Chapter 44 ジェリー・マリガン
photo & text by 望月由美 Yumi Mochizuki
撮影:1964年7月6日 東京サンケイホールにて
ふりそそぐ太陽、青い海原に波しぶきをたててすいすいと進むヨット、身体を縦に上下運動するジミー・ジュフリー、竹のフレーム眼鏡のモンク、粋な姉御アニタ。映画「真夏の夜のジャズ」のシーンは今でも鮮明に瞼に浮かぶ。
そしてジェリー・マリガンの<As Catch Can>、いつの間にか陽は落ちて夜の屋外ステージ。
スポットをあびてクールにスイングするマリガンはたちまち輝かしい青春のあこがれとなった。
そして1964年の7月、初来日したマリガンは東京サンケイホールのステージに立った。
このときのメンバーはボブ・ブルックマイヤー (valve tb) 、ビル・クロー (b)、デイヴ・ベイリー (ds)というピアノレス・カルテットである。
控えめでしかし着実にスイングするリズムをバックにマリガンとブルックマイヤーが定番のレパートリーを定番どおりにアンサンブルしアドリブをとる。当意即妙の二人の掛け合いは次にどんなフレーズがくるか分かっていても面白い。
1964年の7月はジェリー・マリガン・カルテットのほか「THE WORLD JAZZ FESTIVAL」のマイルス・デイヴィス・クインテット、ウイントン・ケリー・トリオ、JJ ジョンソン・オール・スターズに加えて、6月から来日中のデューク・エリントン・オーケストラ等々がいっぺんに集まってしまったのだから東京中がミュージシャンであふれかえった状態であった。
この時のもようをマリガンと一緒に来日したビル・クロー (b) が著書「さよならバードランド」(新潮社、村上春樹訳)に面白い裏話を書いている。
ビル・クローによるとマリガンは帝国ホテルに泊まっていたそうであるが、そこにエリントン楽団の重鎮ハリー・カーネイ (bs) 達が訪ねてきたそうである。ワインを飲みながらの夕食のあとビル・クローとデイヴ・ベイリー (ds) はハリー・カーネイと帝国ホテルのロビーで談笑をしていたが夕食時のワインが効いたせいかハリー・カーネイが座り心地のよいイージーチェアに深く沈み込んで寝入ってしまったのだそうだ。起こしてホテルに連れて行こうにも大きな身体のカーニーをとても動かせないのでホテルのマネージャーに事情を説明するとそのマネージャーはすぐに枕と毛布を持ってこさせてハリーの寝支度を整え、そのまま一晩寝かせてくれたのだそうだ。
翌朝ロビーに行ってみるとハリーの姿はすでになかったという。目覚めたハリーはすでに次なるロードに旅立ったのだそうだ。さすが帝国ホテル、頭が下がる。
ジェリー・マリガンは一般的にはウエスト・コースターと云われているがマリガンほどノー・コーストの人はいない。
その人柄からか、パーカーからガレスピー、チェット、マイルス、モンク、ギル、エリントン、ホッジス、ウエブスター、ブルーベック、デスモンド、コニッツ、ゲッツ、ズート、ピアソラ、スコット・ハミルトン等々マリガンの交友関係は西・東に関係なく広がっている。
マリガンが17歳の時、フィラデルフィアのミュージック・アカデミーでのコンサートでテナーを吹いたとき、丁度パーカーやガレスピー、サラ・ヴォーン達がフィラデルフィアに来ていて、パーカーがマリガンをジャム・セッションに招いてくれたという逸話がある。
マリガンはてっきりパーカーが聴きにおいで、と招待してくれたものと思ってジャム・セッションに出向いたところ、パーカーはフロントからマリガンのテナーを持ってきてマリガンに「さぁ吹いて」、と差し出したそうである。そのときマリガンの心臓はパクパクだったそうだがそこはマリガン、パーカーの前でテナーを吹く。このパーカーの一言がプロの道に推し進める力にはなったようである。
マイルス・デイヴィス(tp)とはギルを通じて知り合い、『クールの誕生』(Capitol、1949~50)にアレンジとプレイで一役買っているが、マリガンは後に『Re-Birth Of The Cool』(GRP、1991)でこの再演を果たしている。
ジェル―(JERU)というマリガンの愛称はマイルスが付けたのだそうである。
マイルスとは1955年のニューポート・ジャズ・フェスティヴァルで共演する。
マイルス、ズート・シムズ (ts)、マリガンの3管にモンク (p)、パーシー・ヒース (b)、コニー・ケイ (ds)という豪華なリズムによるジャム・セッションで、この時演奏された<ラウンド・アバウト・ミッドナイト>はマイルスの名前をいちやく世界に広めたのである。
