JazzTokyo

Jazz and Far Beyond

閲覧回数 69,233 回

ある音楽プロデューサーの軌跡 稲岡邦弥R.I.P. ジョージ大塚No. 264

ある音楽プロデューサーの軌跡 #52「 ジョージ大塚との仕事」

text by Kenny Inaoka 稲岡邦彌

ジョージさんが亡くなった。本誌の悠雅彦主幹と昨年秋頃だったか久しぶりにジョージさんのドラムを聴きたくなって、ピットインで出会った折り店のマネジャーに尋ねたところ、入院中ということだった。同年輩の悠主幹はたいそう気にしていたが結局、ふたりとも聴けないまま逝ってしまった。
僕がジョージさんを初めて生で聴いたのは歌舞伎町のタロー。ピアノが市川秀男、ベースが寺川正興のトリオ。60年代の終わりか70年代の初めだった。3人ともアイビールックに身を固めきっちりネクタイを絞めていた。タローはもともとそれほどのスペースがある店ではなかったが、ドアが閉まらずに階段の踊り場までファンが溢れていた。日野さんのバンドもタローで聴いたが日野さんたちもアイビーでキメていた。(渡辺)貞夫さんや八木正生さんは(新宿)厚生年金の地下の小ホールで聴いた。当時はリサイタル形式のコンサートも多く、皆、スーツを着込んでいたものだ。

『Jackeyboard』(TRIO)

次にジョージさんに出会ったのは仕事の現場だった。73年にスタン・ゲッツのカルテットで来日したジャック・ディジョネット(ds)とデイヴ・ホランド(b)のデュオを録音した折り、ジャックから「秋に戻ってくるからその時、ピアノ・トリオで録音したい」。「ピアノは誰?」「僕だよ。僕はもともとピアニストなんだよ。ピアノのアルバムを1枚作っておきたいんだ」「では、ドラムは?」「ジョージ大塚にして欲しい。ベースはジョージに任せる」。半信半疑のままジョージさんと準備を進め待機することにした。日比谷の野音だったか、CTIオールスターズの演奏がハネると楽屋へ呼び出しがあった。ジョージさんとジャックを訪ねると「準備はできてるよね。明日、やろう」。こんな調子で完成したのがジャックの初めてのピアノ・アルバム『ジャッキーボード』だった。ベースの古野光昭がソロでちょっとつまずいたが、録音は淀みなく進んだ。ジャックのドラムはよく歌い、しなやかさが特徴だがジョージさんもまったく同じ。スケールが大きいところも共通している。

次にジョージさんと仕事の場を共有したのは5年後の1978年5月だった。NYの Sound Ideas Studios。スタジオには、デイヴ・リーブマン(sax)、リッチー・バイラーク(p)、ジョン・アバークロンビー(g)、ミロスラフ・ヴィトウス(b)、ナナ・ヴァスコンセロス(perc) などECMでおなじみのミュージシャンが顔を揃えていた。加うるにスティーヴ・グロスマン(sax)に増尾好秋(g)。トリオ・レコードとプロデューサー契約を結んだ菊地雅章(Pooさん)が、最初に選んだミュージシャンがジョージ大塚だった。ジョージさんの代表作と目される『マラカイボ・コーンポーン』として結実したセッションだったが、惜しむらくは遅筆のPooさんの作曲が間に合わず、<マラカイボ・コーンポーン>1曲で終わってしまったこと。しかし、一筋縄ではいかないPooさんらしい作風が反映されたカリプソ調のこの1曲を聴くためにだけでもこのアルバムに手を伸ばす価値はあるだろう。

発売記念コンサートにミロスラフ・ヴィトウスと共にPooさんが送り込んだケニー・カークランドに皆の注目が集まった。当時未知のピアノ/キーボード奏者だったケニーはその後めきめき頭角を表し、ブランフォード・マルサリス(sax)のバンドの一員としてスティングのバックを務めるなど活躍したが、43歳の若さで心臓発作のために早世してしまった。このコンサートをきっかけにジョージさんはライヴ・バンド「マラカイボ」を結成、フロントに山口真文(sax)を立て、日本のジャズ・フュージョン界を牽引していく。時に、ミロスラフ・ヴィトウスやナナ・ヴァスコンセロスをゲストに迎えた骨太のジャズ・フュージョンは、“フュージョン”に顔を背けていた“リアル・ジャズ”ファンをも充分に納得させる内容を持っていた。

アルバム『マラカイボ・コーンポーン』には後日談がある。ジョージさんの高校時代の学友で高名な工業デザイナーの倉俣史朗さんが選んだジャケット用紙が紙ではなくメタルだっため、接着に至難の技を要したのだ。四苦八苦の末、なんとか切り抜けたものの製造が遅れ営業のクレームの対象になった。その後、経年変化で接着部が剥がれるというトラブルが発生したため。数年後に再発の際にはアートワークを変え通常の紙製ジャケットに変えざるを得なかった。渡辺香津美の移籍第2弾『ガネシア』の色違い3パターン・ジャケット、ロックバンド『外道』の芋版ジャケットと共に、トリオレコード史上に残る異色ジャケットとして忘れがたい。

また、ジョージさんは後輩の面倒見もよく、ピアノの大給桜子のリサイタルにミロスラフ・ヴィトウスと共に手を貸すなど献身的な協力を惜しまなかった。
ジョージさんとの個人的な付き合いはゴルフである。身長、体重、リーチを尋ねられたと思ったら、しばらくしてウッドの3本セットが届けられた。当時はメタルなどない時代で、ドライバー、スプーン、クリークの3本、パーシモンのカスタム・メイドである。練習もそこそこに連れて行かれたのが小田原の山岳コース。尾根伝いにコースが設計された上級者用だ。素人に打てるはずがない。右に左にボールが崖を転がり落ちる。ポパイの腕のようなジョージさんが振り抜くドライバーから唸りを上げて飛び出していくボールを唖然と眺めるだけ。その後、ピットインのオーナー佐藤良武さんも交えたパーティにも狩り出されたことがあるが、この人は成城大のゴルフ部OB。学生時代をゴルフとクルマで過ごした(店名をPitInnとしたのはその名残り)と自負するだけありゴルフの腕は当然シングル。球筋とスピードに圧倒され途方に暮れるばかり。その後、扱いやすいメタルに買い替えたが(名前に惹かれて買った「ブローティガン」というブランドのアイアンは極めて扱いにくかった)、ぎっくり腰と苦手な早起きを理由に早々に足を洗った。くだんのパーシモンの3本は最近までディスプレイ用に保管していたが、転居の際、粗大ゴミの一部として消えた。ジョージさんもいないことだしゴルフのクラブを握ることは2度とないだろう。

稲岡邦彌

稲岡邦彌 Kenny Inaoka 兵庫県伊丹市生まれ。1967年早大政経卒。2004年創刊以来Jazz Tokyo編集長。音楽プロデューサーとして「Nadja 21」レーベル主宰。著書に『新版 ECMの真実』(カンパニー社)、編著に『増補改訂版 ECM catalog』(東京キララ社)『及川公生のサウンド・レシピ』(ユニコム)、共著に『ジャズCDの名盤』(文春新書)。2021年度「日本ジャズ音楽協会」会長賞受賞。

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください