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~No. 201ある音楽プロデューサーの軌跡 稲岡邦弥

ある音楽プロデューサーの軌跡 #16「ボブ・マーレー生誕50周年記念フェスティバル」

text & photo: Kenny Inaoka 稲岡邦彌

今年(2006年)は “キング・オブ・レゲエ” ボブ・マーレー(本名:ロバート・ネスタ・マーレー)の没後 25周年(1981年5月11日没)だった。生地ジャマイカの首都キングストンではどのようなイベントがあったか定かではないが、盛大な祝賀コンサートが行われた生誕50周年(1945年2月6日生まれ)には僕は当地でそのすべてを目撃する機会を得た。マーレー・ファミリーに近しい友人の依頼で日本のTV局の現地取材に同行したのだ。

♪ トロージャン・レーベルのボブ・マーレー

僕とレゲエの付合いは、 70年代に遡る。当時勤務していたトリオ/ケンウッドレコードが英トロージャン・レーベルと契約、レゲエ・シリーズの発売を開始したのだ。トリオ/ケンウッドは、ジャズに加えいわゆる “ルーツ・ミュージック” の紹介に熱心で、ブルースからブルーグラス、サルサ、民族音楽まで発売していた。レゲエを担当したのは大阪の憂歌団売り出しやブルース・フェスの実現で名を上げた中江昌彦(退社後、翻訳家に転身、『レス・ザン・ゼロ』などを手掛けた)で、第1回発売は1978年11月25日。ボブ・マ-レー&ウェイラーズの名曲集『アフリカン・ハーブスマン』(1969) を筆頭に、マトゥンビ、ビッグ・ユース、ラス・マイケルとトゥ-ツ&メイタルス他のコンピで計5枚という堂々たるラインナップ。その後、翌年12月まで1年をかけて計25枚のシリーズが完結する。マーレーは、『アフリカン・ハーブスマン』と『ラスタ・レボリューション』(1970・写真) の2作だったがその衝撃度は強く、マーリィの急死を受けて2ヶ月後には追悼盤『ボブ・マーレー 1945-1981』(写真)を編集・発売、同時に11枚の《A Tribute to Bob Marley》シリーズをスタートさせた。追悼盤のA、B面はボブの死の直後にTrojanから発売されたシングル(未発表曲)曲からスタートするという粋な編集で話題を呼んだことが思い出される。

♪ 最初で最後の来日コンサート

トロージャンのレゲエ・シリーズ発売間もなく、 1979年4月ボブ・マーレー&ウェイラーズが来日する。第1回ワールド・ツアーのスタートが日本から切られたのだ。最初で最後の来日公演は東京と大阪で計7回(注1)。僕は6日の新宿厚生年金会館に駆け付けた。ザ・ウェイラーズは10人編成、それに3人編成のバックコーラスI-Threeを従えた大編成バンドである。ドレッド・ヘアを振り乱しギターを抱えながら熱唱するボブに異様なカリスマ性を見た。熱唱の中の冷徹な眼差し。黒人としての自覚、自立、精神的束縛からの解放、などお馴染みのメッセージ・ソングがシンプルなリズムとメロディーにのって力強く次々に繰り出される。歌詞に比喩などはなくすべてストレートに歌い出される。若い観客はみな立ち上がってピョンピョン跳ねている。この1979年の来日公演に立ち会った世代を「レゲエ・ファン第一世代」と呼ぶらしいが、僕も栄えある「第一世代」というわけだ。時代としては、「レゲエ」という音楽スタイルがボブ・マーレーを中心に確立されてまだ10年足らずの歴史しか経ていなかった。*4月10日 中野サンプラザホールでの公演がほぼ20年後の1998年にTDKレコードから2枚組でリリースされ、久しぶりに当時の興奮を改めて味わうことができた。

  
L:Concert program
R:Live CD front/liner

♪ 生誕 50周年記念フェスティバル

ジャマイカの首都キングストンへはロスからマイアミ経由で入った。空港ロビーを出た途端、むっとする生暖かい空気に襲われる。 2月のことである。周囲には鮮やかな色の大輪の花々が咲き乱れている。事情を知る友人が市中を外れたファンキーなホテルを予約していた。翌日、会場のひとつボブ・マーレー・ミュージアムへ出掛けたが、アシはホテルに常駐する白タク。日本製の小型ポンコツ車でダッシュボードのメ-タ類はすべて外され、歯ブラシやコップ、タバコなどが差し込まれていた。料金は市内往復で10ドル。数人の相乗りだから安いものだった。
レゲエ・ファンの聖地ボブ・マーレー・ミュージアム。入口ではギターを抱えたボブの全身像に迎えられる。右手にレストラン「クィーン・オブ・シバ」。奥には音楽スタジオが設けられ、ステファン・マーリィ(注2)を中心とする若いラスタ(注3)が練習に励んでいた。かたわらではガンジャを吸う者も。ガンジャとはマリワナのことだが、彼らはハーブともいい、彼らの信仰に基づく習慣であると主張する。(かつて訪れたシカゴのディープ・サウスのブラック・コミュニティでは、タバコよりマリワナの方が健康には優れていると説かれたことがある)ジャマイカでもガンジャは禁じられているがラスタは宗教上の理由で見逃されているようで、とくにラスタが集うミュージアムは一種の治外法権のように見えた。

