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~No. 201ある音楽プロデューサーの軌跡 稲岡邦弥

#24 友人の死を悼む(続)
小林洋一さんと芳賀詔八郎さんのこと

text by Kenny Inaoka 稲岡邦彌

約半年ぶりに手をつける連載コラムが「友人の死を悼む」の続編とはじつに切ないのだが、やはりこの人たちのことは書いておかねばならない。去る(2010年)5月12日に亡くなった小林洋一さんと芳賀詔八郎さんである。アーチストのように華やかなスポットライトを浴びる存在ではないがバックステージでしっかり仕事をこなしてきたふたり。小林さんとは「桶爺」、「ケニー爺」と呼び合った仲だったが、芳賀さんとは一時期仕事で濃密に付き合ったことがあるものの、「友人」というほどの深い付き合いではなかった。
小林洋一さんはオーディオ評論家でレコーディング・エンジニアでもあるJazzTokyoのコントリビュータ、及川公生さんに紹介していただいた。1987年4月のことだが、及川さんがエンジニアを務めたキース・ジャレットのサントリーホールでの公演、のちに『ダーク・インタヴァル』(ECM1379)としてECMからリリースされたソロ・コンサートの録音風景を『レコパル』(小学館)のために小林さんが取材に見えたのだ。そのとき小林さんが調光室から長玉(望遠レンズ)で撮ったステージ上のプロデューサー、マンフレート・アイヒャーと及川さんの2ショットを拙著『ECMの真実』(河出書房新社)で使わせていただいたのだ。
小林さんは埼玉県桶川市の住人である。しかも人生の大半を桶川で過ごしたようである。私が、作曲家でピアニストでもある松山在住の西村直記氏のプロデューサーを担当していたとき、当時テーマとして取り組んでいた詩人・金子みすゞに大変興味を示して下さった。そして桶川のさいたま文学館と掛け合って金子みすゞを取り上げていただくことになったのだ。会場では『音とエッセイで旅する・金子みすゞの世界』(JULA出版局)のために私がプロデュースした西村直記作曲・演奏になるCDが繰り返し演奏されたのだ。1997年のことであるから、小林さんと知り合って10年の歳月が流れていた。小林さんが金子みすゞを推薦してくれた理由は他にもあった。さいたま文芸館はじつは桶川市民ホールと同じ建物のなかにあり、小林綾子を主演に迎えた舞台「金子みすゞの世界」と連動させることが可能だからだった。
それから2年後の1999年、 オーケストラを率いるピアニスト藤井郷子女史から相談を受けた私はまたぞろ小林洋一さんのお世話になる。藤井女史(と夫君のトランペッター田村夏樹氏)のプロジェクトはメジャーも尻込みする気宇壮大なものだった。女史がニューヨークと東京に持つ藤井郷子オーケストラをそれぞれの地で録音、2枚組CDとして発売したい、というものだった。ニューヨークの録音には一発録音の名手で旧友のデイヴィッド・ベイカー氏(惜しくも、2004年8月病没;http://www.jazztokyo.com/rip/rip-idx.html)を推薦し、桶川の録音にはベイカーを心の師と仰ぐ、これまた一発録音の名手及川公生氏に依頼した。
小林さんは公開録音を条件に無償で桶川市民ホールを借り出してくれたばかりでなく、当日は先頭に立って観客の整理など取り仕切ってくれたのだった。ミュージシャン自らが身銭を切って日米でオーケストラ録音に挑むという破天荒ともいうべきプロジェクトに双手を挙げて加担してくれたのだ。このときやはり我が事のようにバックステージでミュージシャンやスタッフの面倒をみてくれたのが小林さんの同志ともいうべき存在、松村英子さんだったのだ。松村さんは私のコラム#23で追悼したように、昨年10月乳がんで急逝されたのだ(http://www.jazztokyo.com/inaoka/v23/v23.html)。松村さんは敬虔なクリスチャンだったが神はどのように松村さんの地上での人生を計画されていたのだろうか。小林さんと松村さんが目の見えないところで尽力された桶川市民ホールでの録音は、NYでの録音と合わせて『藤井郷子オーケストラ/ダブル・テイク~月は東に日は西に』と題されEWEレーベルからリリースされた。
小林さんから依頼を受けたプロジェクトもあった。桶川市で親しまれている市民音頭をマーチに編曲して欲しい、という内容だった。これは西村直記氏が金子みすゞの詩に付けた楽曲をコーラスにアレンジしてくれた現八丈島高校の音楽教師佐藤先生に依頼した。市民まつりでの披露に佐藤先生共々招待されたのだが、おふたりともスケジュールの都合で参加できなかったのが今でも悔やまれるのである。
小林さんの葬儀は去る(2010年)5月21日、桶川市の隣町鴻巣市で行われたのだが、挨拶に立った実弟の小林邦夫氏の兄洋一氏に対する肉親を超えた敬慕の念が心に沁みた。田村夏樹と藤井郷子ご夫妻も参列していたが義理堅い人たちである。ピットイン佐藤良武社長からの弔辞やジャムライス(山下洋輔氏の事務所)からの生花が小林氏のジャズ界との付合いが浅くはなかったことを示していた。亡くなった時、小林さんは私と同い年であった。合掌。

奇しくも同じ(2010年)5月12日に亡くなったカンバセーション(正式社名は株式会社カンバセーションアンドカムパニー)の代表、芳賀詔八郎さんとは、韓国のパーカッション・アンサンブル「サムルノリ」を通じての仕事上の付合いだった。私は、88年のソウル・オリンピックを挟む約5年間、電通から依頼されて「サムルノリ」の日本のマネジメントを務めていた。芳賀さんは当時、パルコの催事担当伊東さんと組んでパルコ劇場、パルコ・パート3、クアトロを舞台に目覚ましい活動を展開していた。ふたりは共に慶応の仏文出ということだったが、いかにもセンスの良いコンサートやイベントを仕掛けて堤清二氏を総帥とするパルコ文化とでもいうべきカルチャーの一端を形成していった。そんななかで「サムルノリ」はいかにも場違いな感があったが、「サムルノリ」はそもそも作家の中上健次氏がソウルで観て感動し、日本に呼び寄せたグループである。当初は中上氏の作家仲間の事務所が預かっていたほどで、中上氏を中心とする文学界や文化人の支持が圧倒的に高かったのである。ソウル・オリンピックを目前に控え、韓国に対する関心度も急激に高まっていった時期でもあった。「サムルノリ」は韓国の象徴として、パルコ・パート3、クアトロ、パルコ劇場で公演を打ち、どこも満員の成功だった。事実、「サムルノリ」はソウル・オリンピックのオープニング・セレモニーでも中心的存在として扱われたので、さすが中上氏の慧眼は鋭いものがあったといえよう。
一方で、芳賀さんと私はベルギーのインディ・レーベルを巡ってライバル関係になりかけたことがあった。当時、私は徳間ジャパンの意を受けて先進的なベルギーのプログレ/ニューウェーヴ系のレーベル「クラムド・ディスク」(小野誠彦のサントリーのCMを収録したアルバムもリリースした)を日本に定着させるべく骨を折っていたのだが、一方で芳賀さんは同じブリュッセルの「クレプスキュール」レーベルと契約、日本での本格的な展開を始めたのだ。「クレプスキュール」は、ネオ・アコ系のレーベルでいわゆる「おしゃれ系」といわれ、とくに女性に人気があった。芳賀さんは本体にプロモーターであるカンバセーションを抱え、来日コンサートの企画も思いのまま、という立場。続いて彼が手がけたのは、その名も「ブラッセルズ」というビア・バー。ベルギーの各種地ビールを飲ませるビール専門のバーで、これは当たった。スタッフにも恵まれていたのだろうが、彼自身トレンドを見極める目を持っていたのだろう。
数年前だったか、芳賀さんから突然電話をいただいた。ある企画にピアノのポール・ブレイを使いたいのだが、ポールのサイトを見たら日本の代理人として私の名前が書かれていたので、ということだった。久しぶりだったので、お互いの近況を伝え合ったのだが、芳賀さんは喉の手術をして退院したばかりだという。ポール・ブレイを招いた企画は実現せず、その後、所用で1、2度電話で話をしたのだが、体調があまり優れない、ということだった。
享年65。死因は肺炎だという。彼の遺志はカンバセーションの仲間が継いでくれるのだろうか。合掌。

