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ある音楽プロデューサーの軌跡 稲岡邦弥No. 257

ある音楽プロデューサーの軌跡 # 50「追悼 望月由美さんを偲んで」

text by Kenny Inaoka 稲岡邦彌

望月由美さんが亡くなった。
由美さんはJazzTokyo創刊(2004年6月)以来のメンバーで、主幹の悠雅彦さん、録音担当の及川公生さんとほぼ同世代、3人ともFM東京(当時)を巡る仲間である。僕は、たしか悠雅彦さんからFM東京で由美さんを紹介していただいた。
由美さんは、創刊当初CDレヴューやコンサート/ライヴ・レヴューの他にエッセイを掲載するYumi’s Alleyというコーナーをお持ちで、ここでは阿佐ヶ谷ジャズストリートなどフェスを中心にレポートをたくさんの写真を交えながら綴られていた。あらためて調べてみると、Yumi’s Alleyの最終回は2014年12月号掲載の #26で内容は、「祝20周年!阿佐谷ジャズストリート2014」であった。アーカイヴとしては、2010年4月号掲載の #20までしか残っておらず、 これはJazzTokyoがサーバーを移動した際に技術者(当時)のミスでデータの半分(創刊以来の前半)を消失したためで残念極まりない。できる限り早い機会に残された由美さんのアーカイヴを新サイトに移植するよう努力したい。
新サイトに移動してからは、副編集長の横井一江さんと表紙を隔月で担当することになり「音の見える風景」と題するコーナーを新設、60年代のアーカイヴだけでなく、積極的に新人も取材するなど先月で61回を数えていた。この連載フォト・エッセイはたいへん好評で、ページ・ヴュー(読者の閲覧回数)が6万回を超える回も少なくなく、最新(2019年8月27日)のデータでは、2016年9月号の「ポール・デスモンド」が69,783回。それに次ぐのが、2011年6月号の「ダンケ:梅津和時・原田依幸」で 69,760回。
この連載フォト・エッセイだけでもかなりの労力と時間を要したと思われるが、由美さんはそれに加えて随時、新作CDの紹介、しかも日本のインディ系のミュージシャンの紹介に積極的だった。これは、JazzTokyo創刊時のコンセプト、内外のインディ系の情報を積極的に取り上げるというミッションに忠実だったからだ。しかも、入稿はいつもいちばん早く、編集部を喜ばせた。

望月由美さんの活動範囲は広かったが、キャリアのハイライトはやはり自主レーベルの立ち上げだろう。いろいろなミュージシャンを取材をするうち、どうしても自ら音を残したいミュージシャンに出くわす。当初は各社のレーベルに企画として持ち込んでいたが、しばらくして自ら立ち上げたのが「Yumi’s Alley」という自主レーベル。1991年のことである。第1作の相談を受けて驚いた。シカゴAACMのサックス奏者ジョセフ・ジャーマン!AACM系のミュージシャンは何れも自立心が強い。ツアー契約に始まり、録音契約、就労ビザの取得、ツアーの組み立て、レコーディングの手配、著作権..。彼女には未体験の数々のハードルをひとつひとつクリアして完成したのが『ジョセフ・ジャーマン/ポエム・ソング』だった。この時、録音を担当したのが盟友・及川公生さんだった。
その後、制作は2007年まで続き、全7作が完成した。どのアルバムも由美さん自身が聴きたいミュージシャンの聴きたいジャズにこだわった。何れも素晴らしい内容だが、やはり思い出のアルバムは由美さん最愛のミュージシャン・渋谷毅の『エッセンシャル・エリントン』だろう。苦労が報われて、1999年度SJ誌ジャズ・ディスク大賞「日本ジャズ賞」を受賞した。「エッセンシャル・エリントン」は渋谷毅のレギュラー・バンドのひとつとなり、20年後の今年3月、エリントン生誕120周年記念コンサート「エリントンDE行こう!」で満員の聴衆を前に ”渋谷毅のエリントン” を披露、喝采を浴びた。もちろん、由美さんも駆けつけたが、感慨に浸る間もなく悠雅彦主幹のレポート用の写真撮影にアングルを変えながら大奮闘。それから半年も経たないうちに悲報に接するとは誰が想像し得ただろうか...。 しかし、昨年7月、キングレコードからYumi’s Alleyの全7作が一挙再発され、ハイレゾ配信も同時にスタートした。由美さんの宿願が果たされたのだ(従来は、アルバム毎に複数のレーベルからリリースされていた)。ライナーノートを依頼された僕は次のように記した;

