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R.I.P. ソニー・シモンズHear, there and everywhere 稲岡邦弥No. 277

Hear, there & everywhere #28「ソニー・シモンズって何者?」

text by Kenny Inaoka 稲岡邦彌

ChapChapレコードを主宰する防府の末冨健夫さんからSonny Simmons(ソニー・シモンズ)死去の報がもたらされたのは4月8日のことだった。近々、Rick Countryman(リック・カントリーマン)から追悼文が届くのでJazzTokyoでも使ってください、と付記があった。
早速、webに当たってみたもののどこにも死亡記事は見当たらない。追って、Rickから亡くなったのは4月6日と特定され、その頃には SimmonsのWikiにも反映されていた(彼の死亡記事を最初に掲載したのはフランスの「リベラシオン」紙だったという)。
Rick Coutrymanというのは、1957年マサチューセッツ生まれのサックス奏者で、2011年ケソンに移住以来フィリピンのジャズ界を牽引、近年では豊住芳三郎を招聘、豊住との共演記録をChapChapから矢継ぎ早にリリースしている。ややあって、末冨さん経由でRickから追悼文が届いた。Rickは同じサックス奏者としてSonnyをメンターとしてリスペクトしていること、Sonnyのパートナーだった白人のトランペッター、バーバラ・ドナルドとの共演歴が判明した。かつて末冨さんから紹介していただいた盛岡のOnnykこと金野吉晃さんに死去の報を伝えると「Sphereに旅立たれたのですね」と返信があった。シモンズの『Music from the Spheres』 (ESP-Disk, 1968) を踏まえてのコメントである。添付したYouTubeに対しては、「シモンズが吹いているのはコール・アングレ(コーラングレ)ではないですか」。さすが、博覧強記、多芸多才、多楽器奏者ならではの見立てである。コーラングレは、オーボエ、イングリッシュ・ホルンに近いクラシックで使用される管楽器で、おそらくジャズではシモンズを措いて他に演奏する者はいないのではないか。サンノゼに住むピアニストのJames Armstronngからは、Sonny Simmonsが亡くなったが、彼を聴くならこれがいいよと、『Mahattan Ego』(Arhoolie,1969) のリンクを送ってきてくれた。RickとSimmonsの関係も意外だったが、サンノゼの白人ピアニストJamesとSimmonsの関係はさらに意外だった。尋ねると「僕は根っからのベイ・エリア・ネイティヴで Prince Lashaと一緒に演奏していた。テープもどこかに残っているよ」という返事。当時、ベイ・エリアではソニー・シモンズはプリンス・ラシャと共演しており、NYと行ったり来たり。日本では、オーネット・コールマンに近かったLashaの方が知られているだろう。僕自身もそうだった。Eric Dolphyの『Iron Man』(Douglas, 1968) とElvin Jones=Jimmy Garrisonの『Illumination!』(Impulse, 1964) では、LashaとSimmonsが共演しているのだが、存在感は圧倒的にLashaが大きい。しかも、『Iron Man』では、Sonnyではなく、本名の Hueyでクレジットされているからなおさらだ。
それでは、ぼくもほとんどその正体を知らないソニー・シモンズとはいったい何者なのだろう? The Wireのインタヴューや Jazz Timesの追悼記事を参照しながら正体を探ってみよう。

The New Grove Dictionary of Jazz によると、Sonny Simmons、本名 ヒューイ (Huey )・シモンズは、1933年8月4日、ルイジアナ州シシリー・アイランドの生まれ。父親は巡回牧師だったが、ドラムも演奏し、シモンズは6歳の時に父親から買い与えれたアコーディオンを日曜礼拝で演奏していたという。1944年、一家はカリフォルニア州オークランドに移住、オークランドが彼の第二の故郷となる。オークランド技術高校在学中に観た映画「アリババと40人の盗賊」のサントラで聴いたイングリッュ・ホルンの音に魅せられたが、高校のオケにイングリッシュ・ホルンはなく、サックスを吹くことになった。1949年、小遣いを貯めてテナーサックスを買い込んだものの、ノーマン・グランツのJATPで来演したチャーリー・パーカーの演奏を耳にするや、テナーを捨てアルトを手にし自習を始める。

