ヒロ・ホンシュクの楽曲解説 #130 Miles & Coltrane 生誕100年:マイルス、コルトレーンを語る

いよいよMiles Davis(マイルス・デイヴィス)とJohn Coltrane(ジョン・コルトレーン)の100年記念も佳境に突入した。コルトレーンの生誕日は9月23日、マイルスの命日は9月28日と、奇しくも近い時期にある。ちなみにマイルスの誕生日は5月26日だ。マイルスとコルトレーンのイラストを描いてみた。マイルスはギョロ目と頬骨という特徴があって簡単に描けたが、コルトレーンは意外に難しく、かなり苦労した。シロートの趣味の絵ということでお許しいただきたい。
さて、この楽曲解説ではマイルスを何回か取り上げてきたので、リストにしてみた。
- ヒロ・ホンシュクの楽曲解説 #126 Miles Davis 生誕100年:マイルス作曲作品群
- ヒロ・ホンシュクの楽曲解説 #122 Miles Davis 生誕100年記念<Circle>
- ヒロ・ホンシュクの楽曲解説 #70 Miles Davis<Penetration>
- ヒロ・ホンシュクの楽曲解説 #47 Miles Davis <See I See>
- ヒロ・ホンシュクの楽曲解説 #41 Miles Davis <’Round Midnight>
- ヒロ・ホンシュクの楽曲解説 #38 Miles Davis <Rubberband>
コルトレーンは3度取り上げた。
- ヒロ・ホンシュクの楽曲解説 #49 John Coltrane <Body And Soul>
- ヒロ・ホンシュクの楽曲解説 #46 John Coltrane <Blue World>
- ヒロ・ホンシュクの楽曲解説 #32 John Coltrane <Untitled Original 11383>
ついでにマイルスのアルバム絡みの楽曲解説もリストしておく。
- ヒロ・ホンシュクの楽曲解説 #89 R.I.P. Wayne Shorter <Nefertiti>
- ヒロ・ホンシュクの楽曲解説 #86 Tony Williams <Pee Wee>
- ヒロ・ホンシュクの楽曲解説 #83 番外編 “What it takes”
- ヒロ・ホンシュクの楽曲解説 #19 <Nardis>
- ヒロ・ホンシュクの楽曲解説 #15 『Nem Um Talvez』
- ヒロ・ホンシュクの楽曲解説 #9ロバート・グラスパー<Maiysha (So Long)>
今回は本誌No. 337、楽曲解説#126に書いた「マイルス作曲作品群」に続く100年祭記念特別企画第二弾、マイルスとコルトレーンの100年祭特集にちなんで「マイルス、コルトレーンを語る」だ。つまり、『Miles: The Autobiography (マイルス・デイヴィス自伝)』の中からコルトレーンの記述を抜き出す、というプロジェクトを試みようと思う。最初にお詫びしなければならないが、英語の原本を使用する。実は最近日本語版を本誌副編集長に日本から送っていただいたのだが、時間がなくてまだ開封していないのだ。一方英語版は1989年に購入してから座右の書にしているので、今から日本語版を調べるより作業は速いだろうと思う。ちなみに、ここで抜き出すのはマイルスのコルトレーンに関する記述で、ただ名前が出ただけの箇所は除外した。では、始めよう。

P. 80
“See, you had to play like Coltrane to play with Monk – all that space and disjointed shit he used to play. But that shit was bad, now. It was some top of the shit music. But it was just different.”
「わかるかい?モンクと演るにはコルトレーンみたいな演奏をしなくちゃいけないんだ。あの『間』とバラバラの音群だよ。今考えるとありゃあ本当にすごかった。最高の音楽さ。進みすぎてたかもしれないけど。」
P. 102
“Bird often used to play in short, hard bursts of breath. Hard as a mad man. Later on Coltrane would play like that.”
「時々バードは音の洪水のようなフレーズを、狂人のように吐き出すような演奏をした。後々コルトレーンもそんな演奏をした。」
これはマイルスが、コルトレーンのスタイルはCharlie Parkerに由来するとコメントしている。
コルトレーンとの出会い
P. 133
“I also think I met John Coltrane for the first time during this period while he was playing in one of Dizzy’s bands. I think I first heard him play at a club up in Harlem.”
