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ある音楽プロデューサーの軌跡 稲岡邦弥No. 253

ある音楽プロデューサーの軌跡 #49「作曲家|シンセサイザー奏者・西村直記との仕事」

 

text by Kenny Inaoka 稲岡邦彌

西村直記との初仕事は1990年12月、ヴァチカンでのローマ教皇ヨハネ・パウロⅡ世を迎えての謁見演奏のライヴ収録だった。収録は本誌JazzTokyoで録音評担当の及川公生。及川はNYの故デイヴィッド・ベイカー(グラミー・ウィナー)と並んで逆境での一発録音に無類の強さを発揮するエンジニアである。世界中から10万人を超す信者が法皇謁見のために集う会場での演奏だった。曲目は西村直記の最高傑作「如来寂音」(にょらいしずね)。13の楽曲から構成される壮大な組曲で、西村さんのシンセサイザーを中心に、ソリストとしてテノールの鎌田直純、箏の吉崎克彦、尺八の田辺頌山、女性コーラスが参加した。信者が集う大会堂の一角に演奏スペースを設け、機材を設置しての一発勝負だった。西村は高野山系の仏教徒で、組曲の中には「般若心経」の一節が登場するなど仏教色の濃い内容だが、クリスチャンを中心とした信者の胸を打ち、パウロⅡ世から直々に日本語で祝福される栄に浴したのだった。この時の演奏は帰国後、一口坂スタジオでのストリングスのオーバーダビング等を経て、翌1991年『西村直記/宇宙巡礼 イン・バチカン』としてポリスターよりリリースされた。

 

後列左から:村田雅彦・吉崎克彦・及川公生・筆者・大江夫人・鎌田直純

西村直記とは後に彼のマネジャーとなる村田雅彦(株・ユニコム21プロデュース代表)を通じNHK故・大江宣夫を介して知り合うこととなった。大江はNHK愛媛在籍中、西村がDJを受け持つ音楽番組の担当プロデューサーで、自身がNHKのプロデューサーとして本社勤務になるにあたり西村のメジャー・デビューに手を貸したのだった。大江はぼくと大学の同窓同期(大江は法学部、ぼくは経済学部)で、NHKで歌謡番組のプロデューサーなどを経た後、NHKエンタープライズに移籍、NHKBSの立ち上げに尽力した。今年で18回目を迎える東京JAZZの第1回プロデューサーを務め、翌年には本誌悠雅彦主幹とぼくを外部プロデューサーとして迎え入れてくれたのだが、病に倒れ志半ばにして黄泉の国に旅立った。
西村直記は1949年、松山の生まれ。東京藝大を卒業後、愛媛大学や地元の音楽塾で音楽講師を務めながら創作活動に励んでいたところ、発表の場のコンサートホールで身重の夫人と長男が奈落に墜落、重傷を負うという事故に遭う。家族の回復を願う西村は四国八十八ヶ所の霊場巡りを始め、成就した暁には各霊場にまつわる88曲のレクイエムが完成していた(この88曲は後にNHK の「心を旅する四国八十八か所」に使用され、CDセットとしてもリリースされた)。夫人の出産の無事と障害を負いながらも長男の生命を救われた西村は、“この世のすべてに光を照らし、心を浄化し、世界が平和になりますように。人も心も魂も、自然さえも安らぐ音楽を目指し”「世界八十八ヶ所音楽巡礼の旅」に出ることを決意する。ヴァチカンでの謁見演奏は、1988年高野山根本大塔に始まるその巡礼の旅の一環だったのだ。

西村直記の創作意欲と行動力は眼を見張るものがあり、西村の音楽制作を手伝うことによりジャズ中心であったぼくのフィールドを大きく広げることとなった。ジャズに先立ってクラシックを聴いていたぼくの聴取キャリアも役立った。
映画の音楽制作では、三枝成彰さんにも参加願った1993年のアニメ映画『Mother 最後の少女 イヴ』と1997年の淡島千景主演『Going West 西へ』(監督:向井寛)。1998年の『ユネスコ世界遺産DVDコレクション』。日本でのインディ系映画の音楽制作は決して恵まれた環境にあるとは言えないが、アニメ映画では幸いにもナマのストリングスをミックスでき、環境保護をアピールする心に潤いを加味することができた。

