かぶ。まず、このマジックに、思わず音量を上げる。
弾き語り。ボリューム感で迫るボーカルの質感が、最大の聞き応え。