「ジョン・コルトレーンと初めて会ったのは彼がディジーのバンドで演奏していた頃だったと思う。ハーレムのクラブだったかな。」
当時マイルスはSonny Rollins(ソニー・ロリンズ)を筆頭にしたハーレムのミュージシャンと付き合っており、コルトレーンは眼中になかったという印象だ。
P. 134
“I had a job at the Audubon Ballroom, and so I asked Sonny to join the band, and he did. Coltrane was in that band, as was Art Blakey on drums. All of them – Sonny, Art, and Coltrane – were using a lot of heroin at the time, so being around them a lot like I was just got me into it deeper.”
「オーデュボン・ボールルームのギグが入ったんだ。ロリンズに入ってもらった。あのバンドにはコルトレーンもアート・ブレイキーも入っていた。奴らは全員ヘロイン漬けだった。そんな環境だったから自分もどっぷりヘロインに浸かって行ったんだ。」
ちなみに、この「オーデュボン・ボールルーム」とは、あのマルコムXが暗殺された場所だ。デンゼル・ワシントン主演の映画のあのシーンは未だに忘れられない。
P. 155
“Sometime that year, I used John Coltrane as a replacement for Jackie.(中略)But Sonny was awesome that night, scared the shit out of Trane, just like Trane would do to him a few years later.”
「あの年(1952年)のある日、ジャッキー(Jackie McLean)の代わりにコルトレーンを入れたんだ。(中略)ロリンズがあまりにもすごくてコルトレーンを完璧に怖気づかせた。数年後コルトレーンはロリンズにそっくりそのまま突き返したけどね。」
ここでの記述は興味深い。マイルスはロリンズに傾倒していた。コルトレーンを入れたのはコルトレーンを気に入っていたというわけではない。ただ単に2本のテナーのサウンドが欲しかったらしいのだ。
P. 195-196
“And then Philly Joe brought up John Coltrane. (中略)I wasn’t excited. But after a few rehearsals – and I could hear how Trane had gotten a whole lot better than he was on that night Sonny set his ears and ass on fire – he said he had to go back home, so he left. I think the reason we didn’t get along at first was because Trane liked to ask all these motherfucking questions back then about what he should or shouldn’t play.(中略)So my silence and evil looks probably turned him off.”
この部分は多少説明が必要だ。1955年、マイルスは新バンドを結成するためにテナー奏者を探していた。ロリンズがヘロイン中毒治療のために姿を消したからだ。ドラムのフィリー・ジョー(Philly Joe Jones)がコルトレーンを推薦したが、マイルスはロリンズに打ちのめされたコルトレーンの印象が強くて気が進まなかった。ところがリハーサルを何度かやってみるとコルトレーンは信じられないほど成長していた。だがコルトレーンはフィラデルフィアに戻ってしまった。マイルスと人間的にうまく行かなかったからだ。コルトレーンはマイルスにどう演奏するべきか、どう演奏しないで欲しいかをひっきりなしに聞いた。マイルスは自分で居場所を見つけられるミュージシャンを求めた。「それがプロだろう。」マイルスはコルトレーンの質問を無視し続けた。だからコルトレーンはフィラデルフィアに帰ってしまったのだろう、とマイルスは回想している。
この後、ボルティモアのギグのためにマイルスはコルトレーンを呼び戻すことになる。マイルスは全てのスタンダードを暗譜しているミュージシャンを条件としていた。ジャッキー・マクレーンが<Yesterdays>のメロディーをいい加減に吹いたことに腹を立ててステージ上でジャッキーを辱めたことがあるほどだ。周知の通りロリンズは全てのスタンダードを暗譜していた。そして、コルトレーンもそうだったのだ。だから急遽ボルティモアのギグにテナーを入れる必要が出た時、コルトレーン以外は考えられなかった。マイルスとそりが合わずに帰郷したコルトレーンは、実はマイルスの音楽に魅せられており、再び誘いがあれば戻ると密かに決めていたのだそうだ。
ボルティモアに到着すると、コルトレーンはガールフレンドのナイーマ(Naima Grubbs)を連れてマイルス・バンドを迎えた。その足でコルトレーンはナイーマと結婚式を挙げ、マイルス・バンドは全員ベストマン(新郎の付添人)として参加させられたのだそうだ。そしてこの第一期黄金クインテットが誕生した。コルトレーン、フィリー・ジョー、ピアノにレッド・ガーランド(Red Garland)、ベースにポール・チェンバース(Paul Chambers)だ。マイルスは、ロリンズが雲隠れしてくれたおかげでコルトレーンに出会った、とさえ言っている。「オレにはわかってたんだ。コルトレーンは磨けば輝くダイヤモンドだったのさ。」
第一期黄金クインテット誕生

P. 198-199
“The group I had with Coltrane made me and him a legend.”
