Jazz and Far Beyond

多くのブラック・ピープルにとって、根拠地=ホームとは、教会であること。
The Queen Of Soul、アレサ・フランクリンが他界してしまった。アレサのもっともヒットした曲、<Respect>と、同年に同じようにヒットした<ナチュラル・ウーマン>は、アメリカの公民権問題に多大な影響を及ぼした。今回は趣向を変え歴史を紐解いてみた。また、この曲<Respect>の構成の面白さも解説。
「ソウルの女王」というのもよく解ったが、ジャンルを超えたシンガーだと痛感した。私は彼女に比較的近い良い席にいてよく見えたが、私と同じ人間とは思えない程の存在感とオーラがあった。
どれほど厳しいことがあったとしても、彼は私の人生において、個人的にも音楽的にも、かけがえのない存在だった
アンソニー・ジャクソンの参加作品を超個人的な視点で10点選んでみた
デイヴィッド・マレイ(ts)、ピーター・ウォーレン(b) とともに私のバンド「スペシャル・エディション」に参加してくれるよう頼み込んだ。それは素晴らしい音楽の出会いとなり、「スペシャル・エディション」は永く語り継がれるバンドとなった。
私はベニー・ゴルソンが耳元で、「いいかい、彼のトーン、彼のサウンドだ。よく聴いておくんだぞ」と囁いたのをはっきりと覚えている。アーサー・ブライスが“トーン・マスター”であることをベニー・ゴルソンが認めたのだ。
僕は彼の流麗でソウルフルなサウンドが好きだった。そして時に聞かせるあの泣き節がね。
アバンギャルドという看板を背負わされたことを嫌い、黒人文化と黒人音楽の伝統を守りながら驚くべきクリエイティビティーを世に残したアーサー・ブライスだったが、商業的に成功しなかったことに苦悩し、パーキンソン氏病に倒れた彼の真のジャズ・アーティストとしての姿を分析してみると同時に、ジャズ・ラテンという曖昧なスタイルの解析も試みてみた。
室館彩の声が気に入り、ドイツへ連れて行き翌年CDを地底レコードでリリースした。
Walterが初めてエアジンへ来たのは1990年ころだったろうか。ドイツ人のWalterは俺がドイツ語を少し話すのでビックリして喜んでいた。
自分の人生で最も密接に長い時間を共にしたピアニストだった。愛に溢れたあの笑顔。そして優しさに満ちたあの音色。もう一緒に演奏できないことを思うととても寂しい。
一緒に音を出したとき、音の先にもう一つ音があるような、そして音が体に浸透していくような感覚に誘われました。オリジナル曲はどれも美しく、シンプルでいて一つ一つの音に意味が込められた、心に響くものでした。
Walterの奏でるピアノの音がアンサンブルの中で宙に浮かんでいる感覚。Walterの音は、僕のベースの音に磁力なようなものでコネクトしていながら、そこに対して宙に浮いているという美しさを放っていた。それ以降、Walterの魂、美学が、永遠に生きた形として僕の体に残り続けている。
ウォルターの音が、いまも身体の中に残っている。そしてこれからも残り続けるだろう。ウォルターの音楽は生き続けている。
ウォルターの演奏にはverticalにも horizontalにもスペースが感じられ、音をブレンドさせていく楽しみを与えてくれる稀有なピアニストだと感動した。
一緒に音を出す時、私はいつも不思議と襟を正されるような気持ちになるのでした。ああ、こういう人もいるんだな。と
Walterは「ドイツでCDをレコーディングして、ツアーをしよう」と誘ってくれた。そして、今も私はドイツにいる。彼との出逢いが無ければ、今の自分は無い。私にとって運命の人、それがWalter Langだ。
旅を楽しみながら日本各地へ素晴らしい音楽を届けたナイスガイ。毎日のハードな移動の中、それぞれ異なる会場の響きやお客さんの呼吸などを楽しんでいたのだろう。
2018年にウォルター・ラング・トリオ大阪公演に行き、穏やかだが凛としたピアノの音色に触れ、躍動感に満ちたドベースとドラムに出会う。日本と縁の深いウォルター・ラング(p)は、これから何度も来日するだろうと思っていた。アトリエ澤野からのリリースのCD『Pure』が、まさか遺作になってしまうとは…
ウォルターの新曲をピアノとガットギターで演奏してみると、すべてが自然で、音楽が”流れ出し”ました。何も無理がなく静寂の中のシンプルな曲の数々が私を虜にしました。
ウォルターは、私にとって、師であり、友人であり、インスピレーションの源でした。
今や待っていた友だち連中とジャムセッションしているだろうと祈るばかりだ。「偲ぶ」の文字がにんべんに「思う」で出来ているのは絶妙だ。享年89歳、よくやった、エルメート。
歳を重ねて老化するよりも、少年化した、とも見え、聞こえた。
パスコアールのマインドに共振するミュージシャンは世界中にいて、これからも果てしなく、名演が生み出されていくのだろう。
なんとエルメートさんが、私達にわずか16分で曲を書いてくださりました。
エルメートの音楽的遺産を受け継いだ者たちによる拡がりを受け取ること、それがいまエルメートを聴くということである。
パスコアールのディスコグラフィーのどこに針を落としても、そこには魔法が宿っている。
天才エルメートがとうとう亡くなってしまった。数年前に彼に頂いた曲が宝だ。エルメート作品の特徴がよく表れている作品の解説を試みた。彼の音楽に触れてからもう38年。今回この楽曲解説を書くにあたり、彼の天才性を再確認した。
1976年、エンニオ・モリコーネがコンポーザー/トランペッターとしてGruppo di Improvvisazione Nuova Consonanzaに在籍時代の貴重な写真。
しかし、モリコーネの音楽だけは、映画という物語性を伴う視覚メディアのお陰もあって、真に大衆の中に息づいているのは疑いない。これまでも、そしてこれからも。モリコーネが再来する事はないだろう。
心の奥まで染み入る温かいものを感じさせてくれる「モリコーネ・マジック」は、氏の持つ作曲 テクニックや才能だけの賜物ではないと思う。それは、エンニオ・モリコーネ自身の人間性の現 れではないだろうか。
モリコーネは、映画とはどうあるべきかを知り尽くし、真に映画を愛した偉大な芸術家だった。
映画のストーリーに没入しながらこのメロディが流れてくると男性でも涙腺が緩むのではないだろうか?女性のピアノ弾きが競ってマスターしたがるのも容易にうなづける美しい曲だ。
クリエイティヴなアイディアと暖かいサウンドが好きだった。
帰国後日本で活動を開始したぼくは、お世話になった師匠ネイサン・デイヴィスに恩返しをと思ってツアーとレコーディングを組みました。その際に一緒に来日してくれたのが、ファンキージャズの巨匠カーティス・フラーでした。
ファンキーで、アーシーで、情熱的で、ロマンチックで、私を暖かい音で包んでくれるあなたが、いつまでもヒーローです。
ハードバップ期を代表するトロンボーン・プレイヤー、カーティス・フラー。その晩年のハイライト、2018年、故郷のデトロイト・ジャズ・フェスティヴァルで長年の功績が顕彰された。フラーが青春を過ごした、デトロイト時代に迫る。
アート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズで親しんだカーティス・フラーが86歳で他界し、ひとつの時代が幕を閉じた感だ。温和な性格と反対にすごいテクニックで攻撃的な演奏を世に残したカーティスは、キャッチーでグルーヴする名曲も数多く残した。その中から、ジャズに非常に不適格な童謡をアレンジした彼の手法を解説。そのアレンジ上でのウェイン・ショーターのソロの解説も試みた。
カーラ・ブレイ『Escalator Over The Hill』はとても異様なアルバムです。それは音楽の指向がポール・ヘインズによるテキスト=現代詩の抽象性と完璧に嚙み合った結果だと私は考えています。音楽単体でこの異様さに辿り着いたのではないはずです。
カーラにはサティやモンポウ、あるいはセロニアス・モンクの作品と同じくらいよく練られた作品がたくさんある。(マンフレート・アイヒャー)
Carla Bleyを初めて聴いたのは、大学のビッグバンドの先輩が部室に持ってきたカセットテープに録音された『Live!』でした。
彼女の死はあまりにも悲しいけれど、本当に素晴らしい曲と演奏をたくさん残してくれてくれた彼女に尊敬と感謝しかない。
真冬の極寒のセッションだったが、この時もカーラの手製のサウンドイッチに救われたのだった。
僕の中ではぽっかり穴が空いてしまった。カーラの残した美しい宝物のような世界に埋もれ現実逃避して、さらに存在感が増す。しかしこの先は新しいものが生まれてくる事はない。
作曲とインプロビゼーションの間に広がる宇宙、どんな楽器もスタイルも取り込んでしまうハッピーな演奏。現代の音楽の世界を豊かに押し広げてくれた。
文筆家は言葉で、音楽家は音で世界のありようを表現する。国境も主義も宗教も超えた問答無用の生命への讃歌。それは人の心の深いところで静かにしかし凛然と響き続ける。
二人とも派手なプレイはせず、ただただ淡々と音を紡いでいく、でも音楽はじわっ、じわっと温かくなっていく。それはそれは素敵なコンサートでした。
美しいサウンドの中には絶妙に配合されたポイズンが彼女特有のエッセンスになり、どれだけの影響を自分に与えてくれたことか。
「私の子供のような”Lawns”に新しい命を吹き込んでくれてありがとう」と宝物のメッセージがカーラより届きました。
カーラの音楽の最大の魅力は、その本質的なエロスにあり、しかも動物的なものというよりは、毒性を持った熱帯性植物に近いような気がします。
プロデュースしていた「東京JAZZ」にカーラに出演してもらうのがずっと夢だった。
カーラは真に「独立」した音楽家だった。ジャズに於けるインディーズの在り様を突き詰め、あらゆる困難に対して一歩もひかない怯まない姿勢を示し通した大きな存在だ。
カーラの70年代は、様々な音楽のエッセンスや個人の才能を取りまとめ一つの流れの中に消化していくことから生まれるものを音楽にする、実験的な工程で作っていたと思っています。
2023年10月17日に87歳で亡くなったピアニストで作編曲家のカーラ・ブレイを偲んで、カーラを深く敬愛していた大友良英によるふたつのプログラムが放送された。期間限定で配信で聴くことができる。
偉大な作編曲家であり、運動家であり、ちょっと怖いけどユーモアたっぷりのCarla Bley (カーラ・ブレイ) が他界してしまった。George Russell (ジョージ・ラッセル) 繋がりで親近感があったのにあまり知らなかったカーラだが、面白いインタビューを見つけたのでそれを含めてユーモアたっぷりのこの1曲を解説してみると、カーラの凄さを改めて思い知った。
カーラ・ブレイの作曲面でのアプローチ、既成のイディオムに縛られず、独自のメロディー・ラインやコード進行に依る世界はジャズにおける作曲と即興演奏を再定義させるもので、直接的、間接的に多くのミュージシャンに影響を与え、現代のジャズに繋がっている。
と、バッタリ、ガトー・バルビエリと出会う。黒いハット、枯れ草色のコットン・ジャケットに、赤白ストライプのシャツ。 「Hi ! ガトー、たったいま『ラスト・タンゴ・イン・パリス』を観てきたよ」 ちょっと、キョトンとしていたけれども、ドン・チェリーの奥さんが、ゆっくりていねいに、伝えてくれる。
そして、ガトー独自の他の誰のものでもない音楽がついに完成したのは、1973年から1975年にかけてImpulse! に残された『Latin America』4部作だと思う。
ガトーのヴォイスは、コルトレーンの影響は別にして、つねにヤン・ガルバレクの根源に通底するものだ。叙情的な歌い方、刺激的なメロディーと活力に満ちたラインを通して僕らの魂を揺り動かし、とろけさせてしまう。
今回の楽曲解説はいつもの楽理的な立場と少し目先を変えてみたい。筆者がなぜこのアルバムを好んでいないかというと、それはこのバンドのタイム感に対して居心地が悪くてしようがないからなのである。
私は、生涯の友であり、初めて聴いたときから憧憬の念を抱き続けてきた音楽家を失うことになった。(マンフレート・アイヒャー)
ミラノ在住の写真家ロベルト・マゾッティによるゲイリー・ピーコック写真集。初めて公開される写真も含まれている。
「ベースだけど、音に囲まれたような空間に、出来ないか?」
2017年秋のニューヨークに滞在中、ジャズクラブ「ジャズ・スタンダード」にゲイリー・ピーコック・トリオが出演していて、元気なゲイリーに会うことができた。
「即興の基本は耳を使うこと」、「 “体験” しないとノイズが音楽へ変わるプロセス、サムシングは、理解し難い」、「(自分の)チョイスは、スタンダードであろうと、フリーであろうと、何でもプレイする事さ」
京都で暮らしていたということも、そのプレイスタイルに大きな影響を与えたであろうと考えると、日本人として嬉しくもあり、一方、同じベーシストとして、しかも京都で学生時代を過ごしていた身としては、ちょっと悔しい思いもあります。
参加している演奏はどれも魔法をかけたように特別なものとなる様から、ゲイリー・ピーコックさんは僕にとっては魔法使いとなりました。
3人で荒れ狂う海に飛び込んで行く。3人とも溺れてしまう事もあるけど、見た事もない楽園に3人同時に辿り着く事もあるのです。音楽でリスクを侵す事を恐れてはいけません。
ゲイリーの演奏を聴いているとベースを弾いているということを忘れてしまう。ベースを弾いている、ということ以上に彼の内にあるものが強く伝わってくる。このような気持ちになる演奏家は決して多くない。
プーは私と一緒に音楽を通じて、菊地雅章とは誰かということを証明したがっていた。一緒にやることによって、自分自身を証明し、同時にプーは“ゲイリー・ピーコックは誰か”をも音楽を通じて見抜こう、探り出そうとしていた。(ゲイリー・ピーコック)
日本が波長に合うのか本当に日本が好きだったようです。
小川先生の話ではゲイリーさんはアメリカでかなり体調を壊し、久司道夫先生に相談して、マクロビオティックを勧められ、その哲学や食事法を学ぶために家族で来日して京都に住み、時に東京にきて天味で食事をし、久司先生から紹介された小川先生と会っていたものと思われる。
つまり、日本の伝統的な文化を学びたいからです。西洋と東洋の...精神は、相反するものです。私は、日本の精神の中からたくさん学ぶことがあると思っています。
Garyは Be-Bop の影響があまり聴こえないベーシストですが、4/4 でスイングする時のグルーブは強力です。また、こんなにスペースを感じられるベーシストは稀だと思います。
その頃ゲイリーさんは太極拳やマクロビオティックをやっていて 小さな玄米のおにぎり持ってきて食べていたのを覚えてます。
ゲイリー・ピーコックにつながる僕個人の最大の軌跡は、1994年の菊地雅章、ゲイリー・ピーコック、富樫雅彦のトリオによる「Great 3」である。
マイルスのひと言で開眼し、独自の音楽宇宙を創造したゲイリー・ピーコックの功績は大きい。だがそれは彼が持って生まれた才能に依存する部分が大きい。筆者がお気に入りの、ゲイリーのアルバム『Guamba』を取り上げてみた。ゲイリーが描く宇宙をしっかりと理解して、共同体として存在するメンバーの一人一人の素晴らしさや、高度な技法で書かれたゲイリーのオリジナル、<Celina>を解説。
