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ある音楽プロデューサーの軌跡 稲岡邦弥No. 248

ある音楽プロデューサーの軌跡 #46「Transheart トランスハート・レーベル」

text & photos by Kenny Inaoka 稲岡邦彌

レコード・プロデューサーとしておそらく今までに200作以上のアルバム制作に関わっていると思うが、今回その中から9作を私のパーソナル・レーベル Transheart(トランハート)から再発売する機会に恵まれた。2004年にPolystar Records から「70年代日本のフリージャズを聴く!」のシリーズ・タイトルの下、70年代の日本のフリージャズ系のアーカイヴをまとめて30作再発売していただいたが(2015年には、その中から15作が“今、日本のフリージャズを聴く”として Universal Musicから再々発売された)それに次ぐものである。

「70年代日本のフリージャズを聴く!」 第1〜3期 全30タイトル
http://musicircus.on.coocan.jp/main/70free_1.htm
http://musicircus.on.coocan.jp/main/70free_2.htm
http://musicircus.on.coocan.jp/main/70free_3.htm

「今、日本のフリージャズを聴く」全15タイトル
https://www.universal-music.co.jp/japan-free-jazz/

2014年には旧トリオレコードの原盤から「音の匠・菅野沖彦 ”昭和のジャズ” モダン・スイング・シリーズ」として15タイトルがまとめて再発売されたが、このシリーズのプロデューサーは今年 (2018年) 早々に物故された森山浩志さんで、僕はレコード会社のA&R担当として関わったものであった。

「音の匠・菅野沖彦 ”昭和のジャズ” モダン・スイング・シリーズ」全15タイトル
https://www.universal-music.co.jp/swing/

今回は私が制作に関わった多くのアルバムの中でもパーソナル・レーベルとしてまとめて9作品が再発売されるので喜びも格別である。しかも、ジャケットはすべてオリジナル・アートワークを使用、紙ジャケット仕様となっている。

ジャズ・プロデューサーにとって自分のレーベルを持つことは夢である。ジャズ・プロデューサーが自ら興し、シーンに大きな影響を与えた二大レーベルは、アメリカのBlue NoteとドイツのECMである。Blue Noteレーベルは、ベルリンから移住したアルフレッド・ライオンが1939年にNYに設立したレーベルで、紆余曲折を経て現在も活動を続けているが、1967年にライオンが引退するまでの28年間がライオンの息がかかったオリジナルのBlue Noteとする見方が一般的である。一方のECMレーベルは、ミュンヘン生まれのマンフレート・アイヒャーが1969年に地元に設立したレーベルで、レーベル名ECM=Edition of Contemporary Music (同時代の音楽のためのレーベル) が示すように、即興演奏を主体とするジャズに加え “記譜された音楽”(いわゆる譜面に基づく演奏)のためのNew Seriesを持つ。あたかも1967年に引退したアルフレッド・ライオンが新世代のマンフレート・アイヒャーにトーチを手渡したかのように、アイヒャーは1969年にECMを設立するのである。そして、時代は“ハードバップの牙城”Blue Noteから“コンテンポラリー・ミュージックの森”ECMへと移るのだ。ECMは来年(2019年)、創立50周年を迎え、その間オーナー・プロデューサーのマンフレート・アイヒャーが制作したアルバムはジャズ、クラシック両ジャンルで2700タイトル近くに及ぶ。マイルス・デイヴィスのプロデューサーとして著名なテオ・マセロも、メジャーのコロムビア・レコードを退職したあと、自身の名を冠したレーベルを設立している。日本では、1970年に藤井武らによって設立されたスリー・ブラインド・マイスがおよそ130タイトルを制作し、日本最大のインディ系ジャズ・レーベルとなった。

さて、私のジャズ・プロデューサー歴だが、1973年のセシル・テイラー・ユニットの来日公演をライヴ収録した2枚組『アキサキラ』がデビューで、その後、1984年に退職するまでトリオ株式会社(後のケンウッド株式会社)の社員プロデューサーとしていくつかの社内レーベルを横断して生涯過半のアルバムを制作した。その中から時代を反映したフリージャズ系のアルバム30タイトルが「70年代 日本のフリージャズを聴く!」シリーズとしてポリスター・レコードからリリースされたが、これはとりもなおさず私のトリオ時代のアーカイヴの一部であった。独立後は、Ninety-Oneレーベルのための『富樫雅彦+菊地雅章/コンチェルト』など散発的な制作があった。