「このコルトレーンとのバンドが自分とコルトレーンをレジェンドにしてくれた。」
1955年9月にこのバンドでツアーを始めた。客はロリンズを期待したが、コルトレーンが演奏を始めるとその凄さに圧倒された。毎日立ち見が出るほどの満員だった。シナトラ(Frank Sinatra)、トニー・ベネット(Tony Bennett)、レナ・ホーン(Lena Horne)、さらにエリザベス・テイラー(Elizabeth Taylor)、マーロン・ブランド(Marlon Brando)、ジェームズ・ディーン(James Dean)等の名優たちまで聴きに来た。
ツアーを終えてNYCに戻ると、ロリンズも治療を終えて戻っていた。その頃にはコルトレーンは完璧にこのバンドの看板になっていた。それを観たロリンズは、自分のスタイルを変える必要を感じてブルックリン橋上での練習を始めた(注:ウィリアムズバーグ橋ではなく、ブルックリン橋とマイルスはここで言っている)。
コロムビア・レコードのプロデューサー、ジョージ・アヴァキアン(George Avakian)がカフェ・ボヘミア(Cafe Bohemia)に連夜聴きに来た。「コルトレーンは1音吹く度に背丈が伸び、身体が膨らんで行くように見える。コードの限界を広げ、宇宙の彼方まで押し広げて行くようだ。」と、アヴァキアンはコルトレーンを絶賛した。
このアヴァキアンの誘いでマイルスはプレステージ・レコードからコロムビア・レコードへ移籍する決意をするが、プレステージ・レコードとの契約がまだ切れていない。それを消化するためにこのバンドでマラソン・セッションを行った。1956年5月11日に14曲、10月26日に12曲を、<The Theme>以外全曲ワンテイクで録音した。そしてそれらは後日『Cookin’』『Relaxin’』『Workin’』『Steamin’』としてリリースされた。
このあたりからコルトレーンのヘロイン問題の記述になるのだが、自伝に書いてある順番が時系列にそぐわないので、以下は時系列で並べ替えたものである。
コルトレーンのヘロイン問題
P. 209-210
“But by the fall of ’56, Trane (who was back in the band) and Philly Joe had really started to get on my nerves with their junkie shit—showing up late, sometimes not at all.”
「コルトレーンとフィリー・ジョーのヘロイン漬けはどんどん悪化していった。1956年の秋頃には遅れてきたり、すっぽかしたりするようになって嫌気がさした。」
コルトレーンはステージでもラリっており、マイルスは我慢できなくなっていた。コルトレーンとナイーマはNYCに引っ越してきたので、フィラデルフィアよりも簡単にヘロインが手に入ったからだ。マイルスもヘロイン中毒の経験があるからヘロイン使用に関しては文句を言わなかったが、ステージでラリっているのは許さない、と言い渡した。その理由が面白い。音楽に影響が出るのは許さない、という理由ではなく、自分はヘロイン中毒を絶ったのに、ラリったバンドメンバーのおかげで自分の中毒が再発したと見えるのが許せなかったのだそうだ。
P. 207
“One night I got so mad with him that I slapped him upside his head and punched him in the stomach in the dressing room. Thelonious Monk was there that night;(中略)He told Trane, “Man, as much as you play on saxophone, you don’t have to take nothing like that; you can come and play with me anytime.”
「(コルトレーンのステージ上の態度に)あんまり腹が立って、楽屋でヤツの頭を引っ叩いて腹に一発お見舞いしてやったことがある。セロニアス・モンクがそれを見ていて、トレーンに『すごいサックスを演奏するのにこんな扱いを受ける必要はない。いつでもオレのところに戻ってこい!』と言った。」
これがマイルスがコルトレーンを解雇した1度目だ。コルトレーンはフィラデルフィアに戻り、ヘロインを断とうと試みた。マイルスはロリンズを呼び戻した。
P. 209
“I came back to New York in December 1956 and got the band back together and we went on a two-month road trip.”
「この年、1956年の12月にNYCに(ツアーから)戻った。バンドを呼び戻して、2ヶ月の国内ツアーに出た。」
このツアーにはコルトレーンが入っているのだが、この後の記述から察するとコルトレーンのヘロイン問題は全く解決していない。
P. 209-212
“But I loved Trane, I really did, although we never did hang out too much like Philly Joe and I did. Trane was a beautiful person, a real sweet kind of guy, spiritual, all of that.”
コルトレーンじゃなかったらとっくにクビにしていた。「コルトレーンが好きだった。本当だぜ。フィリー・ジョーと違ってつるむような仲ではなかったけどね。彼は心底いいやつで、スピリチュアルだった。」
ここの描写で面白いのは、マイルスはフィリー・ジョーと仲が良く、フィリー・ジョーのヘロイン中毒には我慢ができたらしい。フィリー・ジョーはイカした言い訳にも長け、マイルスと同様に女好き、遊び好きだった。コルトレーンはまるで逆で、頭の中は演奏のことのみ。ステージにも皺くちゃのスーツで上がってきたり、鼻くそをほじくったり、眠り込んだり、ヘロイン中毒を隠しもしない。これがマイルスを悩ませた。
P. 214
“By the time we got back to New York, in March 1957, the shit had really hit the fan, and so I finally fired Trane again and also fired Philly Joe.(中略)I replaced Trane with Sonny Rollins again and brought in Art Taylor on drums.”
「(国内ツアーを終えて)NYCに戻った翌年の3月頃には我慢の限界だった。コルトレーンとフィリー・ジョーをとうとうクビにした。(中略)ロリンズをまた呼び戻して、ドラムにはアート・テイラーを入れた。」
フィリー・ジョーとの別れは相当辛かったようだ。コルトレーンは再びセロニアス・モンクのところに戻った。コルトレーンの2度目の解雇だ。

P. 216
“But when I was back in New York, I used to go down to the Five Spot and listen to Trane and Monk’s band. By this time Trane had kicked his habit cold turkey like I had, staying at his mother’s house down in Philly.”
マイルスが1957年夏のツアーから戻ってファイブ・スポットにモンクを観に行くと、コルトレーンは中毒を克服していた、とある。「ヤツはフィリーの母親のところに戻って、オレがやったのと同じ缶詰療法をやったのさ。」
マイルスはコルトレーンの復帰を心から喜んだ。
「トレーンはモンクの音楽に完璧なサックス奏者だった。モンクがいつも使う『間』を、彼はあらゆるコードとサウンドで埋めることができた。」
P. 218
“When I heard Monk’s gig at the Five Spot was ending, I called Trane and told him I wanted him back, and he said, “Okay.”
「モンクのファイブ・スポットのギグ・スケジュールが終わると聞いて、コルトレーンに戻ってこないかと電話すると、OKという返事だった。」
1957年12月下旬のことだ。この時点ではフィリー・ジョーも呼び戻されている。
マイルスは新しいサウンドを求めていた。そして、キャノンボールを加えてセクステットが誕生した。
伝説セクステット開始

P. 220
“I felt that Cannonball’s blues-rooted alto sax up against Trane’s harmonic, chordal way of playing, his more free-form approach, would create a new kind of feeling, a new kind of sound,(後略).”
「コルトレーンのコードを分解したようなアプローチや、フリーなアプローチに対してキャノンボールのブルージーなアルトを対峙させることで新しいサウンドを生み出せると考えた。」
P. 221
“That first night in Chicago, we started off playing the blues, and Cannonball was just standing there with his mouth open, listening to Trane playing this way-out shit on a blues. He asked me what we were playing and I told him, “the blues.”
「(このセクステットの)初日のシカゴ公演(1957年12月下旬)はブルースで始めた。コルトレーンがソロを取り始めると、キャノンボールはあっけに取られて、『オレたちは今一体何を演奏しているんだ?』と聞くから、『ブルースだよ。』と答えてやった。」
この休憩時間に、マイルスはコルトレーンにキャノンボールを厨房に連れて行って、何を考えてブルースのソロを取っているのか教えてやれ、と告げる。キャノンボールは一瞬にしてコルトレーンを理解し、全く違うスタイルの二人から最高のサウンドが生まれた。まさにマイルスの狙い通りだった。
ただし、この時点ではビル・エヴァンスはまだ参加しておらず、マイルスが目指していたモード・ジャズにはまだ達していなかった。ドラムにはジミー・コブ(Jimmy Cobb)が入っていたが、まだ正式メンバーではなかった。
P. 222
“Trane was the loudest, fastest saxophonist I’ve ever heard.”
