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Hear, there and everywhere 稲岡邦弥No. 268

#22 Keith Jarrett 75

text by Kenny Inaoka 稲岡邦彌

Keith Jarrett@Orchard Hall, Tokyo, 2012,05.06
©Yasuhisa Yoneda 米田泰久

1945年5月8日生まれのキース・ジャレットが今年(2020年)の5月8日、75歳の誕生日を迎えた。日本では 70歳(古希)と77歳(喜寿)を祝うが、欧米では75歳を祝うようだ。
キース・ジャレットはゲイリー・ピーコックとジャック・ディジョネットとのトリオを解散後しばらくソロ活動を続けていたが、2017年2月15日のNYカーネギーホール・コンサートを最後に完全にコンサート活動を停止した状態が続いている。
本格的なプロ・デビューを1965年のアート・ブレイキー・バンドへの入団とすると、キャリアは半世紀を超えることになる。最初のソロ・アルバム『Facing You』のリリースが1972年、ソロ活動も45年になる。キースのソロ演奏は完全即興なので精神的、肉体的疲労は常人の想像をはるかに超えるものがある。『サンベア・コンサート』として結実した1976年のソロ・ツアーに随行した折り、コンサート後にエンジニア菅野沖彦氏のメッセージを伝えるべくキースの楽屋を訪れると、デスクに突っ伏していたキースの顔面は蒼白、「頼むからしばらくひとりにしておいてくれ」というなり、また机に突っ伏してしまった。キースはデビュー前の自動車事故で背骨を損傷、ずっと後遺症に悩まされていた。1973年の『ソロ・コンサート』でドイツのブレーメンやスイスのローザンヌを周り、1975年のドイツ・ケルンでのコンサートの頃は、プロデューサーのマンフレート・アイヒャーの小型車に同乗していたが、長時間のドライヴが後遺症にこたえたようだった。何れにしても半世紀を超える創造活動が肉体に金属疲労をもたらしていることは想像に難くない。
ニュージャージーの自宅で日本女性のパートーナーとともに静養の日々を送る中、とりたてて75歳を祝うイベントはなく、配信で新曲が1曲リリースされたことと、ECMから「Keith Jarrett 75」と題されたパンフレットが世に出たのみである。

© Ichiro Shimizu 清水一郎

キース・ジャレットとの出会いは1974年のアメリカン・カルテットを率いての初来日時だが、このときはインパルス在籍中で東芝EMI傘下であったから挨拶以上のものはなかった。ECM時代の最大のイベントは1976年のLP10枚組大作『サンベア・コンサート』(ECM1100) で、これは日本サイドから提案した企画だった。コンサートでは ”興行師” 鯉沼利成氏が決断しピアノ1台で武道館を満杯にした1978年の「武道館ソロ・コンサート」、ライブ・アルバム『ダーク・インタヴァルス』(ECM1379,1987) が制作されたサントリー・ホール・ソロ・コンサート。同じく、ライヴ・アルバム『パーソナル・マウンテンズ』(ECM1382, 1979)、『スリーパー』(2290/91) が制作されたヨーロピアン・カルテットの1979年の来日公演が強力な印象として残っている。クラシック活動の中では八ヶ岳高原音楽堂でライヴ録音されたチェンバロによる『ゴルトベルク変奏曲』(ECM1395, 1989)。ECM以外では、電通のアートビデオのためにキースと息子のゲイブリエルの親子で演奏した『日本・空からの縦断/エアリアル組曲』(1990) のNY録音が忘れられない。『サンベア・コンサート』は全面的に菅野沖彦氏が録音エンジニアとして担当したが、それ以外でそのほとんどにJazzTokyoで録音評を担当していただいている及川公生氏が録音エンジニアとして関わっている。


稲岡邦彌

稲岡邦彌 Kenny Inaoka 兵庫県伊丹市生まれ。1967年早大政経卒。2004年創刊以来Jazz Tokyo編集長。音楽プロデューサーとして「Nadja 21」レーベル主宰。著書に『新版 ECMの真実』(カンパニー社)、編著に『増補改訂版 ECM catalog』(東京キララ社)『及川公生のサウンド・レシピ』(ユニコム)、共著に『ジャズCDの名盤』(文春新書)。2021年度「日本ジャズ音楽協会」会長賞受賞。

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