* 補遺
最後になってしまったが、小林洋一さんの葬儀の際、参会者に配布された氏の履歴を転載しておきたい。おそらく、実弟の小林邦夫さんが作成されたものと思われる。

小林洋一(こばやし・よういち)
オーディオ&音楽ライター、コンサート・プロデューサー。
昭和17年(1942年)東京生まれ。早稲田大学で美学・美術史を専攻、卒業論文ではモダン・デザイン史をまとめる。

[20歳代] 建築雑誌『近代建築』、『新建築』誌編集部をスタートに、TIME LIFE『ネーチュア・ライブラリー』、『LIFE写真講座』、『文豪の世界』など日本版編集、小学館ジャンル・ジャポニカ『世界美術名宝事典』等の自然科学書および美術書編集に携わる。その間、武蔵野美術短大生活デザイン学科講師、『建築+美術展』(建築家協会主催)プロデュース等。

[30歳代] 『FMレコパル』、『サウンド・レコパル』、『FMfan』、『BRUTUS』、 『Can Cam』、『スコラ』などの雑誌にオーディオと音楽に関する原稿を寄稿。並行してコンサート・プロデュース、レコーディング制作に参画開始。BOSE社のプロモーション事業にも携わる。FM愛知の番組『ブレーク・イン・ナゴヤオーディオ』の台本書き及びDJ。

[40歳代] 足利市の知的障害者更生施設「社会福祉法人こころみ学園」にて、施設のあるべき姿を川田昇園長と共に実践。施設に併設する ココ・ファーム・ワイナリーとカリフォルニアのクライン・セラーズ社を提携。園生を引率し、ナパ、ソノマのぶどう畑やワイナリーでワイン作りを実習。(障害者のパワーで作られたスパークリング・ワインは、2000年沖縄サミットのディナーに供された。)

[50~60歳代] こころみ学園、ココ・ファーム・ワイナリー、ふるさと創生事業(大分県)アドバイザーの仕事の延長線で桶川市のまちづくりに踏み込む。
平成8~9年、旧廿楽邸活用に関する調査研究会座長。平成10年、旧廿楽邸建設に関する研究会座長。平成11年、べに花の郷づくり拠点施設(現桶川市べに花ふるさと館)運営検討委員会委員長、他。
平成9年~13年、桶川市民ホール企画制作アドバイザー(総合調整)。平成12~『街かど紅花館寄席』(商工会女性部主催)制作、他。
音元出版『Audio Accessory』誌で「バックヤードビルダー訪問」、「オーディオ粋人列伝」、「小林洋一のオーディオシーン探訪」などを連載。

『新宿ピットイン』(共著:ピットイン20年史編纂委員会/晶文社)昭和60年
『はじめてのオーディオ入門』(小林洋一・豊田廣共著/成美堂出版)平成14年


初出:JazzTokyo #139 (2010.6.11)

稲岡邦彌

稲岡邦彌 Kenny Inaoka 兵庫県伊丹市生まれ。1967年早大政経卒。2004年創刊以来Jazz Tokyo編集長。音楽プロデューサーとして「Nadja 21」レーベル主宰。著書に『新版 ECMの真実』(カンパニー社)、編著に『増補改訂版 ECM catalog』(東京キララ社)『及川公生のサウンド・レシピ』(ユニコム)、共著に『ジャズCDの名盤』(文春新書)。2021年度「日本ジャズ音楽協会」会長賞受賞。

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