「トレーンの音は誰よりも大きく、彼の演奏は誰よりも速かった。」
P. 223
“It was like he was possessed when he put that horn in his mouth. He was so passionate—fierce—and yet so quiet and gentle when he wasn’t playing. A sweet guy.”
「ヤツがホーンを吹き始めると、まるで何かに取り憑かれたようだった。情熱的で、激しかった。だけど一旦楽器を置くと物静かだった。彼は本当にいい人間だったんだ。」
同P. 223
“He scared me one time while we were in California when he wanted to go to the dentist to get a tooth put in. Trane could play two notes all at once and I thought his missing tooth was the cause of it.”
コルトレーンは歯が1本なかった。それがコルトレーンのマルチ・フォニック・サウンドの鍵だとマイルスは信じていたので、差し歯をすると言った時に大反対した。その夜のギグで、マイルスは自分のソロを終えてコルトレーンのソロが始まる時、ほとんど泣きそうだった。あのコルトレーンのサウンドがなくなってしまったに違いない。危惧に反し、コルトレーンは問題なくいつものようにすごい演奏をして見せた。ここでのマイルスの葛藤がコミカルに描写されている。
続く箇所の記述が興味深い。最初はコルトレーンの質問攻めに閉口したマイルスだったが、この頃には暇があればコルトレーンに指示を出していたようだ。
“Trane, here are some chords, but don’t play them like they are all the time, you know? Start in the middle sometimes and don’t forget that you can play them up in thirds. So that means you got eighteen, nineteen different things to play in two bars.”
「トレーン、ここのコード進行は細かく演奏するな。途中から始めろ。3度上げて演奏することを忘れるな。そうするとこの2小節で18か19通りの選択肢が生まれるだろう。」
“Trane was an innovator, and you have to say the right thing to people like that.”
「トレーンは先駆者だ。そういうヤツには的確なことを伝えなくちゃならない。」
そうすればこっちのことをしっかり理解してくれる。間違ったことを言えば無視されて終わりだ、とマイルスは語る。
“Trane was the only player who could play those chords I gave him without them sounding like chords.”
「渡したコード進行を、そのコード進行に聴こえないような演奏ができるのはコルトレーンだけだった。」
P. 223-224
“And later in 1960, after I gave him a soprano saxophone that I got from a woman I knew in Paris, an antique dealer, it had an effect on his tenor playing.”
何と、マイルスがコルトレーンにソプラノを与えたのであった。マイルスは続ける:ソプラノがコルトレーンのスタイルを変えた。彼は、ソプラノだったらテナーよりもっと軽く速く演奏できることを発見した。ソプラノはテナーより音も通る。気がつくと彼のソプラノは人の声で叫んでいるように聞こえた。それが彼のテナー演奏にも影響したんだ。つまり、ソプラノがコルトレーンの他の追随を許さないスタイルに一役買ったわけだ。
P. 224
“He had always been serious about music and always practiced a lot. But now it was almost like he was on some kind of mission.”
コルトレーンの異常な練習量は周知の通りだ。ライブが終わってもホテルに直帰して取り憑かれたように練習する。だからいつも一人だけバンドから外れていた。マイルスはこのことを数度持ち出している。フィリー・ジョーのような遊び仲間になれなかったことがよっぽど残念だったに違いない。
余談だが、筆者の師、George Russell(ジョージ・ラッセル)からこんな話を聞いたことがある。あまり知られていないが、ラッセルがモード・ジャズを考え出してマイルスとコルトレーンに教えた(Downbeat 1958年5月29日)。詳しくは本誌No. 230、楽曲解説#19で<Nardis>を取り上げた記事をご覧いただきたい。ラッセルがコルトレーンにモードとリディアン・クロマティック・コンセプトを教えると、コルトレーンは自分のアパートの壁に5度圏を書いて三日三晩それを睨みつけ、吹っ切れたように目を離して<ジャイアント・ステップス (Giant Steps)>を一気に書いたのだそうだ。コルトレーンの取り憑かれたような性格が容易に想像できる。
同P. 224
“Trane and Cannon were really playing their asses off and by then were really used to each other.”
「トレーンとキャノンは最高の演奏をしていたよ。ヤツらはすでに一緒に演奏するのに慣れてた。」
これは『Milestones』の録音時のことを言っている。コルトレーンとキャノンボールは最高のサウンドをマイルスに提供していた。この頃には彼らはお互いを知り尽くしていたからだ。
P. 225
“I met Bill Evans through George Russell, whom Bill had studied with. I knew George from the days back at Gil’s house on 55th Street. As I was getting deeper into the modal thing, I asked George if he knew a piano player who could play the kinds of things I wanted, and he recommended Bill.”
「ジョージ・ラッセルの生徒だったビル・エヴァンスに出会った。ジョージとは55番街のギル(エヴァンス)の家にたむろしていた頃からの知り合いだった。自分の音楽がどんどんモードに進んで行くので、ジョージに相談すると、彼はビルを推薦したんだ。」
この時点ではすでにレッド・ガーランドがついてこられなくなっていた。『Milestones (1958)』録音中にマイルスの要求にイラついたガーランドは怒って帰ってしまったので、2トラック目の<Sid’s Ahead>ではマイルスがピアノを弾いている。
伝説のセクステットが完成するが、このメンバーで制作したアルバムはひとつもない。ライブ活動は約8ヶ月。残したスタジオ録音は『Jazz Track (1958)』に3曲、『Kind of Blue (1959)』に4曲だ。ライブ録音はあっちこっちに重複しているのでややこしいが、基本的には『At Newport 1958』と『Jazz at the Plaza Vol. 1 (1958)』の2枚のみだ。ただし、マイルスはライブでは新しいことを試さないので、モードではなくハード・バップであることに留意。

P. 232
“Trane used to call me “the teacher” and it was hard for him to bring up that he wanted to leave; I would find it out from other people he had told. But he did bring it up finally and we made a compromise.”
「トレーンはオレのことを師匠と呼んでいた。だからバンドを辞めたいと言い出しにくかったのだろう。他人からヤツの想いを聞かされることになった。そして、とうとうヤツが辞めたい意向を言い出した時、条件を出した。」
この、コルトレーンが辞めたがっていることを他人から聞かされたことで、相当腹を立てたマイルスだった。だが、本人が切り出したとき、ちゃんとサポートしてやろうと考えた。これは1958年11月、まだ『Kind of Blue (1959)』の録音前だ。ビル・エヴァンス(Bill Evans)は、客に白人であることを咎められる圧力が嫌で退団した。キャノンボールは自分のバンドに戻りたがっていた。この2人に影響されたのか、コルトレーンも自分のバンドを始めたがっていた。この頃のコルトレーンはすっかり自信を付け、ヘロインの代わりに甘いものを食べ続けてどんどん太って行った。見た目を気にするマイルスは体操器具をコルトレーンに譲るほど心配した。
P. 233
しかし、マイルスはこのバンドの終わりを知っていた。だからコルトレーンに出した条件とは、自分の弁護士であるハロルド・ラヴェット(Harold Lovett)からビジネスを学ばせるということだった。何せコルトレーンは音楽以外何も考えない人だったから、マイルスは心配した。マイルスにはもうひとつ思惑があった。自分のエージェントであるジャック・ウィッテモア(Jack Whittemore)をコルトレーンに付けた。コルトレーンのバンドのギグは、マイルスのギグがないときにスケジュールを合わせて、掛け持ちを成立させようとしたのだ。
『Kind of Blue (1959)』

P. 234
そして『Kind of Blue (1959)』だ。つまり、マイルスはエヴァンスをこの録音のために呼び戻していたが、コルトレーンもキャノンボールも片足がバンドから抜けており、セクステットおよび第一期黄金クインテットとしてはすでに崩壊していた。ちなみに、録音されたのは1959年3月2日と4月22日で、この二つの録音日の間にはギル・エヴァンス(Gil Evans)のオーケストラと『The Robert Herridge Theater』というCBSテレビ番組に出演しており、コルトレーンが参加している映像が残っている。
“I didn’t write out the music for *Kind of Blue*, but brought in sketches for what everybody was supposed to play because I wanted a lot of spontaneity in the playing,(後略)”
『Kind of Blue』録音当日、マイルスはこのセクステットの魔法を信じてわざと譜面を持ち込まなかった。つまり、即興性を重視してアイデアのメモだけを渡した。リハーサル無し。ほとんどが初回の完奏テイクでマスターになった。ちなみに、この『Kind of Blue』に関する箇所は注意が必要だ。なぜか<All Blues>を「Kind of Blue」と呼んだり、<Blue in Green>を「Kind of Blue」と呼んだりしている記述が数箇所あり、かなり混乱する。マイルスの発言ではなく、編集側の問題かもしれない。
P. 236
“Coltrane went into the studio and recorded *Giant Steps* around this time, about two weeks after the *Kind of Blue* last session, and he did the same thing that I did with the music I recorded on *Kind of Blue*: he came into the studio with sketches of the music that none of the musicians on that date had ever heard. That was a compliment to me.”
