Chapter 48 ケニー・ドーハム
photo&text by 望月由美
撮影:1964年11月7日 有楽町ヴィデオホール
アルバム『クワイエット・ケニー』(NEW JAZZ,1959)、淡いモス・グリーンに染められたジャケット。ドーハムのうつろな表情とトランペットのワン・ホーンという内容から、なるほどと頷けるキャッチーなネイミングで、その名の通りにドーハムは静かにひたひたと心の中に浸透してゆくタイプのミュージシャンである。
A面の1曲目<ロータス・ブロッサム>、アート・テイラーのシンバルが快いリズムを刻む中を蓮の花のまわりをひらひらと舞う蝶のように軽やかに響きわたるドーハムのトランペット。
いぶし銀の音色は日本の空気にとけこんでドーハム=ロータス・ブロッサムというイメージが定着した、少なくともジャズ喫茶では。
そしてB面の一曲目にもドーハムのもう一つの当たり曲<ブルー・スプリング・シャッフル>が入っている。
エドゥアール・モリナロ監督の映画『彼奴を殺せ』(1959)で効果的に使われ大ヒットした曲で、ドーハム自身も気に入っていたのか何度か録音をしている。ドーハムはリバーサイド盤『ブルー・スプリング』(RIVERSIDE,1959)ではこの曲を単に<ブルー・スプリング>とクレジットしている。
また、ジョン・コルトレーンやセシル・テイラーと共演するという異色の組み合わせの『ハード・ドライヴィング・ジャズ』(United Artists,1958)ではこの曲を<シフテイング・ダウン>とクレジットしているという具合に、曲名のクレジットがそのつど違っていて、ソニー・ロリンズ(ts)に至ってはこの曲をアルバム『ニュークス・タイム』(BLUE NOTE,1957)で<エイジアティック・レエズ>とクレジットして演奏しているなどドーハムの曲名の扱い方がかなりラフだったようである。
日本でドーハムに与えられた称号は“アンダーレイテッドなトランぺッター”であった。
なんどかマイルスやクリフォード・ブラウンの後任を務めたことからこのようなレッテルを貼られていたが、見方を変えればニューヨークのジャズ・シーンで現場の仲間達からマイルスやクリフォードというジャズ・グレイトの後をつぐことのできる実力を認められていたのがドーハムだったのだとも云える。
1948年、マイルスがパーカーのもとを辞め、後任としてパーカーのクインテットに加入、また1954年の春、クリフォード・ブラウン(tp)がアート・ブレイキー(ds)のジャズ・メッセンジャーズを辞めてマックス・ローチのグループに移った時もブレイキーから声をかけられてメッセンジャーズ入りをしている。
ドーハムとマイルスのかかわりについてはマイルスが自伝の中に記している。
1957年のある夜、場所は伝説のカフェ・ボヘミア。マイルスのセットにドーハムがやってきて飛び入りで吹き、マイルスより目立つ演奏をして意気揚々と引き上げていった。そしてその翌日もドーハムがやってきて今夜も吹かせてほしいとステージに立った。今度はマイルスがドーハムを完全にねじ伏せたという話が載っていて、決着はつかなかったようである。
二人ともボクシングのたしなみがあったがここでは音での戦いの話。
1960年代、ハード・バップ全盛のニューヨークのシーンの中でドーハムとジャッキー・マクリーン(as)は二人ともそれとはちょっと趣むきの異なったナイーブなニュアンスを持っていたこともあってかお互いに馬が合い1961年に双頭グループ「ケニー・ドーハム&ジャッキー・マクリーン・クインテット」を結成し始動する。
二人は1961年11月サンフランシスコのクラヴ「ジャズ・ワークショップ」に出演し『インタ・サムシン』(PACIFIC JAZZ,1961)をライヴ録音、翌1962年にはドーハム名義で『マタドール』(UNITED ARTISTS,1962)を録音する。
そして1964年11月に二人は揃って来日し仲良く有楽町ヴィデオホール「1964;ジャム・セッション」のステージに立ったのである。
ステージ上のドーハムはジャケット写真を見て想い描いていた通り、はかなげな表情で感情を表に出さずにうつむき加減で所在なさげに立っていた。