そんなキャリアを経てついに手に入れたのが我がトランスハート・レーベルである。1993年、創り手のハートから聴き手のハートに想いがダイレクトに届くようにとの願いを込めて私自身が「Transheart」と命名した。今回、Transheartレーベルの名の下に集約された9タイトルは以下の通りで、Space Showerから12月4タイトル、来年1月5タイトルがリリースされる。

DDCB-13038『リッチー・バイラーク・トリオ / トラスト』
DDCB-13039『ポール・ブレイ / 禅パレスの思い出』
DDCB-13040『ポール・ブレイ / ハンズ・オン』
DDCB-13041『イサオ・ササキ / ムイ・ビエン』
DDCB-13042『菊地雅章 / アタッチト』
DDCB-13043『菊地雅章 / オーロラ』
DDCB-13044『菊地雅章 / ドリーマシン』
DDCB-13045『富樫雅彦 / パッシング・イン・ザ・サイレンス』
DDCB-13046『富樫雅彦 / ヴォイセズ』

パーソナル・レーベルとなると、やはり自分がミュージシャンとしてまた人間として濃密に関わった対象を取り上げることになる。ポール・ブレイ、リッチー・バイラーク、菊地雅章、富樫雅彦。いずれも一筋縄ではいかない相手はであるが、音楽的には底知れぬ可能性を秘めた面々ではある。ササキ・イサオは、付き合いの深かったベースの鈴木良雄と「ネイティヴ・サン」のプロデューサーだった清野哲生の縁である。

DDCB-13038『リッチー・バイラーク・トリオ / トラスト』

このトリオを録音しようと思い立ったのは、1973年のスタン・ゲッツ・カルテットの来日時。親分ゲッツの体調が思わしくなく、椅子に座って吹き流す有様。逆にバックを務めるバイラーク、デイヴ・ホランド(b)、ジャック・ディジョネット(ds) のトリオのまさに清新で刺激的な演奏に釘付けになった。滞日中のトリオの録音については各社争奪戦になったため全社が降り、僕は、ホランドとディジョネットのデュオ『タイム&スペース』を録音した。マイルスのバンドを経た彼らのスピリットと楽想は素晴らしく駆け出しだった僕は彼らからじつに多くのことを学んだ。彼らとも友好関係を結ぶことができその後も何度かの仕事を共有することができ、その関係は今に続いている。バイラークとも何度も録音を経験しているが、自分のレーベルを持てたことで、まさに20年後にトリオ録音の宿願を果たせたのだった。録音2日目、熟睡していたバイラークは電話で叩き起こされ、ヴィレッジのロフトからミドルタウンのスタジオまでタクシーを飛ばして駆けつけたのだが、皆が心を許しあった間柄だったためトラブルにならずに済んだのだった。エンジニアはこれも仕事仲間でのちにグラミー賞に輝くデイヴィッド・ベイカー。


DDCB-13039『ポール・ブレイ / 禅パレスの思い出』

DDCB-13040『ポール・ブレイ / ハンズ・オン

ポール・ブレイは僕のアイドルだった。すでにECMを始め各国のレーベルに多くの素晴らしい作品を残していたが、自分のレーベルにどうしても作品を残したかった。あえてベースギターのスティーヴ・スワロウを加え、共演歴の多いポール・モチアン(ds)とのトリオを組んだ。じつは、スワロウは当時、ブレイの最初のパートナー、カーラ・ブレイの公私にわたるパートナーになっていたのだが仕事に私情は禁物の態度を貫き通した。ブレイの唯一のリクエストはベーセンドルファー・モデル290「インペリアル」をスタジオに用意すること。「インペリアル」は、通常の88鍵のコンサート・グランドの低音部にさらに9鍵を追加し97鍵にした特別仕様のピアノだ。誤って弾かないように9鍵に蓋がかぶせてあったり、白鍵に黒いキーを使っていたりする。ブレイは即興でこの極超低音をうまく使いこなしているのが分かる。とくに、ソロ・アルバムでは、この極超低音の弦を共振させてさらに豊かな倍音を生み出している。ソロ・アルバムは、トリオ録音が1日で上がったために、空いた2日目を充てたものである。ブレイの早録りは有名で、乗って来たタクシーを待機させておく、というジョークが通用している。1999年に横浜のホールで富樫雅彦 (drums) と手合わせした際も、予定以上に早く終わったデュオののこり時間を使ってソロ録音を敢行した実例が思い出される。エンジニアには、ウッドストックを中心に活躍するトム・マークを起用したが(スワロウとカーラ・ブレイのお抱えでもある)、用意したマイクが気に入らず、タクシーを飛ばしてデイヴィッド・ベイカーが所有する最新鋭のショップスを借り出すというハプニングがあった。