この日3人の中ではいちばん調子がいいゲイリーのプレイは相変わらずカッコ良かったし、モチアンも彼にしかできない独特の間合いでイマジネーションを広げていった。
即興演奏家の個性というものは、例えるなら“聴く”という共通・共有な土壌の上に咲いた花だ。その花には色々な種類、色、香りなどあるけど育っている土壌は変わらない。
キース・ジャレット、菊地雅章、富樫昌彦、村上寛、佐藤允彦、山本邦山らとの共演で知られるゲイリー・ピーコックが9月4日、自宅で穏やかに息を引き取った。
ジェリは、純な心と芸術性を映し出す極上のプリズムとして輝いていたし、今も輝き続けている
1980年代半ばにニューヨークのジャズ・シーンに鮮烈なデビューを飾り、その美しくもアグレッシヴなピアノ・プレイで駆け抜け6月27日に早すぎる人生の幕を閉じたジェリ・アレン。2000年代の写真を中心にして、哀悼を捧げたい。
女性ミュージシャンのジャズ界への貢献ということならば、メリー・ルー・ウィリアムズに続くものではないだろうか。意志の強さを感じさせる明確なタッチとリリシズムを内在させた明晰なピアニズムは、時代を超えて聴き継がれていくに違いない。
生涯現役で音楽の道を走り抜けたピアニスト、ジェリ・アレン。NYのミュージシャン達にとって彼女はどのような存在だったのだろうか?ジェリの参加した名盤と共にその軌跡を振り返る。
1トラック目から聴き始め、ぶっ飛びまくった。カーターとウイリアムスのグルーヴはマイルス時代よりさらに進化しているのに加え、ジェリは抜群のタイムの位置でグルーヴしまくりだ。
ミュージシャンの死亡記事を目にするのが嫌いだったジェレミーの遺言で、彼の死亡は死後半月後に公告され、NYタイムスが取り上げたのも6月2日付けだった。
photo:Yu KUSANO 草野 裕
ほんの1週間前の、ヘロヘロ苦汁のエヴァンスとはまったく別人かと思わせるほどの活性化である。明白に、スタイグは、トリオを凄まじくも。扇情的にあおり続ける。ゴメスとマーティ・モレルは、ただただリズムを正確に刻んでさえいれば、用が足りた。
私の関わらせていただいた録りの中でも、これほど一気に我々スタッフのお腹の中をもエグるように通り過ぎて行ったライヴ録音は無かったのではないでしょうか。及川氏の凄技をいっぱいソバで見てきましたが痛烈に印象深い録りの一つです。
ジャズ・フルート奏者のソロをどれか1曲だけ聴くなら、ジェレミー・スタイグの<オレオ>に限る、ということだ。この衝動を抑えきれない演奏のスピリットはいつの時代にあっても(そして今後も)最高のジャズ・フルート・ソロの1つの典型であり、われわれすべての者にとってのギフトだからだ。
唯一、鮮明に覚えていることは『What’s New』に関する質問への答え。「あの、セッションは計画されたものではなかったんだよ。
ジェレミー・スタイグが亡くなってしまった
スタイグさん、息を吹き込む雑音的な音も重要なサウンドなのだ。うなり声も重要なのだ。鬼気迫るとはこれだ..。
あらゆる選択肢、あらゆる解決策に心を開き、瞬間ごとの魔法を見出す、まさに完全なミュージシャンであった。
マンフレート・アイヒャーとジャック・ディジョネット
ジャックはストリートの雰囲気と、彼自身の内なる非常に個性的な、そして明確なビジョンを彼が奏でるすべての音に注ぎ込んだ。
ジャック、愛しています💌 いつでも、いつまでも。
彼のドラムを通して発せられる音楽的・魔法的な感性は、遠く近くにいる私たちすべてを魅了し続けてきた。
縞はリズムだとう云うことを彼は表現してくれた。
ジャックの音の綺麗なこと、ダイナミクスの凄さに驚いた。
スイング感、スピード感は数値的な速度は超越した域に達し、なのに景色がゆったりと見える。これは時空を超えたプレイだと思う。
ここでは中学生が一夜のライブで受けた衝撃を恥ずかしげもなくさらして、稀有なドラマーに弔意を表したい。
魔法のような音楽が目の前で繰り広げられ、繊細な打楽器なのにメロディーを奏でる対旋律のようなドラミングはこれまで聞いた事もないジャズで、ジャズが芸術であると強く認識させられました。
ゴールデンビームの精神と、その存在が与えてくれたもの。
そしてその魂は、生き続ける。
素晴らしいドラマーでありピアニストであり作曲家であり、彼の”リズムの推進力”にいつも呆然とさせられた。
同じ演奏を繰り返し聴いても、耳が肥えていくに従い、次々と新たな発見があるという現象は、優れたミュージシャンのレコードによく起こりますが、ディジョネットの演奏はそれにとどまらない巨大な「謎」として常に私の中で輝きを放っています。
僕にとってのECM名盤の数々には高い確率でジャック・ディジョネットがいた。ドラマーというより音楽家 で、常に謙虚で驕りが無く大らかで誠実なプレイをする人だった。
学生時代に衝撃を受けたアルバムには必ずディジョネットが参加しその音楽に心酔していました。シンバルレガートの音は唯一無二の美しさでした。もしピアニストとしての道を歩んでいたら。。
「最高到達点レベルで音楽的」というドラムプレイについては何をか言わんやという感じですが、ジャズ作品の中でも十指に入ると感じている二作品の時間軸が重なっていたという奇跡「1988年3月のジャック・ディジョネット」のことを少しご紹介してみようかと‥
リズムのフォームに寄り添ったスタイルではなく、まるでメロディーを紡いでいくような独特な歌い口が特徴で、どこにビートの中心があるのかもわからないほどの自由なリズムの作り方に驚き惑わされながらも圧倒される。
『Keith Jarrett / Standards Vol.1』が僕にとってのスタンダードジャズ演奏の原点かもしれません。キースの独特のスタイルだけでなく、ジャックとゲイリーが織りなす優雅で深遠なアプローチがあったからこそだと思います。
繰り返し聴く中で、最初はただ圧倒されるばかりだった音の連なりが、ある日ふと、ほんの少し輪郭を持って近づいてくる瞬間がありました。その時、自分の中のどこかが静かに育っていく音がしました。そのゆっくりとした変化こそが、私にとっての確かな喜びでした。
人は亡くなっても世界は変わらない。けれど、その人を想い続ける限り、その人の世界は私たちの中で変わり続ける――。
エルビン・ジョーンズ以降の圧倒的ドラムイノベーターが何を聴き、何を大切にしてその境地に辿り着いたのか?
「すごい」演奏での「すごさ」は、あくまで音楽家の能力の極一部にすぎません。評価すべきは総合力なのです。そしてディジョネットはまさにその総合力に於いて群を抜いた人物でした。
謎なフレーズが多数なドラマーです。これはジャックがピアノが達者な事と大いに関係があると思います。また、ネイティブ・アメリカンの血筋である事も彼の音楽性に反映されているのではないでしょうか。
彼の演奏は、純粋な芸術で、スイングとエネルギーに満ち溢れています。素晴らしいピアニストでもあり、作曲家でもあり、天賦の才能に溢れた完全な音楽家でした。
スペシャル・エディションは、僕の青春でした。
ミュージシャンにとっての課題は、自分自身の声を貫く勇気を持つことだ
ジャズの歴史のあちらこちらに功績を残したディジョネットがとうとう亡くなってしまった。マイルスとの関係やディジョネットの特殊なドラミングと、ドルフィーに捧げたこの曲の解説を試みた。
ジャックからラヴィ・コルトレーンとマシュー・ギャリソンを通じて次の世代にジャズのスピリットから引き継がれテイク現場に立ち会った。
ECMを代表するドラマーであり、自身の”スペシャル・エディション”の他、キース・ジャレット、チャールス・ロイド、パット・メセニー、マイケル・ブレッカー、マイルス・デイヴィスらと共演して来たジャック・ディジョネットが10月26日、鬱血性心不全のためニューヨーク州で83歳で亡くなった。
2019年7月6日に88歳で亡くなった”ボサノヴァの神様”ジョアン・ジルベルト。2008年のコンサートを最後に人前から姿を消していたが、生前リオデジャネイロでその行方を探したドキュメンタリー。亡くなったドイツ人ジャーナリスト、マーク・フィシャーの本を引き継いで、ジョルジュ・ガシュ監督自らが元妻ミウシャなどミュージシャンたちや周辺の人々に出会いながらジョアンの姿を追う。
ついにジョアンが亡くなった。愛聴するデビュー時の三枚を集めたCD『ジョアン・ジルベルトの伝説』をかける。この歌い手がこの世にいないと思って聴くと、いつもと違う寂しさが湧きあがってくる。
翌年のカーネギーホール、さらなる来日もあったけれど、やはり最高の思い出となるのは2003年の来日公演だ。
僕とボサ・ノヴァとの出会いは、1965年夏に観たMGM映画『クレイジー・ジャンボリー』だった。
ボサノバの生みの親と言われるジョアン・ジルベルトが他界した。一つの時代の終幕である。自作曲を多く残したわけでもないジョアンがどうしてこうまで歴史に名を残したのか、その謎の解明に挑戦。同時に歴史上最初のボサノバ曲と言われる、アントニオ・カルロス・ジョビンの名曲<Chega de saudade>を楽曲解説。
ジャズ・バラードとリリシズムを特徴とする『39 Steps』(ECM) について、ロンドン・ジャズ・ニュースは “アルバム全体から醸し出される質の高い優美さ、確かさ。4人の匠による完璧なレコーディング” と評した。
筆者が苦手なアバクロ、筆者がなぜアバクロが苦手なのかの解説に挑戦。一方アバクロのお気に入りアルバム、『Night』からプログレ系名曲<3 East>を題材に、このアバクロ作品の魅力や、ヤン・ハマー、ディジョネット、マイケル・ブレッカー等の共演者の凄さを解説。
ジャズの故郷ニューオリンズで長年開催されてきている『ニューオリンズ・ジャズ&ヘリテイジ・フェスティバル』もジョージ・ウィーンの発案で、1973年には出演の機会も頂いた。
でっぷりとしたお腹周りに鷲鼻の禿頭はいかにもニューヨークのジャズ界を仕切るドンという印象だった。
2007、2008年は共にJVCニューポート・ジャズ・フェス、2015はオフィスでのジョージ・ウィーン
ジョージ・ウィーンは、あるとき、マスコミに向かって、妻君を紹介したのである。妻君は意外にも“エボニー・クイーン”であったのだ。
ジョージ・ウィーンは1950年地元ボストンにジャズクラブStoryvilleを開店、翌51年レーベルStoryvilleを開設した。
そんな彼の音は、柔らかい音質の中にも輪郭がはっきりしており、特にアルコは素晴らしく、さすがにクラシックを身に付けたベーシストです。
追悼 ジョージ・ムラーツ
私の望むベースのサウンドとジョージ・ムラーツの望むサウンドとは一致したのだ。
ピアノ・トリオの魔術師、ジョージ・ムラーツが亡くなってしまった。実に色々なグループで楽しませてくれたベーシストだ。追従を許さなかった彼の特殊なスタイルや、ジャズに於けるベーシストの役割を超越していた彼の音楽を、リッチー・バイラークとのインタープレイを引き合いに出して解説。
ジョージ・ムラーツとミロスラフ・ヴィトウス、同時代のジャズ・シーンを生きながらそれぞれが独自の道を歩んだ二人の偉大なチェコ・ジャズ・ベーシストのひとりが地上から姿を消した。
50年以上前の一夜、人気トリオにとってはびーた(旅)の一日にすぎなかったかもしれないステージを、会場最年少の客は今でも忘れていない
エリス・マルサリス、ウォレス・ルーニーのコロナ禍による死亡が伝えられた。この分ではあと何人の犠牲者がジャズ界から現れるかもしれず、この事態を深く憂慮せざるをえない。
ジョージさんの音楽がよくスイングしていたのは衆目の一致するところですが、才能と経験と強い意志のもっと奥の方で美しい音楽に対する憧れがあったような気がします。
ジョージ大塚の内外にわたる多彩な活動を思い出の写真とともにたどる
ジョージのドラミングは、スイングを止揚したかとまで思わせる「スプリング」である。
ジャック(ディジョネット)のドラムはよく歌い、しなやかさが特徴だがジョージさんもまったく同じ。スケールが大きいところも共通している。
1978年5月、NYサウンド・アイディア・スタジオでのジョージ大塚「マラカイボ・コーンポーン」をプロデュースする菊地雅章。多くの “ECMアーチスト” が参加した。
デトロイト・ジャズ・フェスティバル 2016、スタンリー・カウエルはクインテットを率いて出演、見事な演奏を披露した。
マックス・ローチのバンドで出会ったスタンリーと僕の絆は永遠に不滅である。
われわれはカウエルの作品を徹底的に検証する必要があるということです。そこには今後何十年間にもわたって世界中のミュージシャンに資する高度に先進的な宝の山があるということです。
それでも、最高のレコードが残っているので、これからの世代は、ひとりのピアニストがいかにして宇宙全体の可能性を指揮することができるかを見る機会には事欠かないと言えよう。
そのメロディはどこまでも美しく、どこか “内奥の源泉” から紡ぎ出されたものに違いなかった。
<エクイポイズ(equipoise)>とは“完璧にバランスのとれた状態”のこと。それこそがカウエルさんの信条だったのだと思います。
去る2020年12月17日に他界したスタンリー・カウエル、Strata-East レーベルの創始者として歴史に名を残し、また数多くの作品を残したが、ネットに流れたほとんどの追悼記事はカウエルを過小評価されていたアーティストとした。カウエルの演奏を分析しているうちに彼の演奏の特殊性に気が付き、解説を試みた。また、彼が使用していたKymaシステムも解説。
ストラータ・イーストからリリースされるアルバムは、レーベルの意向を受けることなくミュージシャンが本来志向する音楽をストレートに表出することができた。
私は声にしなければならない。
「いでよ、今一人の異端者!今一人のセシル・テイラー!」
ベルリンで接したテイラーはリラックスして自然体だった。周囲に彼の音楽の理解者が多くいるベルリンの空気に馴染んでいたのかもしれない。偉大なるモダニストの死に、心から哀悼の誠を捧げたい。
そんなセシルが帰国する直前、出来たらもう一度日本へ来たいし、住んでもみたいと語ったのは、決して外交辞令的な発言ではなく、半ば本心だったのではないかと私は思っている。
セシル・テイラー89歳にて逝く。この文字をインターネットの画面で読んで「ついに」の感にまず襲われた。彼の存在はぼくには特別だった。
セロニアスに似て、全く誰のようでもない「間」。デュークに似て、壮大なオーケストレイション。そして、すぐれてパーカッシヴでありながらも、誰よりもよく「うたう」のがセシル・テイラーというわけです。
他界してしまったセシル・テイラー。彼がライフ・ワークとしたフリーインプロビゼーションではなく、彼のデビューアルバムからオリジナルのブルース曲を取り上げた。分析して初めてセシルのヴォイシングがコード進行に忠実だったことを発見、また、セシルが曲のフォームをいかに尊重していたかなどに焦点をあててみた。
ここ数年セシルに会いたいと思ってきたけど、果たせなかった。そして、彼は逝ってしまった…。
Above three in Rav
Yes, that is a big loss!