空海(弘法大師)は香川県善通寺市に生まれ高野山に入滅した。西村が真言宗関係で活動を共にするふたりの住職がいた。ひとりは高野山今治別院の谷本祥龍僧正で御詠歌の大家、もうひとりは岡山市の真言宗御室派長泉寺宮本光研和上で宗教詩人として知られる。西村は谷本師の指導を受けながら御詠歌の作曲もした。その精華が1975年1月17日に発生した阪神淡路大震災の犠牲者を慰霊する御詠歌「天地嘆かう」だった。岡山から現地入りした光研師は眼を覆いたくなる惨状を宗教詩人として後世に伝えるべく「天地嘆かう」に刻み付けた。六甲アイランドの高層ホテルに宿泊していた西村は大地震の恐怖を身を以て体験し身体に刻み付けた。ボランティア団体「頑張れ神戸!元気村」から請われて被災地入くりしたぼくは谷本師と合流した。光研師の詩に西村が曲を書き谷本師が御詠歌に仕立てた。被災地を体験した3者によるこの御詠歌を聴き文字通り胸が震えたぼくは即座に録音を決意、2枚組チャリティCD『レインボー・ロータス〜ビッグハンド・フォー阪神』(Polydor) をこの曲で閉めた。詠奏したのは高野山の若手僧侶グループだった。新作の御詠歌がキース・ジャレットやパット・メセニー、坂本龍一らの演奏と何の違和感もなくひとつの世界を共有した。この経緯の詳細は拙著『増補改訂版ECMの真実』(河出書房新社)に記した。このCDへの楽曲の提供がECM系ミュージシャンが多く、発売を決めたのが当時のECM担当五野洋A&Rだったからである。この年の秋、六甲アイランドのワールド記念ホールで開いた国際チャリティホールで「天地嘆かう」が詠唱された。5000人を超える聴衆の8割は被災高校生だった。
その2年後、僕はカーネギーホールのステージにいた。高野山の御詠歌隊の発表会がカーネギーホールで企画され、ぼくはそのコーディネートを依頼されたのだ。ジャンボ機をチャーターする大部隊がNYに乗り込む大プロジェクトだった。中心となったのはくだんの3 人。谷村祥龍師、宮本光研師に西村直記。西村の「宇宙巡礼」も演奏された。ヴァチカンとカーネギーホール両方で演奏された楽曲は内外でも西村の「宇宙巡礼」(如来寂音)以外ないのではないか。ぼくも西村のプロデューサーを務めていなければヴァチカンもカーネギーホールも体験することはおそらくなかったことだろう。

西村直記と取り組んだもうひとつのプロジェクトに童謡詩人金子みすゞがある。1997年、西村は高知県と安芸市の協力を受け、安芸市畑山の廃校を拠点に童謡の里作りに着手した。スタジオとともに視聴覚室やライブラリーが設けられ、ぼくの手持ちのコレクションからLPやCD、音楽図書などを多数持ち込んだ。薄幸の詩人金子みすゞ(1903~1930) の詩に激しく共感した西村は、畑山に新設したスタジオに籠り、512編の詩のすべてにメロディを付けるという難業を達成。その楽曲を生かしたコンサートを大江宣夫の演出を得て各地で展開した。コンサートは女優小林綾子を起用した寸劇や朗読、童謡歌手による歌唱で構成され大変好評を博した。小林洋一の企画で埼玉県の桶川市では文学館での金子みすゞ展とホールでのコンサートが併催された。最初の出版物は、JULA出版局の手になる「音とエッセイで旅する金子みすゞの世界」(1997)。岸田今日子、里中満智子らが寄せた10編のエッセイと西村が演奏した10曲入りCDを合わせたもの。金子みすゞの総本山ともいえるJULA出版局からの刊行で、西村直記の金子みすゞプロジェクトにお墨付きが得られたような安堵感を覚えたものだ。2年後には、キングレコードで朗読の旅1〜3、歌の旅1〜2、合唱の旅計CD6枚からなるボックスセット『金子みすゞの世界』として結実した。朗読には紺野美沙子、宮崎淑子、中井貴惠、小林綾子壇ふみが、歌手にはボニージャックスやさとう宗幸、大和田りつこなどが起用され、完成度の高い作品となった。さらには、アートユニオン社から楽譜集「西村直記 砂の王国(女声合唱篇)(金子みすゞの詩による童謡集)」も出版された。作曲家にとって楽曲がコンサートなどを通じて公開されること、またCDなどを通じて記録されることがキャリアの伸展にとってきわめて重要なモチヴェーションとなる。その一助となることがプロデューサーの冥利だろう。