「『Kind of Blue』の録音終了から2週間後、コルトレーンは『Giant Steps』を録音したんだ。ヤツはオレの真似をして、誰もまだ聴いたことのない新曲のアイデアだけを持ち込んだ。自分のやり方を褒められたようで嬉しかったね。」
マイルス激怒
同P. 236
“It was in San Francisco that Trane gave an interview to a writer named Russ Wilson and told him that he was seriously thinking about leaving the group, which Wilson wrote in the papers the next day.”
「トレーンはサンフランシスコで、本気でマイルスのバンドを辞めようと考えている、とラス・ウィルソンという記者に漏らし、それが翌日新聞に載った。」
しかも後釜はジミー・ヒース(Jimmy Heath)だということまでバラした。秘密にしていたことをバラされて、マイルス激怒。
「今まで兄弟のように扱ってやったのに、この仕打ちは一体何なんだ。」
恐らくコルトレーンは深く考えていなかったのだろう。彼は音楽のことしか考えていない。それ以外のことはどうでも良いことなのだと思う。
P. 246
“Trane didn’t want to make the European trip and was ready to move out before we left. One night I got a telephone call from this new tenor on the scene named Wayne Shorter, telling me that Trane told him that I needed a tenor saxophonist and that Trane was recommending him. I was shocked. I started to just hang up and then I said something like, “If I need a saxophone player I’ll get one!” And then I hung up. BLAM!”
1960年、ノーマン・グランツ(Norman Granz)がマイルス・バンドの長いヨーロッパ・ツアーをブッキングした。
「トレーンはこのツアー前に辞めたいと言った。ある晩、テナーの新人、ウェイン・ショーターから電話があった。コルトレーンの推薦で電話していると言った。ショックだったよ。『もしオレがサックス奏者を必要としていたら、自分で探すよ!』と言ってガチャンと切ってやったぜ。」
このコルトレーンの余計なお世話にマイルス再び激怒。結局コルトレーンを説得し、このツアーが最後だという条件で参加させた。前述のP. 223-224にあったソプラノの件はこのツアー中の出来事だったので、コルトレーンがもしこのツアーに参加していなかったらソプラノに出会っていなかったのだぞ、と一生恩に着せたらしい。
そしてツアーが終了するとコルトレーンはバンドを抜け、ジミー・ヒースが後釜に入った。だが、マイルスの音楽はすでにヒースの演奏スタイルでは合わないものへと進化していた。
コルトレーン独立
P. 250
“I liked Ornette and Don as people,(中略)But I didn’t see or hear anything in their playing that was all that revolutionary, and I said so. Trane was there a lot more than I was, watching and listening, but he didn’t say nothing like I did.”
「オーネット・コールマンもドン・チェリーも人間としては好きだったけど、やっていることは革新的だと感じなかったし、そう公言した。トレーンはしょっちゅう彼らを観に行っていたけど、オレのような意見じゃなかったようだ。」
マイルスの音楽の行き先とは違う方向を見るコルトレーンだった。
P. 255
“In 1961 I won another *Down Beat* poll for Best Trumpet and also for having the Best Combo. Trane’s new group with Elvin Jones, McCoy Tyner, and Jimmy Garrison had won Best New Combo and Trane was named Best Tenor Saxophonist and Best New Star on Soprano Saxophone. So everything was looking good(後略)”
「1961年のダウンビート誌の人気投票で、オレはまたベスト・トランペッターとベスト・コンボで1位になった。エルヴィン、マッコイ、ジミー・ギャリソンを入れたトレーンの新コンボはベスト・ニュー・コンボのカテゴリーで、トレーン本人はベスト・テナーとソプラノのニュー・スターのカテゴリーで選ばれた。全てうまく行ってた。」
独立したコルトレーンの成功を心から喜ぶマイルスの様子がよくわかる。
P. 272
“I didn’t personally like a lot of the things that were happening, not even the things that Trane was doing; I preferred what he had done in my band, maybe during the first two or three years. Now it seemed he was just playing for himself and not for the group. I have always felt that what the group does together is what makes music happen.”