「JATPで来演したチャーリー・パーカーを聴いたのは1949年、16歳の時だった。サックスが演奏するあれほど美しい音楽を聴いたことはなかった。自分の人生を変えた音だった。バードに会いたくてなんとか楽屋に潜り込んだだけど、演奏が終わると彼はキャディラックのリムジンで連れ去られてしまった。チャーリー・チャンの映画に出てくるような真っ白なスーツを着てた」

1961年、チャーリー・ミンガスのワークショップに参加、チャーリーからバンド入団を勧められたが断念。「目が不自由なラサーン・ローランド・カークの職を奪いたくなかったからね」。翌1962年、ソニーは1954年から共演していた同僚のプリンス・ラシャと共にオーネット・コールマンを録音したContemorary レコードのレスター・ケーニッヒから2枚のアルバムのオファーを受け、『The Cry!』(1962)と、『Firebirds』(1968) を録音。1963年4月、ラシャはソニーをNYに呼び寄せ、”Sonny”のニックネームを与えた。垢抜けない Huey Simmonsを”ジャズのメッカ” NYに適応させるための策だった。すぐにソニー・ロリンズと知り合い、ヘンリー・グライムス(b)、チャーネット・モフェット(ds)のクインテットでヴィレッジ・ゲイトに出演、たちまちNYの前衛シーンで頭角を表すことになった。ロリンズが彼らを気に入り、ドン・チェリー(tp)、ビリー・ヒギンス(ds)とのRCAのレコーディングに起用しようと目論んだが、プロデューサーの反対に会い頓挫。それでもロリンズはシモンズを離さなかった。

「ロリンズにニュージャージーのイングルウッド・クリフの森の中に連れて行かれた。ロリンズに朝の5時に起こされ、それから夕方の5時までずっと練習さ。彼がどうしてNYのたくさんの若手のなかから自分に目星をつけたのか分からなかった。彼が言うんだ。”君は僕が好きなスタイルを身に付けている。どうしたら君のようなスピードのある演奏がきるのか学びたいんだ”。Newk(ニューク=ロリンズ)は最高だよ。当時の彼はアヴァンガルドに行きたがっていたんだ。だけど彼がその方向を続けることはなかった。彼はとても思慮深い人間だからね」。

さらに 7月には彼らはエリック・ドルフィーの『Iron Man』と『Conversations』(FM) の録音に参加、翌8月にはスペインでエルヴィン・ジョーンズ=ジミー・ギャリソンの双頭バンドに参加『Illumination』(Impulse)を録音するなど目覚ましい活躍が始まった。

翌1964年、白人トランペット奏者バーバラ・ドナルドと結婚、息子 Zarakと娘 Raishaをもうけたが、Zarakはパーカショニスト、Raisha はピアニストに成長、母親のバンドで共演するようになる。一方、ソニーは、60年代後期にはパートナーのバーバラを含むグループで東西のコーストを往来して演奏。1966年と1968年には、バーバラを含むバンドでESPに2枚のアルバム『Staying on the Watch』と『Music from the Spheres』を録音している。60年代が前半のピークと見ることができるだろう。

「バーバラ・ドナルドと一緒になって大変なことが起きた。1日が1年のような事態と言ったらいいのか。ベニー・ハリスというビバップ・トランぺッターがバーバラにソニー・シモンズのところに行けと言ったらしいんだ。僕の教え子だったバーバラは僕の妻になった。きれいな白人の女性がミニスカートをはいて黒人のミュージシャンと同じステージに立ってる。音楽史上初めての出来事さ」。

一時、ウッドストックに拠点を移したものの(ウッドストック在住中にはジミ・ヘンドリックスからイングリッシュ・ホルンでの演奏参加を求められたという)、1970年に西海岸に戻ると、ラシャ、ボビー・ハッチャーソンらとサン・フランシスコ・エリアで活動を再開するが、80年代早々にはシーンから姿を消す。

「自分が初めてNYに来た時、自分はフリージャズのプレイヤーと目されていたんだ。オーネット・コールマンとフリージャズ。それもいいよ。自分もその電車に飛び乗って楽しい時間を過ごしたからね。でも、本当は、自分の曲、美しいメロディーをグルーヴィーに演奏したいのが本心さ。前衛、フリー、かっこいいよ。でもそこまでだ。お客はみんな指をスナップしながら聴きたがってるんだ。自分ももうトシなんでそろそろフリーを切り上げてメロディーのある演奏をやりたいんだ」。2007年、ソニー・シモンズ74歳の述懐である。映画のサントラで使われているイングリッシュ・ホルンに魅せられた男である。美しい音でメロディーを吹かせたら群を抜いている。

1977年のレスター・ケーニッヒの死に続く1978年のバーバラとの離婚。自暴自棄になったソニーはドラッグやアルコールに耽溺、やがてホームレスに。サンフランシスコの路上でBlackjack Pleasantの名を語り小銭を求めて演奏するストリート・ミュージシャンとして糊口をしのぐようになる。90年代始め、パリのクラブ・オーナーGeraldine Postelの耳にとまり、ブランフォード・マルサリスとSFJazzの創設者Randall Klineの協力を得て再起の道を開くことになる。1994年に息子のZarakをドラマーに迎えた『Ancient Ritual』、1997年にはTravis Shook(p), Reggie Workman(b), Cindy Blackman Santana (ds)のカルテットで『Americann Jungle』を共にQwestからリリース。

また、Postelのブッキングによりパリでの仕事が得られ、それがヨーロッパのジャズ・フェスへの出演につながった。
その後、サックス奏者のMichael Marcusと出会い The Cosmosamantics を結成、2001〜2013年の間に9枚のアルバムをBoxholderからリリースする。2015年にソニーとバーバラ、さらに息子のザラック (ds) が加わったアルバム『Sonny Simmons with Barbara Donald/Reincarnation』(Arhoolie、それにしても、「輪廻」「生まれ変わり」を意味するタイトルはふたりにとって意味深長ではある。あるいは、ソニーのかつてのメンター、ミンガスの<Reincarnation of a Lovebird>に想を得たのだろうか)をリリースしているが、これはワシントン州オリンピアでの1991年6月のライヴ録音だからホームレスから再起直後の演奏と思われる。バーバラはといえば、何度かの脳卒中に見舞われ、演奏が不可能な体調に陥り
1998年介護施設に入所、2013年に息を引き取った。


ソニー・シモンズはサックス奏者として知られているが、ソニー自身は最初の楽器、イングリッシュ・ホルンあるいはコーラングレ奏者と自認している。彼は、クラシック用の楽器であるイングリッシュ・ホルンのジャズの世界での創始者ではなかったが(おそらく、1961年にジョン・コルトレーンと共演したGarvin Bushell を嚆矢とすべきだろう)パイオニアではあり、レギュラー楽器として使用した初めての演奏家であった。録音で初めて使用したのはエルヴィンとギャリソンのアルバム『Illumination』で、イングリッシュ・ホルンで通した録音は『Tales of the Ancient』(2001 Parallactic) である。

今年(2021年)4月6日、ついには正しく評価されないままこのユニークなリード奏者はNYのBeth Israel Hospitalで息を引き取った。享年87。死因は明らかにされていないが、旧友のサックス奏者マイケル・マーカスやJazz Foundationの支援を受けながらも困窮していたという。離婚した妻のバーバラと娘のRaisha には先立たれ、息子のパーカッショニストZarakと5人の孫が遺児となった。キャリアに興味のある読者には、2003年にRobert Brewsterが制作したドキュメンタリー「In Modern Time」が用意されている。

稲岡邦彌

稲岡邦彌 Kenny Inaoka 兵庫県伊丹市生まれ。1967年早大政経卒。2004年創刊以来Jazz Tokyo編集長。音楽プロデューサーとして「Nadja 21」レーベル主宰。著書に『新版 ECMの真実』(カンパニー社)、編著に『増補改訂版 ECM catalog』(東京キララ社)『及川公生のサウンド・レシピ』(ユニコム)、共著に『ジャズCDの名盤』(文春新書)。2021年度「日本ジャズ音楽協会」会長賞受賞。

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