西村直記とはその他、世界音楽巡礼の一環として節目ごとにCDを制作する機会があった『PEACE』(Crown/1995)、『漂流~John’s Dream』(Polystar/2000)、毛色の変わったところでは『UWFに捧げる〜キング・オブ・ファイター』(Polystar/1993)など。『キング・オブ・ファイター』では、UWFインターのテーマのシンセから生ギターへの差し替えではテクニシャンの横田明紀男を苦しめたり、ボス高田延彦とヒールの山崎一夫のテーマ曲では慣れない曲調に大いに苦労した覚えがある。『漂流』では林英哲の巨大な和太鼓をスタジオに持ち込んだり、ハムザ・エルディーン(ウード)直伝のアラブのポリリズムにネをあげたりとか...それぞれの録音にはいつも何かしらエピソードが付きものだ。

昨2018年11月、所用で20年ぶりに再会した西村から衝撃的な事実が明かされたのだ。西村の音楽巡礼のモチヴェーションのひとつともなっていた長男の英将(ひでゆき)君が8月に病死したという。ぼくが出会った頃は音大受験前だったが、その後エストニアに留学、エストニアを拠点として作曲家、指揮者、エストニア国立男声合唱団のバス歌手として活躍していたという。昨年9月、エストニアの建国100周年を記念した合唱団の来日コンサートを企画、父親の傑作「如来寂音」での親子共演を目前に控えての病没、その無念さは如何ばかりだったろう。エストニアの建国100周年といえば、ぼくは新宿ピットインでジャズのソロピアノを聴いたが、男声合唱団の来日にはまったく気が付かなかった。アルボ・ペルトを始めECMが積極的に接触している国にもかかわらずリサーチが不足していた。智恵夫人が営む松山市内のダイニング・サロン「ともちゃん」で悲しみを抑えながら西村が再生してくれたビデオからは、エストニア国立男声合唱団が歌うあのボレロのリズムに乗せた般若心経のリフが流れ出し、ぼくは思わず襟を正したものだった。ローマ教皇の御前で演奏したあの曲が30年後の今、エストニア国立合唱団により松山のひめぎんホールで演奏されている...。高野山を起点とした西村直記の世界八十八ケ所音楽巡礼の旅は、ヴァチカンやカーネギーホール、すみだトリフォリーホールを経てここ松山で完結したのではないか、というたしかな思いがぼくの頭を過(よ)ぎった。幸いにも、旅の要因ともなった長男の障害、その障害を乗り越えた長男の手を借りつつ...。(文中敬称略)

稲岡邦彌

稲岡邦彌 Kenny Inaoka 兵庫県伊丹市生まれ。1967年早大政経卒。2004年創刊以来Jazz Tokyo編集長。音楽プロデューサーとして「Nadja 21」レーベル主宰。著書に『新版 ECMの真実』(カンパニー社)、編著に『増補改訂版 ECM catalog』(東京キララ社)『及川公生のサウンド・レシピ』(ユニコム)、共著に『ジャズCDの名盤』(文春新書)。2021年度「日本ジャズ音楽協会」会長賞受賞。

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