Hear, there and everywhere #12『クニ三上/0才からのジャズ〜Keep on Swingin’』
text by Kenny Inaoka 稲岡邦彌
9245 Records KY1005 ¥2000+tax
クニ 三上(p)
有明のぶ子(vib)
林 正男(b)
今村健太郎(ds)
1. アンパンマンのマーチ (作曲 :三木たかし )
2. おもちゃのチャチャチャ (作曲 :越部信義 )
3. 二人でお茶を (作曲 :Vincent Youmans )
4. 崖の上のポニョ (作曲 :久石譲 )
5. シング・シング・シング (作曲 :Louis Prima )
6. となりのトトロ (作曲 :久石譲 )
7. エリーゼのために (作曲: Ludwig van Beethoven )
8. メイプルリーフ・ラグ (作曲: Scott Joplin )
9. ルパン三世のテーマ (作曲 :大野雄二 )
10. 大きな古時計 (作曲 :Henry Clay Work )
録音:オーディオ・パーク 東京・自由が丘 2016年11月5&6日
レコーディング・エンジニア:HMラボ 宮原誠
マスタリング・エンジニア:吉川昭仁 (Dede AIR)
プロデューサー:クニ三上&横田明子
クニ三上が “0才からのジャズ” の4作目『Keep on Swingin’』をリリースした。クニ三上はNY在住のピアニストで一年に2度ほど帰国して全国をツアーしているが、“0才からのジャズ” はその中の体験から生まれたプロジェクトである。そもそもは、ツアーのブッキングやCDのプロデューサーも兼ねている横田明子さんが女性の視点から「子育て中のお母さんにもジャズを聴いて欲しい」と願い、子連れOKのマチネのコンサートを試みに仕立てたのが始まりと記憶している(第1回は2010年11月の江東区)。ところが、クニ三上の場合、ジャズクラブでのギグにもマニアではなく、女性やビギナーのファンが多いことを知るようになる。その理由は「三上のジャズがきれいすぎる」からだと横田はCDにコメントを寄せる。そうであれば、思い切って対象をマニアから女性、ビギナーにスイッチしようと決断するに至ったという。それからは、“0才”は幼児や子供とともにビギナーを指すようになった。それ以降、「0才からのジャズコンサート」は7年間で200回以上の公演を数え、動員は約3万人という。継続は力なり、これは大変な数字である。「高齢者、障がい者、そして赤ちゃん連れ、と色々な人が一緒に楽しめるコンサート、が実は私の理想でもあります」と横田さんは言う。障がい者のなかには音楽は好きだが興奮すると声を出す例もあり通常のコンサートは避けざるを得ないのだ。来場者にとってCDは大事な「記念グッズ」。コンサートに感動し、帰ってから子供と一緒に聴きたい、孫へのプレゼントにと高齢者らが求めていく。「0才からのジャズ」CDの1作目は『Let’s Swing』、続いて『Swingin’ X’mas』(X’masソング特集)『Good Night』(子守唄特集)。今回のCD、子供たちが大好きなアニメ・ソングを中心に、ジャズのスタンダードが3曲、クラシックや平井堅がリバイバル・ヒットさせた<大きな古時計>もしっかり。対象を見極めよく練られた選曲である。演奏はクニ三上のトリオにヴィブラフォンの有明のぶ子が加わったカルテット(有明のぶ子はかつてクニ三上と『三上クニ/2&3~デュオ・アンド・トリオ』[What’s New] で快演を残している)。曲ごとにリズムを変え、アレンジに工夫を凝らし、なじみのある曲が新しい装いで次々に登場し、老若男女だれが聴いても楽しめる仕上がりになっている。なお、クラシックにおける”0歳児から入場できるコンサート”の例としては、本誌悠雅彦主幹が、悠々自適 #80 「ラ・フォル・ジュルネ TOKYO 2018」聴きある記のなかで、”ラ・フォル・ジュルネ(LFJ)のユニークなもうひとつの点は多くのコンサートが0歳児から入れること。たしかに、突然赤児が泣き声をたてるコンサートもあったが、大抵の場合親があやしてホール外へ出ることでたいして耳障りとはならなかった。”と触れている。
ちなみに、クニ三上は、1954年、東京生まれ。1974年、単身NYに渡り、バリー・ハリス、ノーマン・シモンズに師事。1991年、ライオネル・ハンプトン楽団の専属ピアニストに就任したのを手始めに、以後、イリノイ・ジャケ〜、キャブ・キャロウェイ、デューク・エリントン楽団などのピアニストを歴任。その間、自己のグループで世界各国を楽旅。年2回の日本ツアーを始めたのは2006年から。
今回、横田さんとメールのやり取りをしていて悲しい事実を知ることになった。高知・窪川の田辺浩三さんの事故死である。今月号の「ある音楽プロデューサーの軌跡」#45で鹿児島の中山信一郎さんに触れたが、田辺さんはまさに高知における中山さん的存在であった。田辺さんはジャズと映画に一身を捧げた。ジャズをクラブに閉じ込めずに学校や病院にまで開放した。四国のツアーを一任すると、ホール公演に加えて必ず、中学校や高校の音楽鑑賞の企画が入っていた。ある時は小学校の課外授業にリッチー・バイラーク(p)とグレガー・ヒュープナー(vln)のデュオが起用された。アンコールに当時大人気だった<団子三兄弟>を所望され、子供たちはリッチーの伴奏で<団子三兄弟>を熱唱した。最後は先生が用意した譜面で校歌の伴奏をやらせた。終演後、リッチーは「こんなファンキーな仕事はケニー以外はブックしないぜ」と苦笑していたが、ブックしたのは僕ではなく田辺さんである。田辺さんはブッキングの手数料は取らなかった。窪川で経営していたレコード店からCDを持ち出し、会場で即売するだけである。時には、お母さんが出向いてきて手伝った。精神病院のサロンでのミニ・コンサートも付き物だった。院長の「ジャズを聴くことは一種の音楽療法」の考えに賛同していたのである。リッチーも数度演奏した。ここ、2、3年、田辺さんから年賀状が途絶えていた。携帯にも応対がなかった。
ジャズと映画の普及に一身を捧げた田辺浩三の生き様は見事だった。
在りし日の田辺浩三さんとリッチー・バイラーク (photo:Kenny Inaoka)
http://blog.livedoor.jp/narijun1-ryou/archives/10802552.html