望月由美さんというとてもチャーミングな女性がいる。若い頃からFMの番組企画やDJを担当したり、ジャズ専門誌へのライヴ・レポートの寄稿など、今でいうキャリア・ウーマン的な仕事をこなしてこられた方である。一方でカメラマンとしてのキャリアも長く、近年、ウェブ・マガジンに寄稿しているフォト・エッセイは55回を数え、最新号では1966年にサンケイホールで撮影されたトニー・ウィリアムスが掲載された。その前は1964年の新宿厚生年金会館におけるシェリー・マン、47回目は同じく1964年のローランド・カーク、撮影場所はヴィデオホールだが、これら撮影会場となった3箇所のホールはいずれも現存していない。 

1970年代~80年代、日本のジャズ・シーンはいつになく活気を帯びていたが、「ピットイン」(新宿)や「アケタの店」(西荻窪)、「タロー」(新宿)を取材でまわるうち、黙々と自分の音楽の探求に励んでいるミュージシャンを活字で紹介するだけでは満足できず、自らレコード化の企画を立てレコード会社に売り込み、音楽そのものを世に出すことに喜びと使命を感じるようになった。ところが、我が子にも似た愛しささえ覚えるプロデュース作がメーカーの意向でカタログから消えたり、レーベル自体が消滅することを経験し、2004年、ついに自身のパーソナル・レーベル“Yumi’s Alley”を設立するに至る。  
レーベルのポリシーは、確かな技術と音色がきれいなこと、その上で個性、自分の世界を持っていること、制作者側としては、演奏者の持ち味を最大限引き出すユニットを考え、ジャズの生命である新鮮さを保つために最良の技術を駆使して録音すること。その、演奏者と心をひとつにし、精魂込めてつくりあげたアルバムが7作一挙にリイシューされることになった。これは、制作者、演奏者は言うに及ばず、ファンにとって最高のギフトと言えるだろう。どうぞ、じっくりと味わっていただきたい。  
ジョセフ・ジャーマンは記念すべき第1作、日本の精鋭との共演でジョセフの新しい音世界が深く静かに展開される。渋谷毅は望月さんが敬愛するミュージシャンで、彼の洗練されたセンスの良い人柄、音楽性に惚れ込みソロからユニットまで4作を制作、なかでも『エッセンシャル・エリントン』は念願叶って「日本ジャズ賞」に輝いた名作。林栄一は美しい音で楽器を鳴らしきる名手で、繊細で温かい人間性が滲み出る峰厚介とともに、それぞれ独自の音世界を披露している。

再発に合わせて企画されたJazzTokyoのインタヴューでは銀巴里出演など思いがけないキャリアの一部も知るところなった。思い返すに、人の一生が神の計画に沿って生きるものであるとするなら、ある意味で、由美さんは幸せなフィナーレをエンジョイされていたのかも知れない。いや、そう思いたい(ご家族にとっては辛い結果だったろうが)。
今年10月には由美さんゆかりの「阿佐ヶ谷ジャズストリート」で、渋谷毅のエッセンシャル・エリントンが「エリントン生誕120周年」を祝うコンサートを行うという。由美さんにとって望み得る最高のコーダとなることだろう。

追)その後いただいたご遺族からの連絡によると、由美さんは42度という高熱による人事不省の状態で発見され、救急搬送されてから意識を回復することなく28日後に肺炎で亡くなったという。意識を呼び戻そうとのご家族の願いを込めて病室には終日由美さんがいちばん好きだった渋谷毅さんの『エッセンシャル・エリントン』が大きな音で流されていたとのこと。「前夜まで、JazzTokyoの次号の連載のための写真をテーブルに並べて選んでいました」というご遺族の言葉に熱いものが込み上げてきた。由美さんは半世紀にわたるプリントのアーカイヴのなかから慎重に選び抜いた1枚をスキャンニングしてジャジーなエッセイとともに寄稿して下さっていたのだ。創刊以来15年以上にわたるその献身には心からお礼を申し述べたい。後に続く世代のためにもっともっとジャズのスピリットを伝えていただきたかったが、今はただ「お疲れ様でした。ゆっくりお休みください」と申し上げたい。
JazzTokyoの新サイトで閲覧できる望月由美さんのすべての記事は以下で検索できます;
https://jazztokyo.org/author/yumi/

稲岡邦彌

稲岡邦彌 Kenny Inaoka 兵庫県伊丹市生まれ。1967年早大政経卒。2004年創刊以来Jazz Tokyo編集長。音楽プロデューサーとして「Nadja 21」レーベル主宰。著書に『新版 ECMの真実』(カンパニー社)、編著に『増補改訂版 ECM catalog』(東京キララ社)『及川公生のサウンド・レシピ』(ユニコム)、共著に『ジャズCDの名盤』(文春新書)。2021年度「日本ジャズ音楽協会」会長賞受賞。

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