これまでに何人もの偉大なジャズ・ピアニストを体感して来たが、セシル・テイラー以上にエレガントなパフォーマンスをする人はいなかった。
セシルも富樫さんももうこの世にはいないけれど、地球の自然に捧げた祈りは、続いていかなければ。
ピアノに向かわれるやいなや、お香を焚かれた。
1973年5月22日セシル・テイラー・ユニット@新宿厚生年金会館大ホール。アキサキラ(サワヒリ語で沸騰するの意)を捉えたトリオレコード営業部のアマチュア・カメラマン石井隆の遺作展。
70年代のセシルの音楽には、都節(みやこぶし)音階という日本の音階がふんだんにでてきます。(中略)あれだけ強烈に自在に弾き倒しておいて、最後が能楽の「音取り」のようになって終わる。おおっ!と思いましたね。
私たちはセシル・テイラーの音楽をどう聴けばよいのか。トニー・オクスレーはかつてこう言った。「セシルの音楽をモダーン・ミュージックのように決してシリアスに捉える必要はない。とても自由でエナジーに満ちていて、僕は演奏していてもとても楽しい」。そして付け加えた。「ただココロを開いて聴けばいいのだ」と。
セシル・テイラーはエリントン同様に音楽家として屹立した存在だ。今回再びそのステージを観て、彼が追求してきたのは、あくまでもパーソナルな音楽であり、世界だということを強く感じたのである。
セシル・テイラーの場合、ダンスや所作がセシルにまつわるあらゆることと無関係でなくなってくる。
フリージャズ・ファンのアメリカ人コレクターを経由して入手したセシル・テイラーの海賊版。1983年のスイス、ヴィリザウでのライヴ録音だ。
「セ~シル・テイラー・ユ~ニット!!」。レコードに針を下ろすといきなりMCの絶叫する声が耳に飛び込んでくる。悠 雅彦氏の壮年の声である。そして、その声にかぶるようにしてピアノが、アルトサックスが、そして、ドラムスが雪崩を打って出てくる。
終始すべてを見透かしているかのように演奏を引っ張っていたのはセシル・テイラーだったことは否めない。それでも、異なる個性がぶつかり合い、二台のピアノがシンクロし、共鳴しする醍醐味は、この二人の共演ならではの出来事だったといえる。
ソニー・シモンズは大胆不敵な広大な空間の探求者であり、その空間に内在するリズムの可能性を熟知していた。
バート・ウィルソンは、ソニー・シモンズこそコルトレーン亡き後、彼の衣鉢を継ぐべき人であった、と固く信じていた。
ソニー・シモンズはサックス奏者として知られているが、ソニー自身は最初の楽器、イングリッシュ・ホルンあるいはコーラングレ奏者と自認している。
え、なんだかんだと牽強付会したところで、つまりはフリージャズだろうって。そうだ、これこそ「真性のフリージャズ、ニュー・シング、新しきもの」だ。
氏はすぐさま快くペンを走らせてくれたのだが、なんとそのペン先からインクがまともに出て来ない!
That is why, when we listen to Sonny Rollins,
it feels less like listening to music
and more like entering into a dialogue with life itself.
購入して保有していたパンフレットのおかげで63年前の微かな記憶が..
ソニー・ロリンズの日本ツアーには増尾好秋の他に菊地雅章も出演していた。
そのインスピレーションは21世紀の今も私たちの中に生き続けています。
音楽以前に一人の人間として生きることを真剣に考えているような印象を受けましたね。
ある意味ぼくの愛し・憧れ・生きた、モダンジャズの時代はほぼ終わった
いまの私は「政治的」と呼ばれるよりも、あらゆる事柄に対して「先見的・能動的」な人間でありたい、と言い換えたい
とうとうソニー・ロリンズが逝ってしまった。あの図太い音と、グルーヴと共に湯水のように溢れ出る飽きさせないインプロビゼーションと優れた作曲能力。ロリンズの謎も含めて名曲<エアジン>を解説。
あの豪快でダイナミックな圧倒的な素晴らしい演奏に最初はあっけにとられてしばし写真を撮るのも忘れて聴いていた自分がいた
ソニー・ロリンズは大の親日家で1963年の初来日から2010年の80歳記念ツアーまでしばしば日本を訪れている。 写真は1968年、2度目の来日時のもので、まだこの頃はサックスにマイクを着けていなかったので生の音が聴けた。ロリンズは興が乗ってくるとステージ中央のマイクから離れ、舞台の端から端まで吹きながら歩くのが常であったがノン・マイクでもロリンズのテナーは美しい音で客席を満たしてくれた。
今、流転を経たうえで「かもめ」を聴いている。生活の各方面で負の力にめげそうになるなか、フローラの声とチックのフェンダー・ピアノは、懐かしさ以上に、深く心に響く。ラブではなくピースを歌っている。ただし何か行動を促すメッセージはない。この絶対的な平安は涅槃の境地ではないかと近頃思う。
ジャズを始めたきっかけは?
と訊かれれば、僕は必ず「Chick Coreaとの出逢い」と答える。
「Now He Sings. Now He Sobs」は最大級のインパクトでした。先ず、アルバムタイトルからして自分が描いていたJAZZのイメージをはるかに超えた意思、「向かい合わざるを得ない」なにものかを感じたものです。
小学校4年生でエレクトーンのコンクールに向けて曲を探していた時、楽器店の方が「これを聴いてみて!」と一枚のCDを渡してくれました。それが『Friends』。聴いた瞬間に衝撃を受け、何度も聴いてメロディーを口ずさんでいました。
アブストラクトなメロディーでも、リズムがハッキリある事からその楽しさを拾う事も出来る。例えば初期のバンド、サークルでもどれだけフリーキーな演奏になってもメンバーによるメロディーというオモチャ箱を使った音遊びという感じにも取れると感じる。
楽器に触れたい、作曲したい、演奏したいと思っている人たちは、そうしなさい。自分自身のためでなければ、皆んなのために。世の中が不要だと言えば、自分が楽しむためにやればいい
チック・コリアが念願する「より多くの聴衆とのコミュニケーション」は単に音楽上の希求ではなかった。彼を駆りたてるもの、それは彼が信奉する応用哲学(アプライド・フィロソフィー)、サイエントロジーなのである。
この頃、明るい太陽とカモメがチックのシンボル的存在だったのだ。
ゴンサロ・ルバルカバに彼の特殊奏法について実演付きで教えを乞うていたのを目撃した。チックほどのピアニストが、と思いながら見ていた。
ゲイリー・バートンとのデュオや『ピアノ・インプロビゼーションズ』等の作品は多いに感心し、キース・ジャレットの作品と共に、筆者がECMにのめりこむ切っ掛けになった。
私の音楽人生の節々にチック・コリア氏はひょっこり顔を出し、その都度進むべき道を示してくれました。彼の音楽を通じて、何事にも真摯に向き合うことの大切さをミュージシャンたちにずっと教え続けてくれることでしょう。
チック・コリアさんが急遽ベーシストの代役を探していると、小曽根真さんから連絡がありました。2016年9月のチック・コリア・トリロジーがアジアをツアーしていた時のことです。。。
「周りに遠慮せず、自分が良いと思う音だけを弾こう。おかしいと思った音があったらそこに立ち戻って良いと思う音が見つかるまで探ろう」と音楽の根本に立ち返る大切なことを教えてくれました。
誰にでもすぐに分かるイノベーションから深い内面的なものまでが一直線に繋がった稀有な音楽家。好きになったのは僕がそう感じたから。
音楽、音楽を愛する人々へのあふれる愛情と、唯一無比なバックグラウンド、精巧な作編曲や演奏の技術、桁違いのイノヴェーターでした。
人生の恩人と言えるほど彼から学ばせていただいたことがたくさんありますが、なんどもおっしゃっていたのは、”Keep creating!!” ということでした。常に創造することを続けるんだと。最後までそれを体現された方でした。
いち早くフルートという楽器の可能性を見出し、圧倒的な存在感と説得力を持って自らの音楽へ昇華させたのがチック・コリアだった。フルート奏者以外の立場から、生涯を通じて自らの音楽表現にフルートを多用し、その可能性を広げた唯一のジャズミュージシャンではないか。
チック・コリアには、ジャズというジャンルとフルートという楽器をしっかりと繋げてくれたという大きな功績がありました。
チックはジャズピアニストとしての境界線を遥かに超えていました。なぜならチックの人生は、この世界と繰り広げた高貴で歓喜に溢れたインプロヴィゼーションとなったからです。
1999年に留学していたトロントでのコンサートで、チックがマリンバを演奏したことに興奮して「マリンバ演奏してくれて有難う!」と伝えると「僕はマリンバ大好きなんだよ!」。それから私の夢はチックにマリンバ作品を書き下ろしてもらうことになったのです。
チックはいつも親切で、謙虚で、寛大で、美しい魂の持ち主です。人生を通して、私たちにたくさんの贈り物をくれたチックに感謝しています。
チックの遺産は時代を超えて引き継がれ、その素晴らしい音楽とともに、チックの笑顔がこの厳しい時代を明るく照らし続けることでしょう。
彼の個人的な哲学には、決して受け入れられない部分や好きになれない部分もあ蔦のは事実だが、僕はそれを無視して、ただ彼の素晴らしい音楽と演奏の栄光を楽しむことを学んだのだ
自らの死を予期した別れのメッセージは、素晴らしい友人たちに恵まれたことへの感謝と、若いアーティストへの暖かい励ましに満ちており、最後までポジティヴな姿勢を崩さない。1988年からチック・コリアの取材を続けていた筆者が、その膨大なストック写真を公開し、偉大なアーティスにして素晴らしい人柄だった故人を偲ぶ。
あのチック・コリアが逝ってしまった。みんな驚いた。誰もチックが死ぬなんて思ってもみなかったと思う。だってつい最近まで自宅から元気そうにライブ発信していたじゃないか。改めて自分に対するチックの音楽の影響力を見直してみた。ジャズを勉強始めた頃に何度も何度も聴いた<Hairy Canary>という曲を取り上げてみた。
チック・コリアは、2020年3月21日から約40回にわたり自身の練習部屋からワークショップ配信を続けた。その膨大な動画の中に生き続けるチックに会いに行きたい。
<リターン・トゥ・フォーエヴァー>は、グループという一つの集合体で音楽を創るというのが、一つの根本的な概念なんだ。
ジャズ・ファンに考えてもらいたいことは、ジャズを、黒いとか白いとか黄色いとか、黒人とか白人とか黄色人種とかによって、なぜ分類されなけれぱならないのかということです。
チック・コリアが、2月9日に癌のため亡くなった。チックのメッセージをお届けするとともに、世界のファンから愛されたチックの音楽の軌跡をまとめた。
前回のWesに続き、今回も筆者のジャズ初心者の頃に戻ってみた。まだマイルスを知らない頃の話だ。『Three Quartets』でチック・コリアに魅了され、次に何度も何度も聴いた<Matrix>の分析と、当時マイルスのバンドのフリージャズのスタイルに多大な貢献を残したチックの解説を試みてみた。
訳あってしばらく遠ざかっていたが、「Trilogy」トリオでまた聴きだしたチック・コリアだ。ボストン公演のライブ報告も含め、最新作『Trilogy 2』からマイルスの名曲、<All Blues>を取り上げてみた。多くに誤解されて演奏されているこの曲、チックの奇抜な解釈と、チック節のおしゃれなインプロラインを解説。
「東京JAZZ 2019」で、土曜夜にチック・コリア・アコースティック・バンド、日曜夜にエレクトリック・バンドの公演が行われ、NHKホールが熱狂に包まれた。一度の来日で両バンドが演奏するのは27年ぶり。2019年9月がチック・コリア最後の来日となった。
未発表音源を交えて新旧12曲ずつからなる2枚のコンピ案を送信した。「Good!」の朗報。ただし、最終的には音楽を聴いて確認したいのでCD-Rを焼いてFedExで送付せよとのお達し。
サックスをロックギターのリード版に変えた男デイヴィッド・サンボーン。
それがサンボーンのミュージシャン魂に火を付けたのか、ティム・バーンよりもさらにとんがったソロで圧倒された。
大抵ギターソロを引き合いに出して使われる言葉だが、「泣きのアルトサックス・ソロ」の称号を勝ち取ったのがデイヴィット・サンボーンである。
ミュージシャンと同じくらい人間的にも素晴らしい人だった。
デイヴの最も偉大な音楽的才能のひとつは、どんなコード・チェンジにもブルースを聴き取ることができ、どんなに複雑なソノリティの中にもブルースを見出すことができるということだった。
サンボーンは演奏は熱いが、物静かでダンディな男だった。
あのサンボーンが他界してしまった。一つの時代が幕を閉じた。どんなジャンルの音楽にも対応できるファースト・コールだった彼は、実は真のブルース・アーティストだった。数多くない彼のオリジナル曲からお気に入りの1曲を選んで、彼がいかに他のアーティストたちと違う次元にいたのかの説明を試みた。
ユニークな即興演奏家であり、創造性に富んだ彼の演奏は、多くのECMのアルバムや映画のサウンドトラックで聴くことができる。
これからもデヴィッド・ダーリングの音楽はポール・ウィンター・コンソートゆかりの人々の中でひときわ美しく響くことだろう。
今までがそうであったように、いやそれ以上に貴方が奏でる音が私の残された人生の時間の中でずっと鳴り続けていくことでしょう。
ECMを中心にさまざまなアーティストと共演し、多くの録音を残してきたチェリスト、デヴィッド・ダーリングが、2021年1月8日、米コネチカットの自宅で亡くなった。2009年にはグラミー賞最優秀ニューエイジ・アルバムを受賞している。
ギターと口笛のユニゾンは評判をとったが、晩年ますます味わいを増したハーモニカがやはりトゥーツのトレードマークだった。
ジャズを愉しむ余裕のあるファンならば、ほぼ例外なくこのハーモニカ親父(爺さん)の愛称を持つ名匠(口笛の名手でもある)の音楽が好きで、ぼくの周辺で彼を嫌いだなどという輩には、まだお目にかかったことがない。
photo & caption
トゥーツ・シールマンズが逝ってしまった。ブラジル音楽をこよなく愛したトゥーツの『The Brazilian Project』、その中からジャヴァンの名曲のひとつ、<Obi>を解説。ジャヴァンの卓越した作曲法と、トゥーツのハイレベルなブラジル音楽の理解度に焦点を当ててみた。
2004年のベルリン・ジャズ祭、リシャール・ガリアーノのニューヨーク・トリオのゲストがトゥーツ・シールマンスだった。色彩感溢れ、どこまでも情感豊かに聴かせる息のあった名コンビぶりからは、とても2度目の共演とは思えない。演奏の合間にシールマンスがベルリン・ジャズ祭にまつわる思い出として語ったのは、ジャコ・パストリアスのことだった。
Remembering Tomasz Stanko by ECM (Manfred Eicher)
スタンコはコメダから大きく影響を受けた作曲法、そして即興演奏家としての類い稀な才能、よくスラブ的と表される陰影を湛えた叙情性と奔放さを併せもった稀有な存在だった。
今年の初め彼はNYから私に電話を寄越し、固く結ばれた二人は最後の会話を交わしたが、私はとても幸せだった。トマシュ、音楽をありがとう、心から感謝する。
RIP Tomasz Stanko
Spotify にマンフレート・アイヒャーが選曲した Remembering Tomasz Stanko がプレイリスト投稿されている
1976年のデビュー以来創作活動の拠点としていたECMでは、公式サイトのトップにマンフレート・アイヒャー自選の録音を流し最大限の追悼の意を表している。
会場は大勢のゲストで埋め尽され、ポーランドからのジャズ大使をひと目見ようと階段は立見客やら座り込む客で鈴なりとなった。
彼は演奏家以上に、座長たらんとしたのではないか。それがボローニャのライブステージで上演された。50分のオペレッタ〜演劇になったと考える。
私が大好きな彼の表現の特異な面 “ハラワタ” をさらけ出すことだ。
土取利行によるトリスタン・ホンジンガーとのデレク・ベイリー&カンパニーでの思い出
私の演奏が終わった後、彼は「You are mad」と言い放った。すかさず私も「You too」と言った。
超然とした狂気と世俗的な凡庸に揺れて。
トリスタンが生涯かけて追い求めた、生命の記憶を辿る音の旅はけして熄(や)まないだろう。
トリスタンの演奏も、要所で明確な主題なりフラグメンツを提示するなど、音楽のフォルムを茫洋とさせずに芯を作る技術に長けたものでした。
ホンジンガーはあくまでチェロ一本(時に弓は二本)にこだわった。その集中力は偏執狂的というべきものだった。
アムステルダム。チェロを置いてステージの中心に歩み出てきたホンジンガーは、しゃがみ込み、飛び跳ね、オーケストラを指揮した。メンバーたちも真剣に応じ、みごとなカーニヴァルの空間を出現せしめた。トリックスターの面目躍如である。
トリスタン・ホンジンガーという人間はそれが出来る人だった。そこには人間の尊厳が備わっていると強く感じられた。
アルバム・タイトルが示唆するとおり、コミュニケーションの極意は「分かりあえなさ」であることを知り抜いている。それ故の同時発話的な自由。演劇的・室内楽的な構築性を保ちつつ、フォーキーかつフリー、等しく個々の断片も光る。/ As the album title indicates, they know the fact that the essence of communication is its impossibilities for mutual understanding, then, followed by “all-at-once-ness” in the chatty but not-crowded mood. While keeping theatrical, chamber music-like constructability, the composition of Tristan Honsinger makes junctures for folky and free approaches, equally emphasize the tension of individual fragment.