あるときマリガンはグループに何か新しいアイデアを付け加えようとグループのリハーサルにモンクを呼んだ。モンクとは同じニューヨーカーで古くからの顔見知りなのである。
そしてそのリハーサルの休憩中にビル・クローがモンクに ”あなたの曲のいくつかはベース・ラインを探すのがとても難しいね” と話を持ち掛けるとモンクは ”じっと耳を澄ましていればいいんだよ、そうすれば正しいやり方は自ずとみつかるから” と答えた。モンクらしいこの一言に正しいモンクの聴き方の極意が潜んでいる。
モンクとマリガンはこのあと『マリガン・ミーツ・モンク』(RIVERSIDE、1957)を録音している。
また、マリガンとブルックマイヤーは演奏の途中で気の向くままにピアノを弾くことがあるので、このグループにはピアノ・レスではありながらピアノが二人いることになる。
マリガンのピアノはモンクに似て訥々と単純明快、スタイルを超越したほのぼのとした味がある。
一方のブルックマイヤーもどちらかといえばのほほんとしたトロンボーンに比べてピアノは端正なバップ・ピアノを弾く。
二人のスタイルの違うピアノを聴き比べるのもこのグループの楽しみの一つである。
ジェリー・マリガンは1927年4月6日、ニューヨークに生まれている。
エンジニアだった父親の仕事の関係で子供のころはいくつかの州を転々とする。
7才でピアノを、管楽器はクラリネットから始める。
14歳の時はペンシルベニアに住んでいてでテナー・サックスを Sam Correnti に教わったが先生のサムは奏法の他にマリガンにアレンジも勉強するように勧めてくれた。
16歳の時、マリガン一家はフィラデルフィアに引っ越し、マリガンは学校でビッグバンドを組織してアレンジの腕を磨く。また放送局のディレクターに編曲の売り込みを行い、エリオット・ローレンス・オーケストラにアレンジを提供することになる。
そして1946年にエリオット・ローレンスとともにニューヨークへ移り住み、翌1947年にはジーン・クルーパ楽団に<ディスク・ジョッキー・ジャンプ>を提供、アレンジャーとして認められる。
この頃からマリガンはクロード・ソーンヒルにもアレンジを提供、ソーンヒル・オーケストラにアルト奏者としても加わり、そこでやはりソーンヒルのアレンジをしていたギル・エヴァンスと知り合いギルを通じてマイルスやコニッツなどと交流を深めてゆき1948年9月にはマイルスの9重奏団で「ロイヤル・ルースト」に2週間出演、前述のアルバム『クールの誕生』につながる活動をする。
その後、ふたたびエリオット・ローレンスやクロード・ソーンヒル等を経て1952年にマリガンはカリフォルニアに移住しウエスト・コーストで活躍することになる。
マリガンはウエスト・コーストに行く直前にプレスティージに『マリガン・プレイズ・マリガン』(Prestige、1951)をレコーディングしていて9人編成とクインテットが録音されているがそのどちらにもなぜかゲイル・マドンという女性のマラカス奏者が入っている。
当時マリガンとゲイルは新婚ほやほやでレコーディングにも加わってしまったと云い伝えられている。
ゲイルはカフォルニアにも一緒に同行したが1年程で別れている。
ロサンジェルスではスタン・ケントンにアレンジを提供したり、ウエスト・コースト・ジャズのメッカと云われる「ライトハウス」に出演していたが、あるときリチャード・ボックというロサンゼルス・シテイ・カレッジの学生と出会う。
リチャード・ボックはアルバイトで小さなクラブ「ヘイグ」の月曜日のプログラムを任されていたので早速マリガンにも出演を持ち掛け、マリガンも「ヘイグ」でジミー・ロールズ (p) やチコ・ハミルトン (ds)、レッド・ミッチェル (b) などとセッションを始める。
しばらくしてチェット・ベイカー (tp) も「ヘイグ」に出入りするようになり、やがてマリガンはチェットとコンビを組むことになる。
マリガンとベイカーのピアノ・レス・カルテットは大評判となり月曜日の「ヘイグ」の前にはカルテットを聴こうというお客で大行列ができたという。
1952年8月16日、リチャード・ボックとマリガンはジェリー・マリガン・カルテットの記念すべき初レコーディングを行う。<木の葉の子守歌>と<バーニーズ・チューン>の 2曲をSP盤 (78回転シングル) としてリリースするがこれが大ヒットし、次から次へとレコーディングすることになり、一躍カルテットはウエスト・コーストの人気バンドとなった。レーベル「パシフィック・ジャズ」の誕生である。
