Chapter 8 近藤等則 Toshinori Kondo
photo:ペーター・ブロッツマン&近藤等則 1980年 東京
photo & text by Yumi Mochizuki 望月由美
今年 (2010)の夏、近藤等則が丸の内ジャズサーキットや新宿ピットイン等々でポーランドのレビティ・トリオと出演し相変わらずの闊達なフリー・ブローイングで元気な姿を見せてくれた。1948年の12月生まれだから61歳になるが、その精神の自由な発露は一向に衰えるどころかますます過激度を強めている。2ヶ月ほど前、某FM放送のDJ番組で“人間は楽しむために生まれてきているのだ。だから、生きることは楽しむことに夢中になることなのだ”という趣旨の話をディスク・ジョッキーに向かって語っていたのをたまたま聴かせて頂いた。2007年に始動した「地球を吹くin Japan」プロジェクトで各地の海辺、山間、寺院など自然と向き合って自我を発散し続けている近藤の元気の源泉を聞かされた思いである。
私が近藤等則を知ったのは1970年代の後半、近藤が京大を卒業して上京、新宿ピットインのティールームなどで高木元輝(後年、リー・ウオンヒーと改名、ts)や吉沢元治(b)等とのセッションを通じてであった。1978年9月、近藤は単身ニューヨークに赴きジョン・ゾーン(as)やビル・ラズウェル(g)、フレッド・フリス(g)等と知り合い、レスター・ボウイの50人編成の超大編成オーケストラにも参加、1979年にはユージン・チャドボーン(g)と初ヨーロッパ・ツアーを行い1年半ぶりに79年の暮れ一時帰国している。帰国直後の12月、新宿西口のオザワ・レコードの隣の喫茶店で近藤から話を聞いたことがある。当時書いていたSJ誌のコラムに掲載するためのものであった。初めてのニューヨークでは最初の1ヶ月、徹底的にライブ・シーンを見て回りこれはと思うミュージシャンをメモに取り、然る後に共演を申し込み、順次演奏体験を広げていったという。ニューヨークでは音一筋で生計を立て、他の仕事は一切しなかったと話してくれた。近藤の一途さを感じた。「アメリカ人はドアを開けたら直ぐ自己表現をしてくる。しかも土足で入ってくる。しかし、さよならと言ったらその瞬間から完全に一人になりきる。自分から入って行かない限り誰も助けてくれない。この徹底した文化の違いが音楽をやる場合、最もプラスになるんだ」と語ってくれた。
さよならも云わずに日本を発ちただいまも云わずに帰ってきた近藤だが、この頃から近藤の胸中のドアは世界に向かって開かれており、自己の確立に邁進しているかのようであった。この翌年ペーター・ブロッツマン(sax)、ハン・ベニンク(ds)を日本に呼び、82年にはICPオーケストラを招聘、『ヤーパン、ヤーポン』(IMA)を制作するなど、ヨーロッパ・フリーの日本ルートの先鞭をつけ、その後の日本のフリー・ミュージックに大きな影響を与えたのである。当時の近藤は新体道で鍛錬していたこともあって、その古武士を思わせる風貌と仕草に私のコラムでは”葉隠トランペット”という表現をさせていただいた。その後も海外のミュージシャンと日本のミュージシャンとの交流の場として「東京ミーティング」を開催したりしていたが、1993年、自分に一番ふさわしい場所としてオランダのアムステルダムに拠点を移し、より開かれた道を進むことになる。それからの近藤は日本を含む地球全体を表現の場として行動範囲を広げている。
一昨年、近藤は「いのちは即興だ」(地湧社)という著書で自らの立脚点を語っている。その中で近藤はここ15年程地球の自然の中でトランペットを吹かせてもらったお陰で今が凄く楽しいという。今、社会は有史以来最も行き詰まっているのかもしれないが、個としての人間は結構面白く生きることが出来るのではないかと思うし、自分もそうありたいと云う。この9月にDVD「地球を吹くin Japan The 2nd Year“うつろい”」をリリースした近藤は11月に有明コロシアムで行われる山本寛斎Super Show「七人の侍」の音楽を担当するという。
自分のいのちを解放し、システムの中に飲みこまれずに生きていく、誰に何と言われようが、自分のいのちに忠実に生きるという自我にたいする過激な姿勢は、今思い返せば既に30年前のインタヴューのときから発信していたのである。そして、いま時代の潮流が近藤の音楽を求めるようになって来ているのかも知れない。
初出:JazzTokyo #150 (2010,11,26)