今回の楽曲解説はいつもの楽理的な立場と少し目先を変えてみたい。筆者がなぜこのアルバムを好んでいないかというと、それはこのバンドのタイム感に対して居心地が悪くてしようがないからなのである。
目を閉じて音楽に聴き入ると、ジスモンチの演奏にナナ・ヴァスコンセロスのビートも聴こえてくる。ジスモンチはナナを意識しながら演奏をしている。すると、演奏が静かになった時、ピアノ以外の音が聴こえてきたような気がした。ジスモンチもピアノの向こうに身を乗り出して何か捜すように演奏をしていたが、いつしか会場の拍手の音にその気配は消されてしまった。
唯一無二のブラジルの打楽器奏者、シンガー、ベリンバウの名手、ナナ・ヴァスコンセロスが故郷、ブラジルのレシーフェで亡くなった。享年71。(今年、エグベルトとナナはコラボを復活させ、4月には極東ツアーが組まれていた)
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ノーマン・シーフ Norman Sheef
1939年、南アフリカ・ヨハネスブルグ生まれ。
サッカー選手、医者のキャリアを捨てて、69年、映像の世界を追求するためNYに移住。渡米直後マンハッタンに生きる人々の写真で認められ、音楽家、映画俳優を撮影するチャンスに恵まれる。
『Tokyo Music Joy ’91 / 矢野顕子 with ビル・フリゼール、ナナ・ヴァスコンセロス』。往時「Live Under The Sky」と並んで私たちに音楽の「喜び」と「驚き」を体験させてくれたフェスティバル「Tokyo Music Joy」。そのラインナップの中でも一際異彩を放っていたのが、この公演だった。
ナナを突然失ったご家族、仲間、ファンの悲しみは計り知れない。でも、不思議と森の中へ、風になって空と海へ、ビリンバウを背負ったまま還って行ったような爽やかな印象を残す。今年のラ・フォル・ジュルネのテーマ「la nature」にしても、自然と人を媒介する存在としての音楽の素晴らしさと不思議さに気付かされる。まさにナナはそのために世界に遣わされた存在なのかも知れない。
ナナが大地に還った。
3月9日。突然。4月20日の東京での一夜限りのコンサートを控えながら。
上海のECM ジャズ・フェスではエグベルトとのデュオの録音が予定されていたという。デュオのライヴ・アルバムも惜しいとは思うが、『Dança das Cabeças』(輝く水 ECM1089 1976)以上の演奏とはどういうものなのだろう。
彼の非常に特別な感覚の深みと精密さ、バンド全体のサウンドに奉仕する決意
『My Song』でのパレの演奏は、色々な事をしているにも関わらず、何故か耳にはシンプルに聞こえます。全ての音が正解になっています。本当に不思議です。
パレ・ダニエルソンほど剛柔を兼ね備え様々なミュージシャン、アンサンブルに溶け込むベーシストは稀有な存在だ。
忘れもしない5月18日「池袋ジャズ」終演後の居酒屋で、ベーシスト甲斐正樹にパレがいかに素晴らしいか熱弁をふるった。パレがその日に亡くなったことを翌日知った。
パレというプレイヤーは語弊を恐れずに言うと、楽器を「弾かない」。ベースを弾き過ぎない、のではなくその場の音楽に必要とされる音以外を全く弾かないのだと自分は考える。
芯のある太い音が素晴らしく、ソロの歌い方も大好きでした。速弾きもやらないけど、確かなテクニックを持ち、バランス感覚が本当に素晴らしいベーシストでした。
揺るぎない独自のサウンドが実に心地よく、愛に溢れた来日コンサートだった。これが僕が音楽に向かう確信となり、それだけでパレは僕にとってヒーローであり続ける。
パレがパレである特筆すべきところはコントラバスの音色。パレの奏でる美しく個性的な音色が忘れられない。
パレ自身の名は知られなくても、ヨーロッパジャズ、という演奏スタイルを作り上げてしまったほどの影響力は今後も失われることはないでしょう。
スカンジナヴィア半島から来た屈強で優しい男。キース・ジャレット”ヨーロピアン・カルテット”を支えた北欧三人衆の一人パレ・ダニエルソン。彼の音楽はバンドの要となる”強靭なる足腰”だったのだ。
パレのベースサウンドとグルーヴは特徴的で、ほぼ一聴してパレだと分かる。強靭でありながら柔軟かつウォームで、優しい人柄が見え隠れする。
これだけの職人技を持っていて、バンドを後から支えプッシュする演奏はベーシストとしてある意味理想である。
数々の名盤での演奏を通して彼のあたたかく懐深いベースが、ピアノやドラムとの会話や距離、音楽の物語を進めるには、ということを私に教えてくれた。
Keith Jarrettのヨーロピアンカルテットなど、その高い芸術性をもって数々の名盤を支えたスウェーデン出身のベーシスト、Palle Danielsson。繊細で豊かな表現力、時にソウルフルでアバンギャルドなプレイ、その存在感はどのアルバムを聴いても絶大だ。
マイルス:『プリンスは例の教会的なことをやるんだ。プリンスはギターもピアノも最高にうまい(筆者:ドラムもベースもとんでもなくうまい)。だがヤツの教会的なサウンドがヤツを最もスペシャルにしてる。例のオルガンサウンドもだ。黒人のものだ。白人のものじゃない。プリンスってのはオカマ用教会みたいなもんだ(筆者:意味不明)。ヤツの音楽は夜10時11時に遊びに出かけるヤツらのための音楽だ。プリンスはビートと共にやってきて、そのビートの上で演奏する。プリンスってのはきっとセックスの時ラヴェル(筆者:近代フランス作曲家)じゃなくてドラムを頭の中で鳴らしてるに違いない。だからプリンスは白いヤツじゃないんだ。ヤツの音楽は新しく、しっかりトラディションを理解し、88年、89年、90年っとしっかりと時代を映し出す。ヤツはこのまま行ったら次世代のエリントンだぜ。』
マイルスとプリンスが交錯した時期、同じマイルスDNAの継承者である菊地雅章もプリンスを強く意識していたことは非常に興味深い。プーさんもその意味で、私にとっては to be continued….な存在だ。マイルスを軸としたプリンスと菊地雅章のトライアングル。未知の音への興味は尽きない。
プリンスの看板曲、パープル・レインの解説。映画との関連、この曲が発表されたライブと1年後のリリースなどにも触れ、プリンスの天才的な曲の構成、コードのヴォイシング、コード進行等を解説。
彼の伝記のタイトル『ザ・トラベラー』のタイトル通り、音楽に捧げた人生を自由気ままに生きて、生き抜いた人だった。
ペリー・ロビンソンを一言で表すなら、”JOY”(喜び)だ。人生の中の喜び、愛、音楽、マジック(手品)、笑い。
彼は誰の支配も受けることなく、彼の音楽は彼のスピリット同様いつまでも絶えることがない。
彼の音楽スタイルは、ウディ・ガスリーやピート・シーガーの影響もあり “フリー・フォーク”と呼ばれた。
2015年、ペリーと私はサンディエゴでデュオのギグとレコーディング・セッションを持った。
現代の陳腐な生き方に決してへこたれない、幸せで、親切、かつ優しい男。
彼はいなくなってしまったけれど、今でも聞こえるよ、見えるよ。
ペリーと僕は機上で7、8時間手品で遊んでいたんだけど45分くらいにしか思えなかった。
このイメージは全くの主観ですが、ジャズ・ヒッピーっていう感じでした。
この世における彼の生は終わってしまったのだろうけど、“まだ始まったばかりだからね!”
ペーター・ブロッツマンだけではなく、東ドイツ出身のエルンスト・ルードヴィッヒ・ペトロフスキーやヨスト・ゲーバースは、いずれも60年代以降のドイツのフリー・ミュージック・シーン、そしてFMP (Free Music Production) 語る上で重要な人物だった。
日本では“Brötzmann, Yagi, Nilssen-Love”だけでなく、さまざまな編成でペーターと共演しました。中でも思い出深いのが2007年の春に東京で開催された『ブロッツフェス 2007』と『ポール・ニルセン・ラヴ〜ピット・イン・セッションズ』でした。
音楽はテクニックでもないし、複雑なことでもない。人生のようなものなんだ。人生を語るものだ。どのように感じたか。何が出来るか。演奏する時に悲しい気持ちならば、そう伝わる。
ポール・ニルセン・ラヴの提案を元にノルウェー国立コンサート協会 Rikskonsertene が主催事業として企画してくれた2008年4月の『ブロッツマン/八木/ニルセン・ラヴ〜ノルウェー国内10都市ツアー』は私にとって大きなランドマークとなりました。
ペーターとポール・ニルセン・ラヴとのトリオ結成のきっかけは2006年、ノルウェーのコングスベルグ・ジャズ・フェスティヴァルに絡むちょっとしたアクシデントでした。
“Hello, my little sister.” そう呼んでもらえる事はもう2度とない。イカつい顔のおじさんが初めて私をそう呼んだのは、確かポール・ニルセン・ラヴ(ds)とのトリオの2度目のヨーロッパ・ツアーのために集合した時でした。
彼との共演は我が音楽人生で計り知れない素敵な経験でした。
あれだけのことをやるだけやって、ストンと逝く生き方は見事だと言わざるを得ない。
コロナで多くの可能性を失ったが…生き残った者は、この一瞬の生を精一杯生きるべきだ。
ブロッツマンの演奏にも室町以前の日本音楽、音階という概念がない時代の音楽、(散楽、田楽、猿楽)を連想してしまう。
音楽にとって大切なのは、その人から音に託されるそのものの豊穣な世界、深淵さだ。
ブレッツマンは、フリージャズをフリーミュージックと書き換えて世界に布教した
この秋、私がブロッツマンのCDをプロデュースする機会がついに訪れた。
ペーター・ブロッツマンが残した大傑作のひとつに『Nipples』(FMP、1969年)がある。2021年、アメリカのテレビ番組「The Tonight Show」の「Do Not Play」コーナーにおいて司会のジミー・ファロンが笑い飛ばしたことにより、この作品はフリージャズ愛好家以外にも知られることになった。なにしろ乳首であり轟音であり騒音なのだ。
ペーター・ブロッツマン氏は、肺気腫ではあった。糸瓜の実りすら、間に合わなかった。
ブロッツマンも現代美術から音楽へ転進してきた。
1997年に日本で刊行された限定200部のディスコグラフィー。
ただただ痛快そのもの、狂気の一歩手前と言いたくなるほどその瞬発力は時を忘れさせてくれる。しかし、その内奥には優しい呼びかけ、訴えがある。
大変悲しいお知らせですが、きのう私の父親が亡くなりました。以下が公式のお知らせです。父親は自宅で家族に見守られながら安らかに逝きました。
オープン、トゥ・ラヴ:ポール・ブレイ 1932-2016
モダンジャズの歴史において変わらずもっとも創造的なインプロヴァイザーのひとりであったピアニストのポール・ブレイが逝った。享年83。
ポール・ブレイの意識は私の知る誰よりも抜きん出て活発で、物事をなんでも分解することを止めず、時には分解したものを元の状態に戻すこともあれば、そのままに放置しておくこともある。
私がポール・ブレイの音楽を発見したのは彼がフランスのレーベルOWLに初めて録音したアルバムで、他の多くの音楽愛好者同様、衝撃だった。
1971年6月、NYCをホーム=根拠地とし始めたPoo (菊地雅章) を訪ねる。と、そこはポール・ブレイのアパートであった。
カミさんである藤井郷子が、ニューイングランド音楽院でポールのレッスンを受け始めた。家に戻った藤井にポールとのレッスンの話を聞くのが凄く楽しみだった。
ポール・ブレイの訃報はfacebookで知った。最近は、訃報はもっぱらfacebookからだ。ペットの猫の写真やランチの写真に混じって、訃報がポストされているのを見ると、不思議な気持ちになる。
ポール・ブレイのセッション(『禅パレスの思い出』『ハンズ・オン』Transheart 1993)は素晴らしかったね。いちばん大変だったのはポールに付いていくことかな。
RIP Paul Bley
1999年6月、23年ぶりの来日公演を行ったポール・ブレイ。滞在中には、いくつか雑誌の取材にも応じた。その合間に、今は無き六本木WAVEの裏手にあった小さな喫茶店に彼と一緒に入った。
私が武蔵野美術大学の学生時代[1970年代]、当時、国分寺にあった村上春樹のJazz Bar&喫茶 ピーターキャットに入り浸っていた。
「富樫さん、ポール・ブレイとのレコーディングに興味ありますか?」
1999年の春先だっただろうか?新宿ピットインの控え室で、演奏直後の富樫さんに単刀直入に尋ねてみた。
ポール・ブレイと言えば、我が恩師、ジョージ・ラッセルの『Jazz In The Space Age』でジョージが発掘したビル・エバンスとピアノの掛け合いをやっていたのを思うが、筆者にとってはむしろジミー・ジュフリをすぐに思い浮かべる。『The Life of a Trio』である。ジミーはジョージ・ラッセルと親しく、よく食事を共にしたのが懐かしい。ジミーとジョージの関係でポールがニューイングランド音楽学院に就任したのは1993年だったと記憶する。筆者がすでに卒業した後であった。
最初に買ったポール・ブレイのアルバムは、彼自身のレーベル=IAIから1974年に発表された『Jaco』だったと思う。
去る2008年10月25日、フィラデルフィアでポール・ブレイとドラマーのリチャード・プール(www.richardpoole.com) のデュオ・コンサートが催されると聞き思い切ってインタヴューを申しこんだ。
「成功できる」人は “天才”だよ。成功の秘訣は、失敗の熟知にある。最初から成功を目指すのではなく、失敗を目指した方が手っ取り早い。これが、私の提案だよ
高音部の余韻の減衰を微細に捉えた勇気ある録音技術に喝采!