そのクールな佇まいは音を出したとたんに粋でいなせな男だけが持つ色気を漂わせた。
ドーハムの吹くバラードはマクリーン(as)、ゴルソン(ts)、ハバード(tp)というこの夜のフロント勢の中でもひときわ洗練されたスタイリストぶりを発揮したのである。
ドーハムの生音にはリリカルな美しさの中にも腰の据わった芯の強さがあった。
ドーハムはナイーブな感性を持ったたぐいまれな芸風で日本のファンに心のたけを披瀝してくれたのである。
ドーハムは歌も唄うミュージシャンズ・シンガーでもあった。
チェット・ベイカー・シングス&プレイズにならってか『ケニー・ドーハム・シングス&プレイズ:デイス・イズ・ザ・モーメント!』(RIVERSIDE,1958)というアルバムも創って唄を歌っている。
サッチモやクラーク・テリー、チェット・ベイカーなどトランぺッターには歌の好きなそして本当に味のある歌の上手い人が多いが、ここでのドーハムの唄声はチェットのような小粋さは残念ながら感じられず、トランペットの美しさとの落差だけが目についてしまう。
ケニー・ドーハムは1924年8月30日、テキサス州フェアフィールド近くのポスト・オークの人里離れた大平原で生まれる。
本名はマッキンレイ・ハワード・ドーハムで、マッキンレイを呼びやすいように縮めてケニーとしてしまったそうである。
親は農園で農夫をしていたのでドーハムは家畜の世話をしながら動物や鳥の鳴き声、カウボーイが唄うヨーデルなどを聴いて育ったという。
ドーハムの吹くブルースやバラードにエキゾチックな香りが漂うのはこうした少年時代に自然と身についたものかもしれない。
人里離れた農園に全くジャズは耳に入ってこなかったが、12歳の時に都会に住んでいた姉が家に帰って来たときにルイ・アームストロングの話をしてもらってジャズに興味を持つようになる。
ドーハムはオースティンのアンダーソン・ハイスクールに通い、そこでピアノとトランペットを始めている。
はじめ学校のブラスバンドで吹いていたがそのあとボクシング部に入っている。
大学はウィエーカレッジに進み化学を専攻するがひたすら音楽に没頭し、アレンジや作曲も試みている。
ドーハムは1942年に兵役により陸軍に入隊、そこでボクシング・チームに所属する。
この軍隊ではブリット・ウッドマン(tb)と一緒になり、バップに夢中になる。
1943年に除隊後はヒューストンでラッセル・ジャケ―・オーケストラに入団しプロ入りする。
1944年にカリフォルニアに行き、そのあとニューヨークへと移り住む。
翌1945年にはディジー・ガレスピー・オーケストラそしてファッツ・ナヴァロ(tp)の後継としてビリー・エクスタイン・オーケストラに入団する。
ビリー・エクスタインのバンドで最初に声をかけてくれたのがアート・ブレイキーだったそうである。
1946年にはビリー・エクスタインとディジー・ガレスピーの両オーケストラの一員としてレコーディングにも参加している。
この頃はライオネル・ハンプトン、マーサー・エリントンなどオーケストラでの仕事が続き、ベニー・カーターやクーティー・ウイリアムスのバンドにアレンジの提供などをしている。
1948年12月のクリスマス・イヴ、場所はマンハッタンのクラヴ「ロイヤル・ルースト」のステージにドーハムは立った。
この日はマイルス・デイヴィスの後任としてチャーリー・パーカー・クインテットに抜擢された記念すべき夜である。
時にドーハム24歳、マイルス22歳の交代劇であり、この夜の演奏は<ホワイト・クリスマス>のセッションとしてアルバム『コンプリート・ライヴ・パフォーマンス・オン・サボイ』(SAVOI,1947~1950)に収められている。
その翌年1949年5月にはパリのジャズ・フェスティヴァルに出演するなどパーカーとは1955年3月12日パーカーが亡くなる直前まで折にふれて共演をしている。
パーカーとの共演はサボイ・レコードからのアルバムが発表されているしブートでも前述のパリのセッションを含め多数のアルバムが出ている。
しかしドーハムはしばしばニューヨークのジャズ・シーンから一時的に姿を消していた。