DDCB-13041『イサオ・ササキ / ムイ・ビエン』

ネイティヴ・サンをフュージョン・ジャズの立役者に演出した清野哲生をプロデューサーに迎え、のちにECMのマンフレート・アイヒャーとともに“ECMサウンド”を創りだした男、オスロのヤン・エリック・コングスハウクをエンジニアに起用したピアノ・ソロ・アルバム。ジャケットにはトリオでリリースしたオリジナルLPのアートワークを初めてCDで再現した。清野とササキは数週間にわたってスペインを彷徨、楽想を溜め込んでオスロに飛び、録音に臨んだ。ササキの紡ぎ出す哀しいロンチシズムが甘さに堕すことなく“クリスタル・サウンド”に閉じ込められている。

DDCB-13042『菊地雅章 / アタッチト』
DDCB-13043『菊地雅章 / オーロラ』
DDCB-13044『菊地雅章 / ドリーマシン』
DDCB-13045『富樫雅彦 / パッシング・イン・ザ・サイレンス』
DDCB-13046『富樫雅彦 / ヴォイセズ』

菊地雅章と富樫雅彦は私がプロデューサーとしてもっとも濃密に関わった日本のミュージシャンであり、私のキャリアにとってともにかけがえのない人たちである。ミュージシャンとしてだけでなく、人間としても多くのことを学ばせていただいた。菊地は富樫(1940年3月22日生まれ)より半年ほど早い1939年10月19日の生まれだが、富樫(2007年8月22日病没)より8年ほど長く生きた(菊地は2015年7月6日NYで病没)。もっとも富樫は脊髄損傷(1970)による下半身不随というハンデを抱えていたから同列に論ずるのは酷かもしれない。ふたりに共通する資質は、音楽に対しまったく妥協を許さない厳しい態度で貫き通したことと、日本のミュージシャン以上に海外のミュージシャンにより高く評価されたことだろう。菊地は1973年にNYに移住し、ギル・エヴァンスやゲイリー・ピーコック、ポール・モチアンなど“ミュージシャンズ・ミュージシャン”との共演の機会に恵まれていたので彼らの口を通して伝播していったが、富樫はもっぱらLPやCDなどのメディアを通じて徐々に評価されるようになっていったといえる。
公式に記録されている菊地と富樫の出会いは1961年の「ジャズ・アカデミー・カルテット」で、高柳昌行 (g, 1932年12月22日~1991年6月23日) と金井英人(b, 1931年5月7日~2011年4月8日)の4人で実験的ジャズの模索を始めた。このカルテットに日野皓正(tp)、山下洋輔(p)、豊住芳三郎(ds) らが加わり30人ほどのメンバーで立ち上げたのが新世紀音楽研究所。共に銀座のシャンソン喫茶「銀巴里」を根城に活躍していたが、彼らの研究発表会の一夜(1963年6月26日深夜)をドキュメントしたのが世に知られた『銀巴里セッション』(TBM)で、のアルバムに菊地雅章(p)、金井英人(b)、富樫雅彦(ds)のトリオが演奏する<ナーディス>が収録されている。その後、2人は揃って渡辺貞夫カルテットに入団、『ジャズ&ボッサ』(1966)を録音することになる。
1991年、日本クラウンから「Ninety-One」レーベル立ち上げ記念のCD制作を依頼されたとき迷うことなく菊地と富樫のデュオ・レコーディングを提案した。彼らの1971年の名作『ポエジー』の20年後を確認したかったからで、2枚組『コンチェルト』には彼らの20年間の内的成長が刻まれている。それから4年後の1995年にインディのAEOLUSレーベルのためにゲイリー・ピーコック(b)を加えたトリオでスタジオ盤『ビギン・ザ・ビギン』とライヴ盤『テネシー・ワルツ』を制作した。このトリオも『ポエジー』を参照したもので、このアルバムでトリオは3曲で共演している。菊地、富樫、ピーコック3人とも僕が心から敬愛するミュージシャンでこのトリオの制作はプロデューサー冥利に尽きる経験だった。そういう意味では、富樫とポール・ブレイのデュオ『エコー』(SME, 1999)と富樫とリッチー・バイラークのデュオ『津波』『カフナ』(TRIO, 1978)、『フリーダム・ジョイ』(Trial, 1997)でも同じ至高の感慨を味わっている。