ポール・ブレイは出かけなければならなかった。あるいは、彼を取り巻く人たちからちょっと姿を消す必要があっただけなのだ。人生を終えたわけではないのだ。
午前3時に目が覚めた。何か変だ。アパートの部屋が寒い。とても奇妙な感じがする。不眠症にやられてコンピュータの電源を入れた。ポール・ブレイ逝去の報。
仕事柄、海外のミュージシャンとの付き合いは多い方だが、なかでもポール・ブレイとの付き合いは僕のキャリアと心に大きな痕跡を残している。
ブレイの特徴的奏法とエンジニアの超絶技法が相乗効果を生んだ高音質ピアノ録音
いやさ、当時ブレイはECMアイヒャーの音の仕立てに本心は合点が行ってなかったんだと思うよ、
エリス・マルサリス、ウォレス・ルーニーのコロナ禍による死亡が伝えられた。この分ではあと何人の犠牲者がジャズ界から現れるかもしれず、この事態を深く憂慮せざるをえない。
彼は、アコースティック・ピアノひとすじで、“男の生き様”を貫いた。そして、ジャズ・ピアノの可能性の頁を大きく前進させてくれたと私は思う。
ピアノは、メロディとハーモニーを奏でるパーカッションと実感させてくれたマッコイ・タイナー。その晩年の軌跡を、写真で描く。
偉大なマッコイ・タイナーが死んでしまった。コルトレーンの陰に隠れて過小評価されていた感が否めない。マッコイの名作のひとつ、美しいメロディと奇抜なコード進行と斬新な構成でスタンダード化した<Search For Peace>を取り上げてみた。そのほかにもマッコイのシグネチャーであるペンタトニック・ボイシングも解説。数多く残されたマッコイの名言もかき集めて紹介。
だからといって、ジャズをブラック・ビープル以外の人間がやってはいけないという理由にはなりません。この音楽はインターナショナルなものですよ。
「ぼくの最初のアルバムはマイルスとで、マイルスの最後のアルバムはぼくとだったんだ。」ルグランはダウンビート誌のインタビューで語った。前者は1958年発表の『ルグラン・ジャズ』と、後者はマイルスの1990年録音の、映画「ディンゴ」のサウンドトラックだ。
ミシェル・ルグラン@東京JAZZ 2011
Michel Legrand at NEA Jazz Masters Ceremony 2007
どなたか、朝隈賢治さんの消息をご存知の方はおられないだろうか。
ミシェル・ルグランが、2019年1月26日、パリの自宅で亡くなった。2018年7月6日〜9日のブルーノート東京が最後の来日公演となった。フランスの作編曲家・ピアニスト・ヴォーカリストで、200以上の映画・ドラマ音楽を手がけ名作の数々を作って来た。
ルルーシュは、今夜、このクラブに居るよ。さっき、一緒に食事をしばかりだよ。
ミシャ・メンゲルベルクはヨーロッパの音楽シーンにおける60年代のパラダイム転換を象徴するミュージシャンだった。
エリック・ドルフィーの<Last Date>でしかミシャ・メンゲルベルクの名を知らなかった筆者、訃報をきっかけにミシャのフリー・インプロバイザーとしての実力やICPなどでの活躍を知るが、フリー・インプロバイザーとジャズとを両立できる数少ないアーティストとして感銘を受け、ジャズ・プレーヤーとしてのミシャを解析して見た。
サブは数多くのミュージシャンを招聘し日本に真のフリー・ミュージックを紹介してきたが、振り返ってみるとミシャが一番良かったねとため息を漏らした。
ミラノに住む著名な写真家ロベルト・マゾッテイが捉えたミシャ・メンゲルベルク。1978年を中心に最新は1998年のポートレイトまで。 *をクリックすると拡大表示されます。
他のメンバーとは別に用意された6畳ほどの楽屋に、ミシャとペーターが座っている。そしてハンは広くも無い室内をうろうろしている。ヘビースモーカーで知られるミシャは紫煙を吐いて椅子に沈みこんでいる。
するとミシャさんは、コーヒー、パフェ、そしてなんと味噌汁を同時に注文されたのだ。注文を取りに来ていたウェイトレスさんの一瞬「え!?」といった表情を未だに忘れていない。そして、それらを同時に頂いているミシャさんの姿を見て、サブさんと私は、「これこそフリーなんだよ!これぞDADAなんだよ!」とかワケの分からぬことを話していたのでした。
ミシャの腕前は二段くらいだったと思う。こちらは初段くらいだったのでちょうどよかった。やってみたらミシャの方が少し上で、力はあまり感じないけれど、形がよくて品がある。
『逍遥遊』セッション@1994年10月6日 山口県防府市カフェ・アモレス
その布で、ミシャはピアノを、ハンはドラムセットを被せ、紐で縛り始めた。聴衆は固唾を飲んで見守るばかり。楽器を縛りおえた二人は黙って会場を後にした。残された聴衆は一瞬の間ののち大きな拍手と指笛で彼らのパフォーマンスを讃えた。
ボケることも、言葉少なになるのも、忘れていくことも、人間にとって自然なこと...。
ミルフォード・グレイヴズ(1941-2021)の訃報を聞いて、「世界からひとつ音が消えた」という感慨に襲われた。気取った言い方かもしれないが、それだけ強烈な印象を残した音と人だった。
自分が彼を知ったのは、間章氏の本を読んだからである、と伝えると、彼のテンションは高まり、間章氏の批判をはじめた。
しばらくは、この三者の相互反応がいかに発生するかを観察するつもりで構えていた。 しかし時間が経過しても、何かそれ以上の変容が起きる気配はなかった。
1977年、ミルフォード・グレイヴス初来日時のレコーディング・セッション(『Meditations Among Us』 (Kitty)より。
ミルフォードのあのシンプルなスワヒリ語が、「うたう」ことのルーツだとすれば、「間」に重きを置くミルフォードのドラミングは、「うた」そのものである。
とくに、インド、アジア、アフリカのの音楽に興味を示し、それらの要素を取り入れた独自のソロ演奏を確立した。
その高潔な人間性、統率力、指導力は「ムーハル」(総師)と呼ばれるにふさわしい。
彼は気高い(スピリチュアルな)男であった。彼の行程は光に満ちていた。
1964年に彼とロスコー・ミッチェルがシカゴのAACMを設立する前夜、僕は彼のエクスペリメンタル・バンドで演奏していた。
RIP Muhal Richard Ab
とりわけ強く印象に残っているのがフェスティヴァルの開幕日と、最終日(日曜日の11日)の取りを飾ったAACMビッグバンドの演奏で、そのリーダーが彼だった。
エイブラムスのピアノは決して硬質ではなく、無機的でもない。全く其の逆で、どんなに激しい演奏においても、共演者のサウンドを生かす事ができる。
ムーハル、素晴らしい音楽をありがとう。そしてオリジナルであること、自分自身が 原型であり、心で他の人と関わった時に生まれるハーモニーの大切さを、あなたは教え てくれた。
エイブラムスが残したデュオ作品のなかでもひときわ独特な魅力を持った作品。
僕のジャズ・キャリアの中でAACMとECMに出会えたことはとても幸運だった。AACMのCMは Creative MusiciansだがECMのCMはContemporary Musicだ。Creative MusiciansとContemporary Music、これ以上、何を望めばいいのだろう …)。
ヨン・クリステンセンが空の彼方へ旅立った。一つ年上のヤン・エリック・コングスハウクが旅立った 3ヶ月後に、というのはいくら神の思し召しとしてもいささか出来すぎていやしないか?と思う。
ECM録音の特徴となる「鮮明」で「透明感」のある音はマンフレート・アイヒャーとの近しい共同作業を続けながら確立していったのだ。
叶うなら、光あふれるあのレインボースタジオでもう一度、いまのピアノの音を録ってほしかった。
オスロのレインボウでの録音が少なくなてきたのは、やはりヤン・エッリクの体調の問題が関わっていたのではないだろうか?
2007, 8年頃オスロのRainbow Studioを訪ねた。その時同行したカメラマンが撮影した写真を掲載する。
音楽に愛を持ち、ミュージシャンと一緒になり音を作っていく。僕たちは本当に偉大な人を失ってしまった。
ECMに約700枚の録音を残したノルウェーのエンジニアのヤン・エリック・コングスハウクが闘病の末、75歳で亡くなった。ギタリストとしても自身の録音を残している。
ヤン・エリックの手で収められたサウンドはレインボーならではの空間を生かした透明感のある音、つまり、我々が目指したクリスタル・サウンドだ。
偉大なチーム・プレイヤーに徹し、バンドリーダーとしての野心を持たなかったクリステンセンにもECMに1作だけ自身の名前を冠したアルバムがある。
ヨンはその演奏が必要としているものを瞬時に直感し、瞬時に対応できる極めて稀な魔法のような能力を持っていた。
そこから僕の音楽の方向性は変わり、「ドラム」という概念を捨て去ることができた。
北欧の共演者が多かったが、Keith Jarrettのヨーロピアン・カルテットの一員として、替えの効かない存在感を示した。
ヨン・クリステンセンが空の彼方へ旅立った。一つ年上のヤン・エリック・コングスハウクが旅立った 3ヶ月後に、というのはいくら神の思し召しとしてもいささか出来すぎていやしないか?と思う。
貴方がいなかったら今のジャズの形はないと思います。
北欧の巨匠が、世界中のドラマーに身をもって示した新たなアプローチと哲学。
Jon Christensen from early years (1974~1978)
キース・ジャレット、ヤン・ガルバレクをはじめ多くのミュージシャンと共演し、ECM50年間を通じて最重要ドラマーであったヨン・クリステンセンがオスロで亡くなった。
RIP Lyle Mays
ライルが死んでしまったという想いで、あらためて彼がかかわった曲を聴いている今、どうしても 喪失感で涙がこみあげて来そうになってしまう。
ライル・メイズのピアノは、いや、音楽は、普通の一流の人がそうである以上にオリジナリティに溢れていた
流麗で叙情的なスタイルでありながらリズミックなアイデアやスキルが半端じゃない、という点はビル・エバンスに匹敵する凄さだけれど、ライルの方がテクノロジーを駆使し、ジャンルを超え、リスナーや後進ミュージシャンの感性を広げてくれた。あまりにも早くあの世に行ってしまったけれど、あちらの世界でクリーム色に輝き続けています。
ライルと創造的な冒険を共にできた幸運にいくら感謝してもし過ぎることはありません。
パットとライルを追い続けて30数年、僕はずっとこの「心地良さ」に支配され続けてきた。ライルはいつも僕のそばにいた。その音楽に触れることは、僕自身の人生を再体験することでもある。
Einsteinが普通の学者が考える遥か高次元において真理を探り当てたように、Lyleは音楽の真理を自然の法則として理解していたのではないか、彼の作る現代音楽の手法による不協和音に潜む圧倒的な「美」を感じる度に思います。
ソロ名義作品では『Street Dreams』が特に好きなのですが、一曲目「Feet First」のオープニングの十数秒。ここが特にLyle Maysしかできない、アイデアに溢れたポイントなのではないかと思っています。
ライル・メイズほどそのプレイスタイルを間接的なかたちで様々なミュージシャンに影響を与え続けた人もいないようにおもう。
手元は余計な上下の動きが無く滑るようで且つ鋭いです。ピアノの音色は水のような透明さを感じました。
言語化し時間の流れに杭を打って固定しようとしたそばから、スルスルと抜け落ちて行くような流麗さこそが、優れた音楽家の特徴なのかもしれない。
13歳でライルの音楽に出会って以来、その輝ける魂は私の人生におけるインスピレーションの源です。
Lyle Mays from early years (1978~1981)
偉大な音楽の建築家、ライル・メイズが死んでしまった。引退して10年も経つのに、その惜しまれ方に胸が熱くなった。ライルの偉大さを語るのは容易でない。あまりにも特殊すぎるのだ。まずライル自身の人物像と、そしてライルのパット・メセニー・グループでの貢献とソロアルバムと比較し、ライルの音楽を探求してみた。
パット・メセニーとの共同作業でも知られるライル・メイズ(p, keyb)が2月10日、ロサンゼルスで66歳で亡くなった。
ニューヨーク・アートクァルテットなどでの演奏でフリージャズにおけるトロンボーンの位置付けをしたラズウェル・ラッド。恐ろしいほどの数のアルバムを残して他界した、そのほとんどのプロジェクトは多岐にわたるジャンルやスタイルとのコラボ。彼のトロンボーンのスタイルは2種類に別れていたようだ。その2種類が上手に合わさった珍しい録音から1曲解説してみた。
ディキシーランド・ジャズからスタートしたラズウェル・ラッドの長い音楽キャリアは時代を反映したフリー系ジャズを経て、ワールド・ミュージックで幕を閉じた。
ラズウェルのために書いた楽曲がピアノで作曲したように聞こえるという批評を受け、それからはホーンのためにはホーン奏者の身になって書くように心がけるようになりました。
2007年、アムステルダム Bimhuisにおけるマーク・ドレッサーとのデュオ・コンサートから。
ハイスクールの頃、僕は彼のライナーノーツを繰り返し熟読したものだ。ラッドがいなければ、僕のブログDTM*が存在したかどうか疑わしいもんだ。
ラッドとレイシーは1999年に『Monk’s Dream』(Verve)を制作、グラミーにノミネートされた。レイシーはこのギグの数ヶ月後に他界した。
背筋を伸ばし上半身を直立させて弾くラリーに対し、背中を丸めギターのボディに覆いかぶさるようにして弾く山下。この姿勢はおそらく大きなギターを抱え込んで弾いていた幼少の頃の癖が抜けきれないのだろう。
フュージョン界のゴッドファーザーと言われていたラリー・コリエルが突然死してしまった。筆者の大好きなフィリップ・カテリーンとのデュオアルバムから<The Train and The River>を解説するとともにコリエルの偉業やフュージョンの歴史も解説。
タウナーは、イカルスのように飛んでいきました。しかし、彼の翼が溶け落ちることは無いでしょう。
「まず、心の中の音楽に耳を澄まし、その音楽を楽器の上で実現する。それだけです。」
タウナーはクラシック・ギターばかりでなく、12弦ギターの使い手としても知られている。
ラルフ・タウナーはまさに比類なき語り部=ストーリーテラーであった。
タウナーと握手した人は無数にいるだろうが、爪に触らせてもらったライターは自分くらいじゃないだろうか。
私は、ラルフを、この世代のみならず、あらゆる世代の中でも最も偉大な音楽家であり、先駆者のひとりだと思うようになりました。
タウナーはギタリストのみならず作曲家としても天才だった。
「ギターでありつつ、ギターを超える」と私はフライヤーのキャッチコピーに書いた記憶がある。
神戸で演奏されたゲイリー・ピーコックとのデュオ<ナーディス>で彼らを偲ぶ。
ギタリストが憧れるラルフ・タウナーが他界した。彼の音楽は実にユニークだった。オレゴンのドラマー、マーク・ウォーカーの話を交え、タウナー本人が最高の出来と言った最後のアルバムから1曲解説を試みた。
「アーティストには、自由のために闘う責任が、社会に変革を起こす責任がある。」アフリカをテーマに音楽の一生を終えたランディ・ウェストンの歩んだ道、彼が次世代の音楽家達に与える影響とは。
ランディーはコック(料理人)としても一流で、50年代にはニューヨークで日中コックとして働いていたこともある。
ランディ・ウェストンを追悼する場所として、京都のジャズ喫茶Lush Lifeほどふさわしい場所はない。マスターの哲ちゃんご夫妻は4度の招聘の中心にあったからだ。店でランディのLPを向こうの通夜の日取りでかけてもらいながら訊いた話を混ぜ、三人分の弔意を送りたい。
筆者にあまり馴染みのなかったランディ・ウェストンが他界した。てっきりアフリカ音楽の一人者かと思っていたが、色々聴いてみると予想を反してかなりトラディショナルなジャズ・ラテンのサウンドだ。まずは彼の考えるジャズとアフリカ音楽に触れ、ジャズ・ピアニストとして彼の素晴らしさが光る1曲を取り上げて解説してみた。
音楽を演奏するということをスピリチュアルなイベントと捉えているというランディ・ウェストン、スピリチュアルという言葉がぴったりとくる音楽家はそんなにいるものではない。その数少ないひとりが彼なのである。
ピアニストとして、また作曲家としてのバイラークの唯一無二のヴォイス
彼はまさに卓球の達人だったのだ! 私は何度も彼に打ち負かされた。
ジョン・アバークロンビーのファースト・カルテットの『アーケイド』セッションから。
偉大な音楽は無意識や本能のレベルから生まれるものだが、まずは基礎が自動化されるまで徹底的に叩き込まなければならない。
リッチー・バイラークが他界した。マイルス教に入信する以前どれだけ聴いたことか。数々のアルバムを引っ張り出して来て自分の青春が蘇る。彼の音楽は琴線に触れる。名作<ELM>と彼の音楽の解説を試みた。
日本でのソロ活動ではとくに武満徹氏に何度かまたとない機会をいただいた。
刃渡り15cmの鋭利な刃を持つハンドメイドのペイパーナイフ。
違反なのでポリスが来て調書を取られた。名前を聞かれたコニッツは「フィル・ウッズだ」と答えるんですよ。真面目な顔して。
いつまでも未知なるものへの探究心を忘れないリー・コニッツのスタンスにいつでも励まされています。
彼のあまりに多い作品数、幅広い世界観、どれもに共通した素晴らしい音色、に敬服しました。やはり巨人でしたね。
時代が経つにつれ一般からその名が忘れられるにせよ、その道を追及する人が常に思い起こす事になる智慧と技術の最良の手本として、コニッツはその名を残したのだと思います
同時代を生きその素晴らしい音に直接触れる機会を何度も持てたことで、影響を受けたサックス奏者の中でもコニッツさんは特別な存在でした。
50年代の録音がとくに好きですが、1961年コードレス名盤『Motion』のインプロヴィゼーションに捧げる姿はいつ聴いても痺れます。
少し暗い街角の石畳に空から光と天使の歌が降りそそぐ。そこにリー・コニッツが居る。いま彼はどこに居るのだろう?