ミュージシャンの収入だけでは家族を養えないため様々な仕事をしていたようで、この辺の事情もアンダーレイテッドと云われる要因かも知れない。
一時期カリフォルニアに出向いて日雇いの仕事をしていたということも伝えられているが、1950年に再びニューヨークのシーンに戻ってくる。
この50年代の前半ドーハムはしばらくの間フリーランスでバド・パウエル(p)やソニー・スティット(reeds)、セロニアス・モンク(p)、メリー・ルー・ウイリアムズ(p)等と演奏をしている。
モンクの『ジーニアス・オブ・モダーン・ミュージック Vol.2』(BLUE NOTE,1947~1952)の1952年のセッションにも加わっているがすでにドーハム独特の節回しが展開されている。
そして1953年にジミーヒース(ts)との2管で初リーダー・アルバム『ケニー・ドーハム・クインテット』(Debut,1953)を録音する。
1954年の春、アート・ブレイキーに請われてクリフォード・ブラウンの後任としてジャズ・メッセンジャーズに加入する。
メッセンジャーズでは『ザ・ジャズ・メッセンジャーズ・アット・ザ・カフェ・ボヘミア』(BLUE NOTE,1955)でクリフォードの後任以上のりりしい演奏をしている。
そして1956年の春にはJ.R.モントローズ(ts)とグループ「ジャズ・プロフェッツ」を結成してカフェ・ボヘミアに出演『ラウンド・ミッドナイト・アット・ザ・カフェ・ボヘミア』(BLUE NOTE,1956)をライヴ・レコーディングし、さあ、いよいよこれからバンドのリーダーとして躍進しようという矢先の6月26日、クリフォード・ブラウンが交通事故により25歳の若さで亡くなってしまい、急きょマックス・ローチに請われてクインテットに参加し自己のグループはそのまま空中分解してしまう。
ローチのもとには11958年の夏まで在団、ブッカ―・リトル(tp)がその後をついだ。
ローチのクインテットではエマーシーに『JAZZ INN 3/4TIME』(EMARCY,1956~57)という全編3/4拍子の作品に参加し際立った演奏をしている。
また、このころのローチはエマーシーと契約していたため表むきソニー・ロリンズをリーダーにしてプレスティージに何枚かのアルバムを作っているが『ROLLINS PLAYS FOR BIRD』(PRESTIGE,1956)では<マイ・メランコリー・ベイビー>をドーハムならではの美しい音色でパーカーのトリビュートをしている。
60年代に入りジョー・ヘンダーソン(ts)とコンビを組む。
『ページ・ワン』(Blue Note,1963)では<ブルー・ボッサ>や<リコーダ・ミー>など日本で好評だったが経済的には依然として苦しい状態が続きドーハムは60年代の後半から次第にジャズ・シーンを離れ、郵便局などで働くようになる。
また一方で、NYU音楽学校で音楽を学び直し、トランペットを吹くことは少なくなりダウンビート誌でレコードのレヴューを書いたりして執筆活動も始めていた。
しかし、1970年に入ってから腎臓が悪化し透析を始め治療に努めるが、1972年12月5日、48歳という若さでクリフォード・ブラウンやマイルス・デイヴィス、ブッカー・リトルのもとへ旅立ってしまった。
ケニー・ドーハムの故郷テキサス州のフリーストーンにはドーハムの碑が建てられている。
ケニー・ドーハムは<ウナ・マス>や<ブルー・ボッサ>などジャム・セッションの定番曲からジャズ・メッセンジャーズ時代の<マイナーズ・ホリデイ>、ラテン調の<エル・マタドール>まで数多くのジャズ喫茶の人気ナンバーを作曲しているがポピュラーな人気を得るまでにはいかなかったし、やはり渋好み、通好みのアーティストと云える。
ドーハムの家族は夫人と3人のお嬢さんの5人家族であったが家族思いのドーハムは演奏の場に夫人やお嬢さんを連れてゆくこともあったという。
お嬢さんのEvette Dorhamはジャズ・ジャーナリズムの世界で活躍しWebサイト「THE JAZZ NETWORK WORLDWIDE A GREAT PLACE TO HANG.」や「WASHINGTON DC JAZZ NETWORK」などを通じて父ドーハムの業績を伝え続けている。