 

 

フェスティバルはタフ・ゴング・インターナショナルとボブ・マーレー・ファウンデーションの共催で、 4日(土)と5日(日)それぞれミュージアムと市内のディスコ「ミラージュ」で行われた。ミュージアムはトラッドなルーツ・レゲエが中心で、「ミラージュ」は若手中心のいわゆるダンスホール(注4)が中心となった。
取材は、両会場のフェスティバルを中心に、ボブを知るミュージシャンへのインタヴューや、さらにはボブが十代を過ごしたゲットー「トレンチ・タウン」、ラスタファリズム(注3)のセミナーが行われたウエスト・インディーズ大学まで足を伸ばした。トレンチ・タウンへの取材には制服、私服の警官がそれぞれ2名ずつ配備されるというものものしさ。ロケ・バスが到着すると4 ,5才の子供たちが駆け寄りバラのタバコを売付けにくる。ラスタ・ミュージシャンのひとりが招いてくれた自宅はトタンで囲われただけの質素なものだった。近くに広大な更地があったが、メロディ・メイカーズを率いるボブの長男ジギーがコミュニティ・センターを作るために購入したものだという。学校にいけない貧しい子供たちに音楽やスポーツを教える施設などが構想されているという。
フェスティバルは両会場とも夕方から深夜まで新旧のバンドが出演し、さながらレゲエの歴史をたどる内容となった。ミュージアムには各国からつめかけたファンに混じって何人かの正装した古老が威厳を正して座席を占めていたが、単なる記念撮影は付き人が厳しく管理していた。日本の在ジャマイカ大使も駆け付けた。ヘヴィなルーツ・レゲエが中心だったミュージアムに対し、「ミラージュ」では若者がダンスホールに熱狂した。ダンスホールはコンテンポラリーなレゲエで、軽めのリズムにのって美しいメロディが歌われ、陶酔してステップを踏む。両会場に共通するのはラスタファリズム。あちこちで「ラスタファーライ!」の掛け声が聞こえる。

 
  
   
トトレンチタウンのゲットー

♪ タフ・ゴング・スタジオ

レゲエ・シーンの拠点、タフ・ゴング・スタジオに出掛けた。このスタジオはタフ・ゴングことボブ・マーレーの音楽拠点となったところである。 1965年ボブが創設したが、ミュージアムに改築されたホープ・ロードからマーカス・ガーヴェイ・ドライヴに移転した。熱心なファン向けには、ボブのスタジオでのリハーサルの様子を収めたCD『タフ・ゴング・スタジオ 74-79』もリリースされている。かなり広い敷地にはスタジオの他にボブやマ-レー傘下のミュージシャンの音源を管理するタフ・ゴング・インターナショナルのオフィスも置かれている。訪ずれたスタジオではダブ(注5)のプロセシングが行われていた。ギターに強烈なリバーブがかけられ足元が揺らぐような感覚を生み出す。機材は新しいものではなかったが、エンジニアやミューシジャンの生来の感覚を頼りに新しい音が生み出されていく。荒削りでガッツィな本場の音が腹に利く。
今年テラークから発売されたジャマイカ生まれの人気ピアニスト、モンティ・アレキサンダーの『コンクリート・ジャングル~ザ・ミュージック・オブ・ボブ・マーレー』は、『ザ・タフ・ゴング・セッションズ』とサブ・タイトルされているように、タフ・ゴング・スタジオで録音されたものだ。付属のブックレットに何点かのセッション・フォトが見えるがスタジオの雰囲気を良く伝えており、懐かしさが込み上げてきた。このスタジオでもタクシーが着くと、子供たちがバラバラと駆け寄ってきた。
最近、コロムビア・ミュージツクから廉価盤でリ・イシューされた DVD『ボブ・マーレー&ザ・ウェイラーズ/メイキング・オブ・キャッチ・ア・ファイア』は、名作『キャッチ・ア・ファイア』の制作秘話を伝えてとても興味深い。『キャッチ・ア・ファイア』は、1973年にアイランド・レコードから発売され、ボブを国際的なアーチストに押し上げたエポック・メイキングなアルバムだが、その裏にはプロデューサー、クリス・ブラックウェルの手腕があった。キングストンのスタジオでの録音を終えたボブはマスターテープを抱えロンドンのクリスを訪ねる。ボブを待ち構えていたクリスはスタジオに赴き、腕っこきのスタジオ・ミュージシャンを使ってさまざまなオーバーダビングを施す。ギターやキーボードを使ってカントリー・ボーイをシティ・ボーイにドレスアップしたのだ。ファンの間ではいまだに賛否両論が絶えないプロセスである。結果、『キャッチ・ア・ファイア』は大ヒット、ボブ・マーレーとレゲエは国際的な知名度を得て行く。1974年9月、エリック・クラプトンがカヴァーしたボブの名曲<アイ・ショット・ザ・シェリフ>(ボブのアイランド2作目『バーニン』収録)がシングル・チャートの#1にランクされボブの評価は決定的なものになった。