この記述は1964年以降のフリー・ジャズに対するマイルスの意見だ。大好きなコルトレーンのやり方でも認められなかった。
「ヤツらは自分のために演奏しているように見える。オレはいつもバンドのために演奏しなくちゃハプニングは起こらないと考えてるよ。」
コルトレーンの死
P. 285
“In July, Coltrane died and fucked up everyone. Coltrane’s death shocked everyone, took everyone by surprise.(中略)But I didn’t know he was that sick—or even sick at all.(中略)Trane kept everything close to his vest(後略)”
1967年7月17日、コルトレーンが突然亡くなった。
「7月、コルトレーンの突然死は誰をも驚かせた。(中略)オレはヤツがそんなに悪いとは知らなかった。いや、病気だったことすら知らなかった。(中略)トレーンは何でも自分の胸にしまっておくタイプだった。」
死因は肝臓癌。昔ヘロインで使った注射針が引き起こしたB型/C型肝炎が慢性化していたそうだ。
P. 285-286
“Trane’s music and what he was playing during the last two or three years of his life represented, for many blacks, the fire and passion—and rage and anger and rebellion and love that they felt, especially among the young black intellectuals and revolutionaries of that time.”
「黒人にとってトレーンの音楽と、最後の2、3年間にヤツが演奏していたものは彼らが感じていた炎と情熱、怒り、憤り、反抗、愛などを体現するものだった。とりわけ、当時の若い黒人知識人や革命思想を持つ人々にとっては、そうだった。」
この後の記述でマイルスは、「free thing(フリー・ジャズだけでなく人権運動も含まれていると思われる)」の人たちはコルトレーンの死によって方向性を失い、カオスに陥った、とまで言っている。また、コルトレーンはチャーリー・パーカーに相当する存在で、彼が音楽界で象徴していたものまで失われた、と語っている。この時期は激動のアメリカの歴史にとって非常に重要だ。本誌No. 245、楽曲解説#34でアレサ・フランクリンを取り上げた時に詳しく解説したので、ぜひご覧いただきたい。
P. 286
“He once told me that even he liked some of the music he did earlier better than what he was doing now. But Trane was on a search, and his course kept taking him farther and farther out; he couldn’t turn back even though I think he wanted to.”
「ヤツはオレにこんなことを言ったことがある。昔やってた音楽が恋しくなることがある、ってな。だけどヤツは探求の途上にいて、その道がヤツをどんどん遠く離れたところに連れて行った。ヤツはたとえ振り返ってみたくても、もう無理だったんだ。」
P. 287
“Trane’s death made me real sad because not only was he a great and beautiful musician, he was a kind and beautiful and spiritual person that I loved.”
「トレーンの死は本当に辛かった。ヤツの演奏に惚れていたのはもちろんだが、ヤツの優しさやスピリチュアルなところが大好きだった。」
P. 292
“I first met Jimi when his manager called up and wanted me to introduce him to the way I was playing and putting my music together. Jimi liked what I had done on *Kind of Blue* and some other stuff and wanted to add more jazz elements to what he was doing. He liked the way Coltrane played with all those sheets of sound, and he played the guitar in a similar way.”
「ジミ(ヘンドリクス)と初めて会ったのは、ジミに演奏や曲作りのことを教えてやって欲しい、と彼のマネージャーが連絡してきたからだ。ジミは『Kind of Blue』とかが好きで、コルトレーンの音の洪水をギターに取り入れていた。」
この「Sheets of Sound(サウンドの敷布)」という表現は実にコルトレーンの奏法スタイルをよく表していると思う。マイルスがコルトレーンにもっとソロを短くしろ、と言ったことがある。コルトレーンは「アイデアが止まらなくなってどうしたら良いかわからなくなる」と答えた。すると、マイルスは「口をマウスピースから離せばいいんだよ」と返した。そのやり取りがやけにイカしてる。これはこのマイルス自伝にあったことだと思っていたが、今回探しても見つからなかったので、他のどこかで読んだのかも知れない。合掌 🙏