Leeは、本当に美しい心の持ち主だった。目を瞑れば、いつだって空から彼の音が聴こえてくる。
正確なピッチを求め、クラシカルな要素を孕みつつサブトーンを織り混ぜたそのトーンは、正にサックスの美しさの結晶と言えるだろう。
数年前のニューポートジャズフェスで、スポーツウェアに身を包み素晴らしい演奏を聴かせてくれたリー・コニッツさんを描きました。
リーは一身に尊敬の念を集めていたが一般的な人気はというとそれほどでもなかった。それも宜なるかな。しかし、それは音楽性とは関係のない話である。
『リー・コニッツ&ダン・テファー/ディケイド』(Verve 2018)
2019年12月、初来日。埼玉・越生「山猫軒」での演奏(纐纈雅代as、不破大輔b、井谷享志ds)が2020年、リトアニア NoBusiness Recordsから『Japan Suite』としてリリース予定。
ジャズへの献身的な愛を持ち、心は若く冒険心に溢れていました。
2年前に90歳でまだ元気にヨーロッパツアーをしていたリー・コニッツがCovid-19に倒れた。歴史にしっかりと足跡を刻み込んだコニッツ、その人気の謎を探る。楽曲解説部分ではブラッド・メルドーと触発しあってエキサイティングなインプロラインを生むその様子を掘り下げてみた。
この時点でコニッツの異彩を見抜き、3枚のアルバムを制作したジョージ・ウィーンの慧眼はさすがというべきだろう。
クールジャズ期から現代まで活躍したアルトサックス奏者で、ECMでの2枚も含め2019年まで精力的に活動したリー・コニッツが新型コロナウイルスのため92歳で亡くなった。
生涯に録音したアルバムは2000作を超えるという。その足跡を辿ることはモダンジャズの歴史を紐解くことになろう。
多くのエンジニアが挑戦したであろうルディ・ヴァン・ゲルダー・サウンドは、これで終わった。真似しても真似できなかった。
2016年8月25日、ルディ・ヴァン・ゲルダーが逝ってしまった。1989年4月25日に初めて、その伝説的なスタジオで撮影をするチャンスを頂いて以来の日々が、走馬燈の如く駆け巡った。最後にお会いしたのは、2014年のジャズ・アット・リンカーン・センターのディジース・クラブ・コカコーラで開催されたプレステッジ・レコード創立60周年記念パーティで、ヴァン・ゲルダーの90歳のバースディ・イヴェントでもあった。側近のドン・シックラー夫妻に付き添われ車椅子に座っていたが、相変わらず眼光鋭く矍鑠となさっていた。長年のご厚誼に感謝し、ご冥福をお祈りしたい。
インパルス・イヤーは、とても重要だ。それは、コルトレーンのレコーディングが出来たことに尽きる。コルトレーンと共にモダン・ジャズ史に輝く作品を創りあげることが出来たのは、大きな自信となり、とても感謝している。コルトレーンが私を選んでくれ、共に過ごした時間は何にも代えがたい。私のキャリアにおいて、比類のない経験だった。
最後の音が消えフェーダーが下された瞬間、緊張から解放されたバンドから大きな笑いがはじけ、ずっと神妙な表情を続けていたルディの顔から初めて笑みが漏れた。ケイコさんと僕は拍手で彼らの健闘を称えた。ラッカー盤にルディが自分の名前を刻み込んですべてが終わった。
ジャズ喫茶で名盤に耳を傾け、新譜を追いかけたファンにはあの肉迫するスリリングでダイナミックなヴァン・ゲルダー・サウンドがまざまざと蘇ってくるだろうが、ヘッドフォンやイアフォン主体のデジタル世代の若者にはゲルダー・サウンドはどのように響いているのだろうか。
海外取材の思い出話に花が咲き、そろそろと思って握手をした時、初めて児山さんの涙を見ました。
児山先生の繋いできて下さったジャズの歴史が、きちんと受け継がれ、広まっていくのを恐らく先生は望まれている。
児山先生は、新旧最高のジャズを、ラジオを通して日本全国に発信してこられました。
80年代から2015年までの児山さんの思い出のスナップの数々
児山さんは時代が求めた編集者だったのだろう。
児山さんのキャリアの成功の源は「スイングジャーナル」という専門誌の権威付けにあったと思う。
これだけの日本を代表するメンバーを集結させられる力は内田先生ならではと、あらためてその偉大さを実感した次第。
「アレックス君、そんな気分になったらいつでも連絡して来なさい。僕が注射してコロッとあの世に飛べるようにしてあげるよ」と云い、「Bitte! その時は頼みますよ」と二人は大笑いしていたことが今は懐かしい。
胃の検査でバリウムを飲まされ その後直ぐ食事をご馳走して頂き酒をガンガン飲まされたりと、、楽しい思い出になってしまいました。
そちらではプーさんや富樫さん、高柳さんらが待ち構えていたのでしょうね。録音機材はお持ちになりましたか?
その際の村上寛が僕に言った「先生はお元気だ!助平だもの!」に妙に納得、それで先生は長生きされたんだなぁ~。
もし、スイスで私が内田さんと巡り会わなければ、私のカメラは故障したままだったろうし、ルイ・アームストロングの姿も幻のままで終わることになっただろう。
名古屋でもあまり外出されなくなった先生と、久しぶりに電話でお話しした時、「もう私も夫もすっかり年取って、夫なんか60歳すぎました!おじいちゃんですよ」と私が話したら、「そんな風に言っちゃいけないよ」と諭された。
『新鮮組』(日本コロンビア) を制作して日本ツアーを行い名古屋の「ラブリー」に出演した際に内田先生が聴きに来てくださって演奏をほめて下さり<あなたも女だてらにすごいねー>とあきれられたことから始まる。
いまは「神の国」で、楽しく高柳さん、金井さん、宮沢昭さん、プーさんらと、心ゆくまで、スイングしていることでせう。
“Dr.Jazz”こと内田修先生の訃報と時を同じくして届けられた。岡崎市制100周年の記念事業として編まれたものだから、刊行が先生の死と相前後したのはまったくの偶然だろうが、先生はこの労作の完成を目にされたのだろうか。
作曲家・シンセサイザー・アーティストの冨田勲氏(享年84)が、平成28年5月5日午後2時51分、慢性心不全のため東京都立広尾病院で逝去。
私にとって冨田勲の音楽は覚めて欲しくない夢のような存在だった。
真の天才 ”冨田”。
宮澤賢治の没後80年を契機に発表された作品だが、富田の中では何十年にもわたって育まれてきた思いの集大成である。300人に及ぶオーケストラとコーラスを駆使した壮大なドラマの展開を予想されがちだが、初音ミクというヴァーチャル・シンガーを起用したことにより一挙に浮力が付いた。
言われてみれば当たり前に「いい演奏をいい音で」捉えられているのです。
及川サウンド !! 、これからの音楽界こそど真ん中に置くべき音質です・音楽ファンには身体の真ん中に染み込ませていただきたい。
一発勝負のステレオ同時録音の凄技と気迫を目の前で見た。もう神業と言うしかない。
僕のBassの師匠である井野信義さんの参加作品として聴いたアルバムの殆どが、及川さんの録音でした。
独自のマイキング手法を惜しみなく披露、その自由で独自なアプローチに驚いた。
自然で温かみのある録音は、まさに先生のお人柄そのものだと感じた。
後ろから届くオーケストラの音の粒立ち、クリアーな各楽器の響き、かつて聴いたことのない素晴らしい音、天にも昇る心地良さ!