  
 
L:ネヴィル・ギャレット
R:リタ・マーレー

注1:
■ボブ・マーレー&ザ・ウエイラーズ日本公演全日程
4/ 5 新宿厚生年金会館大ホール
4/ 6新宿厚生年金会館大ホール
4/ 7 渋谷公会堂
4/10 中野サンプラザホール(学生向け追加公演)
4/11 大阪厚生年金会館大ホール
4/13 大阪フェスティバルホール

■メンバー
ボブ・マーレー (vo)
カールトン・バレット (ds)
アストン“ Family Man”バレット(bg)
タイロン“ ORGAG D”ダウニー(key)
アルヴィン“ SEECO”パターソン(perc)
The I-Three(background singer)
リタ・マーレー
ジュディ・モワット
マルシア・グリフィス

ジュリアン“ JUNIOR”マーヴィン(g)
アルベット・アンダーソン (g)
イアン・ウィンター (key)
アール・リンド (key)
ヒューバート・ゴードン (perc)
アルバート・ヒューエット (perc)

注2:
ボブ・マーレーは8人の女性との間に11人の子供をもうけた」ステファンは正妻リタとの間の次男。長男ジギー、姉シャロン、セデラと「メロディメーカーズ」を組み、もっともボブの遺髪を継ぐ存在といわれる。別に、異母兄弟キマニ、ダミアン、ジュリアン、ロハン、ジュニア・ゴングら7人で「ザ・マーレー・ボーイズ」を結成。

ボブ・マ-レー研究家の岡田春樹氏のデータによると詳細は以下の通り;
=イヴェッタ・クリシェトン~マケダ(娘)
=シンディ・ブレイクスピア~ダミアン(ジュニア・ゴング)(息子)+
=アニタ・ベルナヴィス~キマニ(息子)+
=ルーシニー・パウンダー~ジュリアン(息子)+
=ルシール・ウィリアムス~ロバート(息子)+
=ジャネット・ボーエン~カレン(娘)
=ジャネット・ハント~ローアン(息子)+
=リタ(妻)~セデルラ(娘)*
~シャロン(ステファニー)(娘)*
~デイヴィッド(ジギー)(息子)*+
~ステファン(スティーヴ)(息子)*+
* ジギー・マーレー&メロディー・メイカーズ
+ ステファン・マーレー&マーレー・ボーイズ

注3:
ラス・タファリというハイレ・セラシエ1世・エチオピア皇帝(在位 1930~1974)の即位前の名前に由来する。ジャマイカ生まれの黒人思想家・解放運動家マーカス・ガーヴェイ(1888~1940)の預言により「黒人として最初の皇帝」になったハイレ・セラシエ1世を現人神とする。黒人を解放、故郷アフリカに回帰すべしと説く。毛髪を神聖なものとして崇め、切らずに頭髪はドレッド・ヘアに編み、人目にさらさず帽子で保護する。肉食を避け心身ともに健康的な生活を送る。現在全世界の信者数は約100万人。ジャマイカの全人口の1割を占めるといわれている(その他は宗主国イギリス系のプロテスタント)。ボブ・マーレーは、マーカス・ガーヴェイと生地(ジャマイカのセント・アン)を同じくし、ガーヴェイから大きな影響を受けた。現地では信者をラスタと呼ぶ。

初出:2006年10月22日 (Jazz Tokyo #56)

稲岡邦彌

稲岡邦彌 Kenny Inaoka 兵庫県伊丹市生まれ。1967年早大政経卒。2004年創刊以来Jazz Tokyo編集長。音楽プロデューサーとして「Nadja 21」レーベル主宰。著書に『新版 ECMの真実』(カンパニー社)、編著に『増補改訂版 ECM catalog』(東京キララ社)『及川公生のサウンド・レシピ』(ユニコム)、共著に『ジャズCDの名盤』(文春新書)。2021年度「日本ジャズ音楽協会」会長賞受賞。

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