1952年から53年のわずか1年足らずの間にカルテットは「パシフィック・ジャズ」のほかジーン・ノーマンの「GNP」そして「ファンタジー」にレコーディングを行っている。
マリガン&ベイカーが人気絶頂期の1953年1月ジーン・ノーマンの下でウエスト・コーストのビッグ・アーティストを集めてマリガン念願のテンテット録音を果たす。「クールの誕生」をより洗練、スイングさせたような作品で後のマリガンの方向をくっきりと示している。
しかし、人気バンドのコンビは意外にも短命に終わった。コンビを組んだ翌年の1953年、ドラッグがらみで一時期マリガンが拘束されていた間にチェット・ベイカーがラス・フリーマン(p)とカルテットを組み「ライトハウス」や「ヘイグ」に出演しマリガンがいない間にスターになっていてマリガン・ベイカーのコンビは自然消滅してしまったのである。
二人の間にはいろいろ確執があったかのような話が取りざたされたこともあったが当の本人同士は意に介していなかったのか。
1957年12月には『リユニオン』(Pacific Jazz、1957)、『アニー・ロス&マリガン』(Pacific Jazz、1957)そして1974年11月に『カーネギーホール コンサート』(EPIC、1974)で共演している。
1954年、自由の身となったマリガンはボブ・ブルックマイヤー (valve tb) とコンビを組み活動を再開、7月にはパリ・コンサートを、12月にはズート・シムズ (ts) とジョン・アードレー (tp) を加えた4管のセクステットを編成しカリフォルニアのストックトン大学、フーバー・ハイスクールでコンサートを行い旗揚げした。マリガンは時に応じてこのセクステットからテナーとトロンボーンを抜いてマリガン・ベイカーで人気を博したトランペットとバリトンの2管カルテットとしても演奏するという経営的にも効率的な編成を編み出した。
このセクステットは1955年から56年の2年間にマーキュリー/エマーシーにレコーディングを行い、『プレゼンティング』、『プロフィール』、『メインストリーム』の3枚のアルバムとしてリリースされたがスイングジャーナル誌の編集長やフォノグラムの役員等を歴任し現在NHK-FMの「ジャズトゥナイト」を担当している児山紀芳さんがフォノグラム時代にアメリカのテープ保管庫をしらみつぶしに探してこのセクステットの録音テープを発見、未発表音源も含めて録音日ごとに整理し『メインストリームVol.1,2,3』と云う3枚のアルバムにまとめてリリースし、海外でも大いに評価されたことは記憶に新しい。
この頃、マリガンはアート・ファーマー (tp) を迎え入れヨーロッパ・ツアーや1958年のニューポート「真夏の夜のジャズ」出演などを経て『WHAT IS THERE TO SAY?』(COLUMBIA、1958,59)を制作する。ファーマーの持ち味が活かされた心落ち着く演奏である。
またマリガンは1958年、映画「私は死にたくない」への出演を機に映画出演に積極的に取り組むようになり、59年には「地下街の住人」「ねずみの競争」と映画への出演が増え、一時期ハリウッドに滞在する時間が多くなった。
そのため、そのあいだ仕事がなくなったアート・ファーマー (tp) はベニー・ゴルソンとジャズテットを結成し、当然のなりゆきとしてカルテットは自然消滅してしまう。
このハリウッド時代に女優のジュデイ・ホリデイと知り合い恋に落ちたようである。
1960年、マリガンは3トランペット、3トロンボーン、5サックスにベース、ドラムスと云う13人編成の「コンサート・ジャズ・バンド」を立ち上げニューポートに出演し秋にはノーマン・グランツの支援を受けてヨーロッパ・ツアーを敢行する。
コンサート・ジャズ・バンドは1963年までの間に多くの作品を残しているがそのどれもがメンバー全員の音を出し合う喜びのようなものが湧きあがって聴こえてくる辺りは後の「サド&メル」と似ている。
それもそのはず、バンドには後のサド&メルの中核メル・ルイス (ds) とボブ・ブルックマイヤーが加わっていて「コンサート・ジャズ・バンド」の精神はそっくり引き継がれたのである。
このコンサート・ジャズ・バンドのアルバムに1枚、切ない思いの詰まったアルバムがある。