音の捉え方とその人柄で誰からも愛された及川さんのようなエンジニアを目指し、貴方が私の良いところだとおっしゃっていた、好奇心と探究心、馬力のある精神力を絶やさず歩んでいきます。天国で私達の活躍を暖かく見守ってください。
及川さんは空港からリハーサル場所であるペデルセンさんの自宅へ直行し私たちと合流。及川さんが作り出してくれる良い雰囲気がきっかけで、スタジオでの録音もスムーズに進みました。録音だけではなく、ミュージシャンの気持ちにスーっと入って来てくださる実に温かい方でした。
大阪万博で武満徹プロデュースの鉄鋼館の音響演出に及川さんが関われていたことを知りすごく嬉しい想いになりました。録音された素晴らしい音源に感謝するとともに、沢田のアルバムにも愛ある評論をいただいて感謝しています。
とても嬉しかったのは、「Jazz Tokyo」に自分のアルバムレビューが掲載されると「及川公生の聴きどころチェック」が同時に掲載されることだった。そこから気付かされたことも多く心より感謝している。
及川さんとはチャレンジングな仕事の場をいくつも共有してきたが、いずれも何とかこなすことができた。
この「音」の静かな緊張感と迫力に圧倒された。様々なノイズと音楽が、演奏する音楽家の生身の姿と一体になり、巨大な作曲家の音楽人生が凝縮されて刻まれている。
ジョビンと坂本龍一が繋いだ日本とブラジルの深い音楽の絆。優れた音楽は新たな手により、形を変え世界に受け継がれていく事を実感させるライブだった。
あまりにも多くのことが展開した70年代、間章の死を契機に彼のもとに集まっていた個々の者たちは、80年代に入り独自の道を歩みだしていた。
坂本龍一23歳の<環螺旋体>設営と「学習団」からのアピール
同時代を生きた偉大な存在が、また一人姿を消した。何とも言えない喪失感だ。
今頃は生田と天国で再会し、再びタッグを組んで創作活動をしてるかもしれない。
要するに坂本龍一はジャズそのものを否定しているのではなく、クリシェ化したジャズを批判していたのだ。
坂本さんは「坂本龍一」としかジャンル分けのしようのない、しかも時空を超越した音楽を創造した偉大な音楽家です。
僕にとって坂本はいつも可能性の源泉と言える。坂本に対する喪失感はとてつもなく大きい。
深く考え、信念に従って行動し、静かに語る、良心を求める真摯な人だと私は思っていた。
人間誰しも聖人君子ではあり得ず、時折りやんちゃな側面を見せるものである。
ここには決定的に欠けているものがある。それはまさに「ウタ」であった。
小杉は、アノニマスな音が良いのだという。だから求心性を否定して、多面性のある音を選択する。
これは小杉武久という流動体を凍結し、切片を切り出し、その断面を仔細に観察してみる試みである。
きわめて私的には、このたった2年間でタテノリ一色であったジャズ・シーンにあって、ヨコノリへの変容を迫ったのがタージ・マハル旅行団の功績ではある。
「音楽における即興性—比較音楽学的考察—」というのが、小杉の卒業論文のタイトルで、指導教官は小泉文夫だった。
小杉武久の文字を見付けると、本、雑誌をとにかく買っては何度も読みまくった。私の感性の原点は、この時形成されたと言ってよい。
私がギターの訓練を始めていて、楽器の訓練をしていると求道的になってくると話をすると、直にダメです、音楽を信仰してはいけませんと怒られました。
ヴァイオリンを構える小杉武久 (1986)
最近の若い世代のジャズミュージシャンは、ジャズが継承されてきたルーツがアフリカ音楽やブルースにあるということを忘れつつある。
Ryoは、自分のサウンドとフレージングを持った優れたギタリストだったが、作曲の才能も兼ね備えており、いつも新作に向けて素晴らしいマテリアルを用意していた。
あのギル・エヴァンスがジミ・ヘンドリンクス死後に『プレイズ・ジミ・ヘンドリックス』のギタリストにRyoさんを抜擢した。
自宅のパソコンも店のパソコンも携帯も“りょう”と打って変換するとかなり上の方で“燎”と出る。
ジョアン・ブラッキーンと川崎燎のデュオ作に『Trinkets And Things』(Timeless 1978) がある。
彼の即興に関わる技術は天才といえるほどのマスター・レヴェルに達しており、数多くの音楽ソフトウエアや楽器の設計においてもまた然り。
ユニバーサルな耳、と言ったらいいのだろうか。新しい表現を模索する人の応援団だったのだろうなあ。
事実、悠さんの守備範囲は広かった。「シャンソン」「コンテンポラリー・ミューシック」…気の赴くままなんでも「食べ歩いた」。
私の知る悠さんは、とても思いやりのある紳士だった。
正直言って、どの頁にも引用したい文がある。それだけこの書には悠さんの、批評と、それ以上に思想が凝縮されている。
『超ジャズ』の刊行記念ライヴに出演したミュージシャンは3人。ビッチェズ・ブリューで定期的な演奏機会を得た纐纈之雅代(サックス、ギター、ヴォーカル)と香村かをり(韓国打楽器)、そして出演時のことを強烈に覚えているのなか悟空(ドラムス)である。
いかにも人間的で、個性的で、複雑な生き方ではあったでしょうが、すべて含めて粋な人だった。
Bitches Brewには厳しさがある。
狭い空間だけど、床の木の鳴りが他には無い、なんか冷たくキーンと響く良い反響があった。自分の音を真っ直ぐに見直すことができる、あの空間が僕は大好きだった。
横浜のジャズ業界のなかで、杉田誠一さんは特異な人という以上に、つきあいにくい変人とみられていた節があった。
私たちが愛するジャズという音楽の歴史の一部となった、伝説的な人物に出会ったような気がした。
即興音楽で使われるのと同じ種類の言語は、今ここにある瞬間に関係しています。
彼のジャズに対する考え方はとても(彼の好きだった言い方をすれば)オーセンティックなもの
それからは時間帯関係なく電話が...毎度…二時間以上...(笑)
困ったのは、いつまで経っても終わらないことだ。でも、それが楽しくて、面白くて、別れたあとはまたすぐに会いたくなる。
杉田さんの思い出話がはじまる。その話が、また、毒舌で、アクが強くて、長かった。
お客さんが居なくても「大丈夫、俺が聴いてるんだから」なんて笑ってられました。
最後に、杉田さんと言えばやはり「ありがとうな」という口癖を思い出す。
日本のジャズ、ジャズメンに対し、大きな愛情を持たれていることを強く感じました。
杉田さん、そっちの世界では高柳さんと喧嘩しないでくださいね。
この写真集は杉田誠一が1969年から1975年の間に海外取材の際に撮影した写真を集成したものだ。
氏が追い求めていたのは、ジャズという鏡に映し出された人間そのものにこそあるのではないだろうか.
これらの演奏はビッチェズ・ブリューで繰り広げられた。大由が普通のプレイヤーとは異なるスタンスで演奏に臨み、香村が即興演奏の形を練り上げ、また纐纈がソロ演奏の場を幾度も得た場である。この機会を提供した杉田誠一のもつ緩衝帯についても、語っていかなければならないことである。
学校のひとつではあったOLEOから学んだことは、計り知れない。それから『ジャズ批評』からも。松坂比呂さん、有難うございました。
松坂さんは、少女のようにチャミーングで楽屋で山下さんと打ち合わせていた時のはにかんでいた姿が今も忘れられない。
半世紀にわたってバックステージで日本のジャズを支えてきた功労者、「ジャズ批評」発行人松坂妃呂子の目を通した日本のジャズとジャズシーン。
松風鉱一の抜けた4/30 渋谷毅オーケストラ@PitInn
ある意味、彼は私にとっての影の教師だったのかもしれない。
松風のアルトサックスの音は、ことさらに吹きまくることなく、彼の論理的なあったかい音色で包まれていた。
天国への最後の階段 ― Last steps to heaven ―
松風さんの偉業はとても凄いことだと思うし心からリスペクトしていました。
松風さんの魅力は何と言ってもその艶やかな音色と一音一音に細やかに丁寧にニュアンスを付ける表現力
追悼 松風鉱一
敬愛すべきギャラリストにして版画工房のオーナー
ギャラリーノマルを関西の現代美術を牽引するポジションにまで引き上げ続けた。
美術、音楽、文学という分野間の越境
他のだれかやなにかと「似ていない」のは橋本さんだけでも.esだけでもなかった。
その情熱に背中を押され力をもらった
作品を購入することはアーティストの人生に直接かかわること。
「五感を超え、感覚が交差・拡散する地点」を基盤にしたものづくり。
作家の精神と思考を持った人だと直感した。
単なるアート・ギャラリーの位置に留まらせることなく唯一無二の空間に
現代美術界のP.S.F.レコードのような存在
彼から学ばなければならないものがたくさんあった
林さんの関わるプロジェクトに参加させていただいたことは私にとって嬉しいこと
「そんなにアイデアが出るのなら林さん自身が作家をやればいいのに」
詩が音で、ピアノが言葉であると気づかされた。
ずっと以前から知り合いだったような気がしています。
飄々として、さながら時の流れに身を任せて生きているようだった。
「こういう人のことを天才と呼ぶんだ」という人に初めて出会いました。
作家のこと表現のことになると宇宙からのシグナルを体で感じてる
極めて充実していた「晩年」の姿を、何度も目にすることができた
深江橋からスパーク、そしてまだ見ぬ世界へ、宇宙空間へ、
最も愛するギャラリーで、コレクションのきっかけを作ってくれたギャラリー
ありがとう。感謝してます。本当に面白かったよ。
コロナ禍が続く中、以前のように自由にコンサートを開催することが難しい状況ではあるが、これからも橋本君が喜び驚くような“とんでもない”演奏が、いろんな場所で繰り広げられていくことは間違いない。それを確信させる演奏会だった。
常に独自の表現を求め、常識を破壊し続けた橋本君に相応しく、「悼む・偲ぶ」のではなく彼が聴きたかったであろうミュージシャンを一堂に集めた演奏会を開催します。
そこには阿部や浦邊はもちろん、誰との比較をも許さない、冷徹なほど屹立したアルトサックスがモノトーンの色彩を放っていた。それは筆者の意固地なジャズへの被害妄想を突き崩し、贖罪として筆者は自分語りに始まるディスク・レビューを書くに至った。
改めて橋本さんは真っ直ぐに芯のあるプレイをしていたんだなと実感する演奏家でした。
みんなが彼から受けた輝きを、それぞれが身近な人に繋いでいけば世界は少し変わるように思います。そして私も、タカちゃんが繋いでくれたご縁を、大切にしていけたらいいなと思っています。タカは、みんなのタカだからー彼が愛した人たち、まだ会ったことがない人も含めて、私も愛して繋いでいきたいと思います。
今思うのは、彼と一緒に目指していたことを続けていきたい。それはドットエスとしての音楽活動やギャラリーを超えた何かだ。
アルトを手に、「どこにもない音」を追い求めていた橋本孝之さん。ダンサーとの共演を通じて触れた、その孤高にして至高のパフォーマンス。
橋本さんが亡くなったことを知った時は、混乱し、泣き、色々なことを悔やんだ。ご家族や関係者の方々のお気持ちを思い、悲嘆にくれた。だがしかし、いつまでも無念だ、残念だ、悔やまれるとばかり繰り返していても仕方がない。涙をぬぐい、頭を上げて、前に進んでいく、それが生き延びている者の責務だろう。結局のところ、言いたいことはそれだけだった。
僕にとっては一緒に音を作ってきた、家族同然の様な人だ。
背骨に向かって、音を出す人でした。
アートの世界は人間の形に扮した巨人を失いましたが、彼の魂は確実に生き続けるでしょう。
橋本孝之のアルトは独自性の強い、唯一無二のものだったと思います。私は阿部薫のアルトより、橋本孝之のアルトが好きです。阿部薫を超越していたところもあると感じていました。
情動と覚醒の切り替えが速い。感性と理性の均衡がずば抜けていいのだろう。そしていつも全力だから、彼には.esもソロもkitoもUHも同じくらい大事だということがわかる。聴けばわかる。
橋本孝之さんの音からは独自でありたいという表現者の矜持が強く感じられた。
最近作『CHAT ME』(NOMAT)、楽音を排したノイズから立ち上がるサウンドに、コロナ禍が続く中で擦り切れそうになっている今この時代の感受性が共振しているように思えた。
なお、橋本孝之の音楽のルーツには、阿部薫に留まらず、小杉武久をも孕んでいる。
そうまさに、その造形は奇想であり、くねくねとした自由な即興の蠢きのようでもある沖至のトランペットはシュールレアリスムそのものなのである。そのフォルムは思考を映しているのだと思う
沖さんの音は、そのお人柄のように、柔和で優しく深いけれど、強いものを潜めている音。そして、一点のブレ、一切の妥協もない。
沖さんがそこに立っているだけでそういう世界が出来上がってしまうというのは、表現者として実に素晴らしく、稀有な存在だと思う。
沖ちゃんは実に沖ちゃんらしく生きて、そして死んだ。
沖さんは、トランペット1本で幅広く多彩な表情を出せる人。シリアスなフリーから、スタンダード・ナンバーまで、他の誰でもない強い個性で演奏をされた。
沖さん何事もなく、この2本のマイクの音像を造って演奏された。私、何も口出さなかったけど。
打ち上げで、「あのマイク、グーだな」と。
自分の誕生日は忘れても、クリフォード・ブラウンの命日は、いつもローソクをあげてやるんですよ。それだけのものをあの音には感じます。
メトロで若いチンピラ共にぐるっと取り囲まれても沖さんはへっちゃらな態度をされていたことも思い返されます。
「沖さん、ほんとにほんとに長いことありがとう!また天国から蝶のようにひらひらと私たちのところに飛んできてください。」
PARISでも京王線の中でも少しも変わらない沖やん、もう少し一緒に音出したかったです。
OKIさん、さよなら、長い付き合いだった..。寂しくなるぜ。
限りなく自由でオープンで、人を喜ばせるのが大好きで、いつも合言葉はハッピネスとクールクール。
私はスペイン人の母と日本人の父の間にフランスで生まれ育ちましたが、日本の精神世界や哲学には自分のルーツを感じています。
「ステージでヌシコク(〝死ぬ″の隠語)の夢ですよ。木口小平は死んでもラッパを離しませんでしたってネ」。
背もたれのない椅子に腰掛け続けたのは、それも美しく腰掛け続けたのはあなただったと気がつけた。
沖さんは時と場所、相手にかかわらずいつでもどこでも沖至でいられる稀有な音楽家だった。おそらく体幹にしっかりとメインストリームを蓄えているからだろう。スピリットはつねにフリーであったとしても。
沖至の古くからの友人でもあり、現在のパリの即興シーンの重要なオーガナイザーの役割を果たすアトリエ・タンポン、マーク・フェヴルの主催により行われた。
最後の数年間は、毎年のようにJAZZ ARTせんがわに出演していたので、フェスティヴァルや場所と結びついて沖至が思い出される。いつもどこかで会う度に、沖至はパリの空気を纏っているような気がした。
日本のフリージャズのパイオニアでパリ在住の沖至が入院先の病院で8月25日に亡くなった。享年78。
清水さんが剽窃をしたということは「あとがき」で記されている以上、動かし難い事実である。理由が何であれ文筆家として決して許されるべきことではない。その責は自ら負うべきだ。
「菅チンの前でなんか恥ずかしくてとても弾けないよお」
自家用オスプレイが間に合わなかった。
ピアノの前に座った姿は渋谷毅でしかないという存在感。
“優れた作曲家は沢山いるし、名曲がたくさんあるのだから、わざわざ作らなくてもね”
私の音楽生活、どこを切り取っても渋谷毅さんが散りばめられてる…。
もう一回お二人の共演、聴いてみたかったなあ…
「三田くん、僕はスタジオに入ると先生だからね。」
僕にとって渋谷さんは非常に大きな存在でした。
謙虚さの中に真実がある
雅代さんは歌わなきゃだめです。
「音楽というものは、いつものところで、ずっと演ってきた仲間と演るものであって」
おおげさでなく、“生きる” とは?ということも考えさせられ、今も霧の中です。
ビッグバンドのリーダーならともかくピアニスト、コンボのリーダーとしてエリントンを掌中に収めるミュージシャンは、ほかに思いつかない。
渋谷毅さん最大のメンター、デューク・エリントン生誕120周年記念コンサートを回顧する。
渋谷さんが奏でるスタインウェイのコンサート・グランドはどこかよそいきの響きがしていた。
渋谷は強く自我を打ち出すような弾き方はしない。それでいながら、譜面から読み取った音を渋谷毅という存在を通して聴かせる。
渋谷毅はデューク・エリントンやセロニアス・モンクと肩をならべるジャズの王道を歩んでいる。
演奏は終わると必ず生悦住は、自らに言い聞かせるようにつぶやく。「生命を削って」まで聴きに来たのだ。
80年代より日本の最も先鋭的な音楽を紹介し続けてきた生悦住英夫が、2017年2月27日、筋萎縮性側索硬化症(ALS)のために死去しました。享年68。
喋るのも辛そうな状態だったので、話す負担すらかけさせたくない気持ちでした。私は作り笑顔で、部屋の雰囲気を暗くしないようにしようとする事がやっとでした。川島さんが「何か聴きたい音楽はありますか」と訊くと、やはり「船村徹」と答えられました。
また、特筆すべきは、私淑していたアメリカの音響彫刻家ハリー・ベルトイアのCDを出していただいた事です。ベルトイアのレコードは70年代、知られざる名作でしたが、全11枚のアメリカ盤の質の悪さは本当に情けない物でした。録音だけは生前の本人がしており、質は良かったので、なんとかこれをCD化したいものだと思い、生悦住さんに相談を持ちかけたのです。
G-Modern 25号を開いてみると、灰野敬二、JOJO広重、非常階段などの固有名詞があちこちに踊っている。表4の広告は灰野敬二のドラム・ソロのアルバムだ。そう、G-Modernは言ってみれば彼らの牙城だったのだ。
前衛音楽やサイケデリック・ロック等の代表的なレーベル、PSFレコードの主宰者で、レコードショップ「モダーンミュージック」のオーナーである生悦住英夫(いけえずみひでお)さんが2月27日に死去。享年67。
彼は実に真面目なのである。音楽に限らず全てのことに対してひたすら真面目な人間なのだ。ぼくが毎晩新宿で飲んだくれたり、「都はるみを囲む会」にのこのこ出かけていってズタブロの伴奏をやって大恥をかいたり、といった馬鹿なことをしている間にも彼は一心に自分の音楽のことを考え続けているのである。
ピアノを叩きながら無意蔵に唸るなんて、私にはとても素敵なことだと思う。耳ざわりだと感じる耳は、それだけ教育されてしまったことの証しとなる。バド・パウエルの唸り声を今さら引き合いに出してみても仕方がない。
今となっては、当時のリサイタルそのままに、カルテット、ソロ、オケのすべてを聴いて見たい気がする。
1978年5月、NYサウンド・アイディア・スタジオでのジョージ大塚「マラカイボ・コーンポーン」をプロデュースする菊地雅章。多くの “ECMアーチスト” が参加した。
ある日の菊地 Poo 雅章(1987年3月22日@NY ブルックリン グリーンポイント クラッカー・ジャップ・スタジオ)
AAOBB-All Night All
Live Report で「僕の胸を締め付けたのは<オルフェ>と<リトル・アビ>であった」と特筆した2曲が収録されているのは殊の外嬉しい。さらに嬉しいのは、<リトル・アビ>こと愛娘・菊地あびさん撮影のスナップが9点もブックレットに使用されていること。これはこれで立派な菊地さんのフォト・ストーリーになっており、父娘共演の珍しい1作となった。
東京文化会館小ホールでのライブ録音。大きな波動を感じさせるマイキングで捉え臨場感が見事。奏者の特徴的な高音部における連打が、肉厚に感じられ、これは従来の菊地雅章録音にはなかった収録の技。
帰り際、さすがに申し訳ないと思ったのか僕に靴とフランネルのパンツをくれた。新品ではなく菊地さんのお古。当時、菊地さんは最新流行のReebokのスニーカーを愛用していた。靴は茄子紺といったら良いのか本革のセミブーツ。お洒落好きの菊地さんらしい逸品である。
Pooは僕に生きることの戦いについて多くのことを教えてくれた。
気胸の他に悪性のものが見つかったとも漏らしていたがそれが何であるか問い詰める勇気は僕にはなかった
無理に一般概念にあるようなジャズにはしない、邦山の素晴らしさを充分に引き出せる構成に魅せられた。自分のピアノの誇示をするのではなく、まるでひとつの宇宙を完成させるような、そんなPooさんの演奏にも魅せられた。
俺もそうだけど、ゲイリー(ピーコック)もポール(モウシャン)もチャレンジが好きだからね。新しいテーマを決めてそれの達成のためにチャレンジしていく。
そこで聴いたのは、これまでの経験から導き出された幾重にもアップデートされた音表現の現在地である。それでこそ追悼演奏なのだ。
「ライヴができないなら動画配信」が主流になってきた昨今、日本の一都市・川崎の片隅で、極めてアナログな流通形態にこだわりながら日々発信し続けた近藤等則のミュージシャン魂と矜持、その無窮(むきゅう)の音世界は、かけがえのないギフトとして今こそ深く心に刻まれるべきだ
海外ミュージシャンの招聘活動も積極的に行い、その数はのべ23名にも達する。特に82年には、オランダを拠点にするインターナショナルグループ「ICPオーケストラ」を招く。
E.E.U.は、こうして、今、グループとしての活動を終える時期に来た、と僕は思う。
僕のような旧世代人にはせっかく生楽器の良い音を持っている人のエレクトリック化は、勝手な一ファンに立ち還ってみればマイルスをはじめどうも受け入れがたいこともあるものなのだ。
若く、ナイーヴな近藤等則がここにいる。71歳の老水夫のなかに、即興演奏の大海に漕ぎだしたばかりの若者がいた。さようなら。いやボンヴォヤージュ。
その後、エレクトリック・トランペットを演奏しTVで特番が放送されたりと、常に変化をし続ける姿は、歳を重ねる毎に益々輝いて見えた。
高木元輝 吉沢元治 近藤等則
じつはこの9月にデュオ・ツアーとレコーディングを計画していたのだが、パンデミックのためすべての可能性がつぶされてしまった。最後の会話は、再演を2021年に延期しようということだったのだが..。
As a member of the Globe Unity Orchestra, we have been works together for many years and I remember him as a great player.