僕が菊地雅章と親しく付き合うようになったのは、トリオレコード在籍時に菊地にギル・エヴァンス・オーケストラのプロデュースを依頼した1980年に始まる。『アタッチト』(1992) は僕が菊地のプロデューサーを務めていた時代の作品で、attached は“未練”“執着”とでも訳すべき彼の心情を反映したものである。彼が20年以上苦楽を共にしたアメリカ人女性と別れてすぐに録音されたものでいつになく彼の情念が色濃く滲み出ている。気休めにウッドストックに住むカーラ・ブレイのスタジオに誘い出したのだが、カーラからプレゼントされたスコアブックから2曲収録されている。オープナーにカーラの<サッド・ソング>(悲しい歌)を持ってくるところに当時の菊地の菊地の心痛を窺い知ることができる。『オーロラ』(1986~1988)は、菊地が指を骨折してピアノを弾けない状態にあった時に開発した「リアルタイム・シンセサイザー・パフォーマンス」に拠る作品。ミニマリズムのように微妙に変わる音型のプログラムをシーケンサーで再生しながら生(ナマ)の演奏をダビングしライヴ・ミックスしていくという独自の手法。映像作品とのコラボのために開発された手法だが、この『オーロラ』は映像とは独立した音楽作品として制作されたもの。『ドリーマシン』(1992) は、ハービー・ハンコックとのコラボ作品<ロック・イット>(アルバム『フューチャー・ショック』1983収録)でグラミー賞を受賞したビル・ラズウェルとのコラボ作。近藤等則 (tp) やサムルノリとの仕事で付き合いのあったラズウェルに僕が共演を申し入れて実現したプロジェクト。手兵を駆使してラズウェルが完成させたリズム・トラックに菊地がオーバーダブするという手法に“ジャズ・ミュージシャン”である菊地は最後まで馴染むことができなかった。この仕事が縁で菊地はブルックリンに確保していた大きなスタジオの権利をラズウェルに手渡すことになる。
富樫雅彦との最初の出会いは、1973年の「インスピレーション&パワー〜フリージャズ大祭1」。富樫が事故後初めて公開の場に姿を見せた日、佐藤允彦(p)とのデュオ。以来、僕が制作を手がけたミュージシャンではもっとも多作となった。『パッシング・イン・ザ・サイレンス(沈黙を往く)』(1993) は、完全なパーカッション・ソロ。富樫は入念に楽想を練り、スコアに落とし込んだ。蝶のコレクターでもあり、富士の麓に住む富樫を慮って山中湖畔の宿泊付きスタジオを予約した。スタジオを正面に眺める部屋にもモチヴェーションが上がらない。理由を聞くと「富士山は嫌いだ」という。「完璧な美しさ」を嫉妬しているのだ!デジタルを嫌う彼のためにアナログのコンソールを残すスタジオを押さえたのだが。ともあれ、結果には大満足。彼の居宅を訪れると部屋には甘いラテンが小さい音で流れている。このアルバムもできるだけ小さな音で再生してほしいという。そうすることによりあの富樫雅彦と同じ環境を共有することができる。『ヴォイセズ』(1988) は、彼が敬愛し共演を重ねるスティーヴ・レイシー(ss) とJ.J.アヴネルとのトリオ盤。僕は2年前の1986年にもドン・チェリー(tp)とデイヴ・ホランド(b)を招いて開かれた彼の音楽生活30周年記念コンサートをライヴ収録(『ブラブラ』PanMusic)しているが、富樫さんは気に入ったミュージシャンとは何度も共演の機会を求めていく。この『ヴォイセズ』はお互いに気心を知り尽くしたレイシーとの心の深奥での共感が胸に沁む名作である。(敬称略)
♪ 冨樫雅彦ソロ・セッション

稲岡邦彌

稲岡邦彌 Kenny Inaoka 兵庫県伊丹市生まれ。1967年早大政経卒。2004年創刊以来Jazz Tokyo編集長。音楽プロデューサーとして「Nadja 21」レーベル主宰。著書に『新版 ECMの真実』(カンパニー社)、編著に『増補改訂版 ECM catalog』(東京キララ社)『及川公生のサウンド・レシピ』(ユニコム)、共著に『ジャズCDの名盤』(文春新書)。2021年度「日本ジャズ音楽協会」会長賞受賞。

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