ジュデイ・ホリデイの唄をフィーチャーしたコンサート・ジャズ・バンドの『ホリデイ・ウイズ・マリガン』(DRG RECORDS、1961)である。
ジュデイ・ホリデイとマリガンは当初ミュージカル「ハッピー・バースデイ」の作曲をマリガン、詩をジュデイが書いて上演することを計画して共同作業をしていたが関係者との調整がまとまらず頓挫してしまう。
マリガンは失意のジュデイにオーケストラと一緒に唄を歌うことをすすめマリガンがジュデイのために新たに曲を書きジュデイがそれに詩を書いてニューヨークのスタジオでレコーディングする。
しかし、ジュデイは、自分はミュージカル俳優でジャズを唄うなんてとても無理と思っていたため頑としてリリースを拒み、アルバムはジュデイの生存中は発表できず、アルバムは死後15年経った1980年にリリースされた。
このレコーディングのときすでにガンに侵されていたことをジュデイ本人が知っていたと云うのはなんとも切ないし、マリガンの書いた<SUMMER’S OVER>など二人の気持ちがひしひしと伝わってくる。
ビバリーヒルズの芝生の上でふりそそぐ太陽の日差しを浴びて寄り添う二人のジャケット写真は胸に迫るものがある。
ジュデイ・ホリデイはマリガンの第一回の日本ツアーに同行して来日している。
メンバーのビル・クローとデイヴ・ベイリーの二人はトニー・ウイリアムズ (ds) やウイントン・ケリー (p) と連れ立ってジャズ喫茶に行ったりして東京の街を楽しんでいたようであるがジュデイの体調をおもんばかってマリガンはほとんどジュデイと一緒にホテルにこもっていたという。
ジュデイは帰国した翌年1965年の6月に44歳と云う若さで亡くなっている。
ジュデイを失ったマリガンがさぞ気を落としているのかと思ったが、マリガンはすぐに女優のサンデイ・デニスと付き合い始める。マリガンの周辺にはなにか女性をひきつける磁力でも放たれているのであろうか?
しかしマリガンは女性だけでなく皮膚の色に関係なく多くのミュージシャンに好かれていた。
ノーマン・グランツの「VERVE」レーベルには『マリガン・ミーツ』としてスタン・ゲッツ (ts)、ベン・ウエブスター (ts)、ジョニー・ホッジス (as) 等々とアルバムを残している。ゲッツとのレコーディングではテナーも吹いている。
とりわけ、ポール・デスモンド (as) とは『BLUES IN TIME』(VERVE、1957)と『TWO OF A MIND』(RCA、1962) の2枚のアルバムを創っているが、二人のスマートでセンシティヴな感性がぴったりと重なり合っていて、それが相乗効果となってお互いのソロがどんどん深化してゆくあたり、まさに二人の真骨頂が現れている。
マリガンは1968年にデイヴ・ブルーベックと双頭グループを組みソロイストとしての活躍をしている。
1974年マリガンはアストル・ピアソラとのアルバム『SUMIT』制作のためミラノに滞在するがそのリハーサルやレコーディングの模様をピアソラと知り合いの女性フォト・ジャーナリスト、フランカが取材に来てマリガンの写真を撮りインタヴューをした。
フランカはこの取材をきっかけにマリガンの魅力にひきつけられ後々マリガン夫人となった人で、2001年にマリガンの遺志をついでマリガン‐フランカ財団をつくり若手ミュージシャンの支援を行っている。
また、マリガンはズービン・メータやリッカルド・ムーティーなどクラシック界との交流も深く、シンフォニーの作曲にも取り組んでいた。
マリガンは1981年「オーレックス・ジャズ・フェスティヴァル」で来日、アート・ブレイキー (ds) やレイ・ブラウン (b) 等と共演、また1982年7月には「ニューポート・ジャズ・フェスティヴァル・イン・斑尾」に若手ミュージシャン中心のオーケストラを率いて来日し、白髪姿でびっくりさせたがすらっとしたスマートな長身は変わらず「コンサート・ジャズ・バンド」への新たな意欲を見せてくれた。
マリガンの最後の来日は1993年4月、オーソドックスなワン・ホーン・カルテットであった。
マリガンはその3年後の1996年1月20日膝の外傷が元で亡くなったとのこと、68歳。
最近、『FACTORY GIRL/NJE feat. Gerry Mulligan contacted by Chuck Israel』(DOT TIME RECORDS) などマリガンの発掘盤が何枚か出てきてマリガン再認識の機運が出てくるような気配を感じる。
マリガンのようなクールでスマートなスターの登場が待ち遠しい。