JazzTokyo

Jazz and Far Beyond

閲覧回数 58,276 回

ある音楽プロデューサーの軌跡 稲岡邦弥R.I.P. 児山紀芳No. 251

ある音楽プロデューサーの軌跡 #47「児山紀芳さんのこと」

text by Kenny Inaoka 稲岡邦彌

児山紀芳さんが亡くなった。闘病中であることは55 Recordsの五野さんから知らされていたが、逝去の第一報はトランペッターの曽根麻央さんから入った。地元・柏で付き合いがあったそうだ。JazzTokyoの悠雅彦主幹と連れ立って通夜に参列した。悠さんは、児山さんが近刊の自伝『ジャズばかり考えて来た』(白水社)で触れているように、児山さんが「スイングジャーナル」誌の編集長になってまもなく新人評論家の論文募集に応募、優勝してデビューした経緯がある。会場にはジャズが流れ、祭壇には白い菊の花で音符が描かれるなどジャジーな雰囲気が醸し出されていた。こういう席では思わぬ再会があるものだが、この日は何十年ぶりかで司会者の行田よしおさんに出会った。行田さんとは同い年で以前にも増して堂々たる体躯を誇っていたが透析の辛い話が出た。われわれの年代になると誰もが何らかの体調不良を抱えている。
児山さんの死因は胃癌で、昨年9月に診断されたときはすでにステージ4だったという。以前にも知り合いが診断後そのままホスピスに入って数ヶ月後に亡くなった。癌とはそういう病気なのかと自分の身に引き換え切なくなる。悠さんのように余命を宣告されて30年も生き延びている不死鳥のような人がいるのは大いなる救いだ。

児山さんは自伝を読んでもわかる通り趣味が生涯の仕事になった幸せな人である。知る限りではジャズ以外の唯一の趣味は食い道楽だ(公には唯一ということになっているようだ)。ぼくもその食い道楽のお相伴に何度か与ったことがある。旧トリオレコードがジャズのレコードを定期発売することになり、ご挨拶代わりに接待を申し出たところ、即座に「六本木香妃園の北京ダックがいい」と言われた。ぼくと同僚の原田和男はその時初めて北京ダックを口にすることになった。食事が終わる頃、尚子夫人が颯爽とフェアレディZを駆って迎えに来られた。味をしめたぼくらはその後2、3度北京ダックのお相伴に与ったと思う。

旧トリオレコードのジャズ部門は、シカゴのデルマーク、ロンドンのブラックライオン、ミュンヘンのECMでスタートしたのだが、ブラックライオンは児山さんの紹介だった。大きなカタログを持たない新参者のわれわれにとって主流派のブラックライオンとコンテンポラリー系のフリーダムを併せ持つアラン・ベイツの紹介はありがたかった。ブラックライオンにはデクスター・ゴードンやセロニアス・モンク、フリーダムにはオーネット・コールマン、セシル・テイラー、アーチー・シェップがの音源があった。某系のストーリーヴィルにはリー・コニッツや秋吉敏子、未発売のビリー・ホリデイが発掘される驚きもあった。さらにはキャンディドが追加され、マックス・ローチ、チャーリー・ミンガス、セシル・テイラーがあり、デルマークのニューオリンズ系ジョージ・ルイスから始まりECMのコンテンポラリー系最新録音までレパートリーを揃えることができた。児山さんには発売ローテーションや解説の執筆者の割り振りの教えも乞うた。本誌の悠雅彦主幹も児山さんの紹介で、その時以来のお付き合いだから40年以上になる。

ある時、児山さんから緊急の電話が入り芝の本社に駆けつけると「アンソニー・ブラクストンがマネジャーと共に羽田で拘束された。自分が身元引受け人になって何とか入国させたが、滞在費がないんだ」という話。アンソニーがパリから羽田に着いたものの、両手に余る楽器を抱えていながらワーク・ビザ(在留許可証)も帰国の航空券も所持していなかった。唯一知っていた「スイングジャーナル」の名前を出し、児山さんが呼び出され入国はできたものの演奏活動は禁止。音源を抱えているようなのでそれを買ってやってくれないかという申し出だった。前年(1972年)のNYタウンホールでのコンサート録音で演奏も録音も素晴らしく、窮状を察して買い取ることに同意した。オーネット・コールマンの『Town Hall, 192』(ESP) にならって『Town Hall, 1972』としてリリースした。児山さんはGold Discの指定で応えてくれた。アンソニーの生音は渋谷メアリー・ジェーンを借り切って杉田誠一に依頼したフォト・セッションで耳にすることができた。マイルスの『ラウンド・ミッドナイト』をBGMに流したところ、なんとアンソニーはアルトでマイルスのソロをすべて吹き切った!

そんな児山さんと大口論になったことがある。ブラクストン事件から2年後の1975年のことだった。デイヴ・リーブマンとリッチー・バイラークのバンド「ルックアウト・ファーム」がインド経由で来日、タブラのバダール・ロイをリーダーに立てたアルバム『Ashirbad(アシルバッド)』を東京で録音した。発売後、スイングジャーナルのレヴューを読んで驚いた。油井正一氏の書き出しが「これはジャズではない」とある。バダールはマイルスのバンドでも重用されてきたミュージシャンである。タブラをフィーチャーしているとはいえ、マイルス・バンドOBのリーブマンを始めアドリブ主体の演奏をしている。数百万の制作費をかけた新録音を「ジャズではない」と一刀両断に切り捨てられる筋合いはない。ミュージシャンにとっては一期一会の出会いの演奏だ。油井さんはキース・ジャレットの長大なピアノ・インプロヴィゼーションを最初に認め、3枚組の『ソロ・コンサート』のレヴューで、「レコード店に走りなさい」と絶賛してくれた懐の深い評論家である。視点を変えた聴き方があるはずだ。事実、メジャーの場合、編集部が忖度し、書き直しを依頼する例もあると耳にしていた。「これはジャズではない」では身も蓋もない。頭にかっと血が上り児山さんを電話に呼び出した。大口論になり、「電話ではラチがあかないから会って話がしたい」と告げ、六本木の交差点近くでタクシーに飛び乗り、芝の本社に駆けつけた。ところが...「編集長はたった今、出かけました」。何事もなかったかのような受付の光井さんの冷静な応対に頭に上っていた血が一気に冷めたのだった。

児山さんが編集長だった70年代、ジャズも熱かったが、スイングジャーナルを中心にジャズ業界がもっとも活気があった。児山さんが企画したジャズ・ディスク大賞やゴールド・ディスク、幻の名盤など次々に打ち出すキャンペーン企画がすべてヒットした。レコード会社が競って対応し、ディーラーやファンも呼応した。編集者としての嗅覚が素晴らしかったのだろう。ぼくも児山さんが執筆する幻の名盤発掘物語や“あのミュージシャンは今?”的追跡物語を毎号待ち遠しく読んだものだった。

時代が求めた編集者だったのだろう。合掌。

稲岡邦彌

稲岡邦彌 Kenny Inaoka 兵庫県伊丹市生まれ。1967年早大政経卒。2004年創刊以来Jazz Tokyo編集長。音楽プロデューサーとして「Nadja 21」レーベル主宰。著書に『新版 ECMの真実』(カンパニー社)、編著に『増補改訂版 ECM catalog』(東京キララ社)『及川公生のサウンド・レシピ』(ユニコム)、共著に『ジャズCDの名盤』(文春新書)。2021年度「日本ジャズ音楽協会」会長賞受賞。

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください