Jazz and Far Beyond
昨年の文化庁の補助金「Arts for the future!(AFF)に続き、Arts the future 2(AFF2)の受付が開始されてから約2ヶ月経つ。
Walterが初めてエアジンへ来たのは1990年ころだったろうか。ドイツ人のWalterは俺がドイツ語を少し話すのでビックリして喜んでいた。
自分の人生で最も密接に長い時間を共にしたピアニストだった。愛に溢れたあの笑顔。そして優しさに満ちたあの音色。もう一緒に演奏できないことを思うととても寂しい。
一緒に音を出したとき、音の先にもう一つ音があるような、そして音が体に浸透していくような感覚に誘われました。オリジナル曲はどれも美しく、シンプルでいて一つ一つの音に意味が込められた、心に響くものでした。
Walterの奏でるピアノの音がアンサンブルの中で宙に浮かんでいる感覚。Walterの音は、僕のベースの音に磁力なようなものでコネクトしていながら、そこに対して宙に浮いているという美しさを放っていた。それ以降、Walterの魂、美学が、永遠に生きた形として僕の体に残り続けている。
ウォルターの音が、いまも身体の中に残っている。そしてこれからも残り続けるだろう。ウォルターの音楽は生き続けている。
ウォルターの演奏にはverticalにも horizontalにもスペースが感じられ、音をブレンドさせていく楽しみを与えてくれる稀有なピアニストだと感動した。
一緒に音を出す時、私はいつも不思議と襟を正されるような気持ちになるのでした。ああ、こういう人もいるんだな。と
Walterは「ドイツでCDをレコーディングして、ツアーをしよう」と誘ってくれた。そして、今も私はドイツにいる。彼との出逢いが無ければ、今の自分は無い。私にとって運命の人、それがWalter Langだ。
旅を楽しみながら日本各地へ素晴らしい音楽を届けたナイスガイ。毎日のハードな移動の中、それぞれ異なる会場の響きやお客さんの呼吸などを楽しんでいたのだろう。
2018年にウォルター・ラング・トリオ大阪公演に行き、穏やかだが凛としたピアノの音色に触れ、躍動感に満ちたドベースとドラムに出会う。日本と縁の深いウォルター・ラング(p)は、これから何度も来日するだろうと思っていた。アトリエ澤野からのリリースのCD『Pure』が、まさか遺作になってしまうとは…
ウォルターの新曲をピアノとガットギターで演奏してみると、すべてが自然で、音楽が”流れ出し”ました。何も無理がなく静寂の中のシンプルな曲の数々が私を虜にしました。
ウォルターは、私にとって、師であり、友人であり、インスピレーションの源でした。
2007年1月13日に世を去った、マイケル・ブレッカー。その熱いプレイは、今も色褪せず、輝きをましている。1990年代から、マイケルの撮影を手がけた筆者が、その多くの写真とともに、彼との交流を振り返る。マイケルのスピリットは、生きている。
ビレッジ・バンガードは、その時のジャズをオンタイムで目の前で聴けた貴重な場所でもあった。
この3月17日に発表されたブラッド・メルドーのこの新譜には度肝を抜かれた。今まで知らなかったメルドーのグルーヴ感や、彼の音源オタク性を堪能させてもらった。プログレッシブ・ロックの名曲の数々を使って旧約聖書を紐解くメルドーの、この素晴らしいアルバムを分析してみた。
マイルスへやっと絞り出した問いが「あなたにとって創造とは何ですか?」。返ってきた答えは「創造とはエゴだ!」のひと言。
緊急事態宣言~マン防へと至る「魔の時代」の終焉を控え、ギアチェンジをしながら進む
学生の頃、沖縄・八重山の離島で宇宙というものを始めて見たのと同じように、ボクは、ニューヨークのアスター・プレイスで、本物のジャズと出会ったのだった。
1979.5.31 2:30AMと記されたビル・エヴァンスが愛人ローリー・ヴァホーミンに捧げたバラード
スカッとして心地良く、快感とでも言えそうな至高の”ブラジリアン・サウンド”、それに久々に触れた
若い世代の忌憚のない演奏を心底受け止め、2020年代の森山威男という大きな像が仁王立ちしている。
ジャズは、過去を、未来を、そして今を生きるわたしたちに寛容である、と吉野さんのソロアルバムは教えてくれた。
ここにはCON TONたるスープ「フリージャズ」がある。フリーであり、ジャズであること。それが騒乱武士の矜持だ。
神性を剥ぎ取られたパイプオルガンの音色は何と無垢で脆いのだろう。デルフィーネ・ドラのヴォーカライズが教会オルガンの空っぽの心を慈しみで満たす。21世紀の”歓喜の歌”は斯様にあるべきなのかもしれない。
4月にヒューマントラストシネマ渋谷でジャック・リヴェット映画祭が開催された。ここでは、特に音/音楽に比重を置き、今回のプログラムの作品を中心に、それ以外の作品にも触れつつリヴェットの映画に迫ってみたい。
コロナ禍を経て久しぶりの酒井俊の帰国ツアー。すべてが一期一会だ。
こぼれでる多様な音の変遷に動揺しつつ、次第に音の遠近が攪拌されてくる。それらの音がスコアへと収斂されていくさまが幻視され、逆方向のベクトルに絡めとられてゆくのだ。磁場としてのコンポジション。制御不能なものが還りゆく場所。その見果てぬうねり。
かたり読むこと。メロディを編み奏でること。双方ともシンプルな営みではあるが、捻りもない代わりに天井もない世界。それらは誰に向けて放たれたものなのか―その一点を照射しつつ、表現というもののラディカルな本質を突く。
絶え間ない転調によるテーマの持続は、いつしか奏者たちの耐久戦のような様相を帯び、あらゆる構えが取り払われて剥き出しの個性を露わにしてゆく。脱皮に立ち会うかのような清々しさ。これぞ「シュベルティアーデ」が目指す究極なのではないか。
どうしてそうなったかわからないけれど、結果面白ければ、いい音楽であれば、いいんじゃないかな。
マルチリード奏者・松風鉱一(1948年、静岡市生まれ)。現在は自身のカルテット、渋谷毅オーケストラ、エッセンシャル・エリントン、サックス・ワークショップ、今村祐司グループなどで活動している。あまりにも独創的なサウンドの魅力は昔もいまもまったく色あせていない。