彼が終生名乗っていた IMAは International Music Activity のイニシャルで(僕は密かにIMAは故郷の今治市の今と、現在の今にも通じると思っているのだが)、まさに音楽事業も彼の音楽活動の一環であることを表しているとおもう。
コンちゃん!まさかの信じられないニュースやなあ。お釈迦さまのところへ、か。チベタンの青空と太陽のニューラルネットワークからいつでもどこでも交信できる。
THANK YOU!! OHAYOH-MAN!!
ありがとね、サイコーだったヨ、コンちゃん!!
ドラマー山木秀夫さんのFacbookからシェアさせていただきました。
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一時代の天才を失った痛みを痛感します。
ご霊前に弔意を捧げます。
あまりに急報だったからではなく、死ぬはずがない男だと 思わせる生き様も特異だったので、音楽上はおろか、多方面での付き合いも多々あった。中でも故人と筆 者しか誰も知らない出来事が脳裏に浮かんだので供養に変える。
彼は強烈な個性を持っており、彼の人間性と作品は我々の記憶から消えることはないでしょう。
毒・華・土性骨—これらを兼ね備えるステージ人は稀有である。
アーティストにとって最も大切なのは唯一無二の個性だが、近藤の音には一聴すればたちどころに誰だかわかる強烈なビートと香気がある。巧い/下手で語る次元が霞(かす)む毒性。その衝撃は、視覚よりもはるかに速い。
近藤等則のエネルギー体は、常日頃のライブ・パフォーマンスに於いても、惜しげなく放たれ、人々を魅了し続けてきた。最晩年、コロナ下でのライブの「レスポンスの無さ」を嘆く近藤等則がいた。
彫りが深く、長い眉毛や睫毛、見開いた大きな眼を持つ近藤等則の骨相は、まるで快慶作の仏像彫刻のようだった。
テン年代に何回か体験した近藤の演奏は、30年前のフリージャズ体験をアップデートする新たな衝動を与えてくれた。近藤の突然の死にあたって、自分の体験したライヴの感想をブログ記事から抜粋することで、筆者なりの追悼文とさせていただきたい。
非常にお茶目な面もある、いくら毒舌を吐いても憎めない「カワイイ」と言ってもいいくらいの人で、僕はとてもラクに楽しくしゃべれた。
とにかく、氏の関心は過去にはなく、今現在と、さらには、より未来に強くあるというのが強烈な印象として私の中に残った。
世の中なんかクソ食らえ!魂の自由が音楽だ!とシャウトしてるのに、あまりに鈍く酷いコロナ禍の人間達。俺に文句があるんならいくらでも言ってくれ!!!
近藤等則は日本人にしかできないビート音楽を目指していたのだと思う。筆者にとってはマイルスの影響が強く聞こえ、かつマイルスがやらなかったディスコビートに賭けた近藤を分析してみた。彼の驚くほど豊富な斬新なアイデアや、洒落たコミカルな部分や、歌のうまさや、コロナ渦に入ってさらに自宅から5枚のアルバムを出すその精力。偉大なアーティストを亡くした。
音量と音質がイーヴン。生楽器の身体性が成功裡に飛躍する。
警鐘となりえる芸術は、今どれほどあるのだろう。相も変わらず、商業主義の上に乗った現状を照らしただけの、描写的なものが幅を利かせているのではないか。近藤等則の音楽は、いつも根治的で潔い。直に病巣に斬り込む。何が急務なのかは、今の地球の悲鳴を聴けば明らかだろう。
テクノロジーのうえに成り立つ音楽であるのに、到達している境地は柔和で清澄。すっと心に浸透する音色が何より魅力的だ。そこには、さまざまな相剋を超越した後に訪れる虚無や、どこか東洋的な音韻もたゆたう。
ジャズでもロックでもなくただひたすら「音楽」というセッション。我々は途轍もなく大きな奇跡を目撃したのではなかろうか。
自分のいのちを解放し、システムの中に飲みこまれずに生きていく、誰に何と言われようが、自分のいのちに忠実に生きるという自我にたいする過激な姿勢
トム・レイズは近藤等則のサウンドを無意識下の身体でじっと受け止め、湧き起こる内なる衝動をキャンバス上に描く。近藤の音位相は不思議なくらいナチュラル。そのヴァイブレーションで小さなスペースの中にユニヴァーサルな音空間が現われる。近藤が発するビートに呼応して体を揺らしながら描くレイズ姿はダンサーのようでもあり、音楽への反応の仕方はミュージシャンのようでもあった。
オマさんは世界を見渡して見ても、何処にもいないユニークなベーシスト、ミュージシャンだった。オマさんに初めて会ったのは記憶を辿る限り、自由が丘にあった「5スポット」という店だったと思う。
類稀な才能を持った人だった。多彩で目新しいものにすぐ飛びつく習性。また新しい人材の発掘や新人の才能の引き伸ばしを的確な助言の数々で多くのミュージシャンを輩出したことでも、天才的な才能を発揮した。そして常に俯瞰した場面を見抜く耳の良さと野生的で獲物を捕らえるような瞬時のスピード感は天下一品だった。
オマさんのオリジナル曲は頭の中では完成していますが、それを譜面にするのは僕らの仕事でした、オマさんの、大体こんな感じなんだよ、を、B♭7 や D Major などに翻訳していくのは楽しくもあり、人生経験でもありました。
オマサンは『バラードはオンナ(女性)を泣かさなくちゃダメだ。音を出す何万分の1のポイントを外したら絶対に泣けないんだ。そのタイミングを一生懸命いつも練習してるんだよ』とよく言っていた。本当にその通りだと思う。
プレイはもちろん、絵を書いたり裁縫したり、博打だろうがなんでも凝り性でそこに独特のものがある。こんな人にあったことはありませんし、これから先も現れないでしょう。
オマさんのスピリットはいつも僕たちと共にある。そしてこれからもオマさんから教えられることはあるんだろうなと思う。
自分の感じるオマさんのベースの魅力はなんと言っても「スピード」だと思う。楽器を速く弾くという意味ではなく、「音楽全体をデザインする構成力」と「インスピレーションを実際に音にする速度」がずば抜けて速い。
オマさんはスポンジのような人だった。演奏中でも何気ない世間話中でもその場を全部吸い取って、自在に自分の姿や場の空気を変化させていく。変化させなきゃ気の済まない人だった。しかも凄まじい速さで。
出会った最初から、最後の最後まで、お洒落で格好いい人でした。 頻繁に掛かってきていたオマさんからの電話も、もう掛かってこないんですね、寂しいです。
「自分でリーダーやってみないと分からないぞサトシ、俺の苦労が。瞬間瞬間で誰がどんな音を出していてそれを瞬時に察知して一番良い事やらなきゃいけないんだよ。難しいだろ!」
オマさんとの演奏は常に何が起こるか分からない、いつも崖っぷちのような緊張感でした。また全ての体験が漫画の様な派手で劇的な事ばかりでした。
日本を去るにあたってこれだけのことをいった以上、帰国した時の演奏を聴いてくれとしかいいようがない。その時どれだけ変わっているか、よくなっているか、最大限僕はやってみせる。
物質界を脱いでヒカリの存在になったオマさんは持ち前のスピード感が最大限にアップして宇宙空間を自由自在に駆け巡るんだろうなあ。
私にとって、オマさんのベースと私だけで歌う事は非常にチャレンジでした。イントロからして尋常ではなくて…
スピード感溢れる凄いプレーとうねるグルーヴを軸に、バンドメンバーの即興演奏が絡み合い一体化したときに起こる奇跡的で渦巻くような美しい世界、ジャズ特有のエネルギーをここで体験した。
「オマさん僕と演奏お願いします!」子供の頃から母のレコードでオマさんの音を聴いていた私は、とにかくオマさんとプレイしたくなり無謀にもそう伝えました。
音楽をやっていても音楽以外でご一緒させていただいていても、オマさんの周りにいるとミラクルが頻繁に起こっていました。
高校三年生の夏休み、いきなり知らない電話番号から不在着信が27件。「ベースの鈴木勲だけど。」この電話からミュージシャン人生が突然はじまった。
いつもオマさんと演奏した夜のあとは、どんなジャズを聞いても、聴こえ方が違いました。ジャズの場がそのまま完全な臨場感を持って聴こえ、CDのむこうにいるグレイトなミュージシャン達の言っている言葉が理解できる気がする。それはそのままオマさんの作り出していた場がジャズそのものだったという事でしょう、そんな場に当事者として参加する事を許された事は自分にとって今でも恩恵でしかありません。
とにかく色んなことがあったし、沢山のことを学ばせていただいた7年半でした。僕にとってかけがえのない宝物です。
いつだってOmaさんの音を聴くと背筋が伸びる。真剣な眼差しをいつでも思い出させてくれる。ほんとに全てに欲張りな人だったけど音楽がいちばんな人で最後までリアルジャズメンだった。
ジャズかどうか、クラブ系かどうか、などジャンルは関係なく、ここに刻まれた演奏は、ふたりの求道的表現者が全身全霊をかけて交感した、紛れもない真の即興演奏の記録に他ならない
長年にわたって現像や焼付けの研究を重ねた彼は、「ジャズクローム」と名付けられた焼付け処理法を開発したが、これは彼の写真技術の頂点をなすものである。
きみの演奏は多くの人に様々な力を伝えたようだ。そして、きみのベースアンサンブルのメンバーがきみのメロディーを力いっぱいに弾いていく姿を見ると、きみのスタイルが伝わっていることが分かる。そういう演奏をするベーシストはきみ以外はいなかったからね。しかし、最後は急ぎ過ぎたかな、お疲れ様でした、徹ちゃん。
齋藤徹の軌跡は私の記憶の中でさまざまな事象にシンクロしながら、その時々の音楽動向、即興音楽を取り巻く変遷と共に蘇ってきた。それは「音をさがして」の旅だったのではと今にして思う。
1999年、CD『Poem Song』に先立つ日本ツアーの途次、札幌でのコンサートから。
貴方は一本の古木とも共演できる人でした。
人に実存を強く覚知させる類の音楽だったと思っています。
「私の方が彼に学ばせてもらっています」—-齋藤徹さんから、何度その言葉を聞いただろう。
音楽の本質とは何かを常に問いかけてきた徹さんは、私にとっては試金石のような存在でした。
ぶっ飛びました。今まで聴いたことのない爆裂サウンド。歪みッぱなし。
バールと齋藤徹との明確な違いは、齋藤徹がすぐれて日本的な個有の様式美を確立していることなのだ。
齋藤徹は、再び、ことばを中心に据えたプロジェクトを形作った。それは音楽だけではない。同時代の詩人たちが詩を持ち寄り(齋藤の幼馴染であった渡辺洋は故人ゆえ、齋藤が渡辺の詩を選んだ)、松本泰子が歌い、庄﨑隆志が踊る。また詩人たちも朗読などによってテキストだけではないかかわりを持つ。