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~No. 201ある音楽プロデューサーの軌跡 稲岡邦弥

#25 Ex. デイヴィッド・バーンの新作『Here Lies Love』をめぐって

text by Kenny Inaoka 稲岡邦彌

話は、少々遡る。
先々月、若林恵さんの寄稿によるデイヴィッド・バーンの新作CD『ヒア・ライズ・ラヴ』についてのレヴューが掲載された。
じつに適格で示唆に富んだ内容であった。
じつは、あのCDについては僕自身が紹介させていただこうと予定していた。1月に掲載された緊急座談会「風雲急を告げるジャズCDマーケット」でテーマのひとつに取り上げられた「これからのメディア」に対するバーンからのメッセージが含まれていたからである。CDを何度か試聴し、ポイントもつかんだのだが、なかなか文章をまとめきることができず、あきらめかけていた。ちょっと厄介な仕事が佳境に差し掛かっていて、CD紹介に集中することができない。しかし、放棄するには忍びない。思い余って、コントリビュータの若林恵さんに代役をお願いしてみることにした。若林さんは、僕からバーンの新作の提案を受け、少なからず驚いたようだった。「ちっともジャズじゃないですけど大丈夫ですか?」。若林さんは、AmazonからCDが到着するのを待ってBen Goldbergの新作について書く算段にしていたのだった。そして、「デヴィッドバーンってfatboy slim とやったイメルダ夫人トリビュートですか?それは買いましたのでそっちでもやろうと思えばやれますが」との付記があった。僕自身、ベンの新作にもとても興味があり、すでにAmazonに発注をかけ、CDの到着を心待ちにしている若林さんの心情を踏みにじることはできなかった。「予定通りベンを紹介して下さい。バーンは次回に先延ばして僕が書きます」とメールを返した。2日後に若林さんから届いたメールを見て驚いた。「デイヴィッドバーンの新作、ライナーをちゃんと読んで、買ったままほったらかしてた著書なんぞも読んでみたりしたら面白さがかなりわかってきました。デイヴィッドバーン、やっぱりどうして、才人ですね。まとめてみましたが、かなり長いです」。若林さんは僕が試みようとした「謎」解きを見事に果たし、デイヴィッド・バーンというアーティストの真価にまで迫る文章を2,500字にわたって定着させてくれていた。バーンと発売レーベルNonesuchのCEOボブ・ハーウィッツの関係は、1985年のロバート・ウィルソンの戯曲のための音楽『The Knee Plays』(ECM/Warner)にまで遡る。ハーウィッツがECMのNY レップを辞し、Nonesuchの社長に就任してからバーンを迎え入れたのだが、ハーウィッツはその時点でバーンの真価を見抜いており、バーンがその評価に応える形でこのアルバムを制作したことになる。アナログ時代を生き抜いた男(1952年スコットランド生まれ)が、デジタル時代というまったく新しいパラダイムの中で音楽を音楽としてどのように生かしていくことができるか、バーンなりのひとつの意義ある回答が提出されたのだ。
「緊急座談会」でのディスカッションが頭に残っていた僕は、レヴューの受領を確認する返信の中で、軽率にも「パッケージ・メディアの存続」についてのバーンからのメッセージの発信という意味合いのことを記してしまった。折り返し、若林さんからメールが届いた。少々長いが、全文を以下に掲載する:

いただいたメールにあった「パッケージ・メディアの存続」についてですが、せっかくの機会ですので少し補足できたらと思います。ご指摘の年初の座談会 を読んでの感想を踏まえてのことでもありますので、何かしらの議論の提起にもなろうかと思います。いささか長いですが、お付き合いください。

バーンが、アルバムのライナーで、曲があらかじめ決定されたシークエンスで 展開されることで、個々の曲の意味が深まることの意義をといているのは先のレビュウでも触れたとおりなのですが、このことは、必ずしも「パッケージメディアの存続」について語っているわけではないとぼくは思っています。
バーンは「アルバムの死」という現象をデジタル・ダウンロードに寄せて書いていますが、ここで問題にされているのはアルバムという音楽上の「形式」であって、必ずしも、媒介であるCDのことを言っているわけではなさそうです。
というのも、音楽がデジタル化=CD化され、ボタンひとつの操作で、曲をスキップしたり頭出ししたり、ランダムに再生することが可能になった時点で、すでにバーンの言う「アルバムの死」は顕在化していたわけで、それがインターネットの普及によって最終的に解体に向かったのは事実だとしても、その「要因」ではなかったように思えるからです。
CDという形態によって、かろうじてアルバムという形式が商品として成立していたのは間違いないのですが、リスナーの側では、すでに「商品」はユーザーサイドで組み替え可能な「ネタ」になっていたことは間違いなく、その意味で、パッケージ=自立した作品という図式は、CDの普及と同時にすでに解体がはじまっていたように思います。ですから、パッケージの存続によってアルバムという形式の復権が可能なのかというと、必ずしもそんなことはなかろう、と思えてくるのです。
バーンが実際のところどう思っているかはわからないのですが、アメリカの現状を見る限りにおいて、彼がパッケージ・メディアの存続を目指している、ということはちょっと考えにくいと思います。もちろんパッケージ・メディアへの愛着はあるでしょうけれど、ミュージシャンという立場からすれば、それよりももっと重要なことは、メディアをめぐる状況や環境が変わっても自分の音楽が、きちんとリスナーに届くことなのではないか、とぼくは推測します。
「きちんと届く」ためには、「アルバムという形式」が必要だとバーンは考えているわけですが、バーンのクレバーなところは、それを「メディア」の問題に還元することで解決しようとするのではなく、あくまでも音楽上の形式、すなわち音楽における「話法=ナラティブ」の問題として解決しようとした点に あるのではないでしょうか。
音楽家としての現実的な算段の問題から考えても、誰かがパッケージ・メディアを強力に後押しして、電子メディアでの視聴を駆逐することを待っているよりは、パッケージ・メディアが音楽にもたらした利点や美点をコンテンツそのもののなかに内在化させて、それを来るべき環境のなかでも有効に機能させることに注力するほうが、はるかに建設的でしょうし、実際、そうしたことを考えていかないと食っていけない、というのがリアルな現状認識なのではないでしょうか。
バーンが言うのは、「リスナーにアルバム全部を通して聴いてもらえるよう、 いかにリスナーをincentivise (奨励)するか」ということです。そのために、彼はこのアルバムを物語化したのだ、と語っています。 「古い発想だって? そうかもしれない」と、彼自身、認めてはいます。けれども、問題をメディアや産業構造の問題としてではなく、あくまでも音楽そのものの問題に限定し、そのなかで克服しようとしたところに、ぼくは感銘を受けるわけです。
というのも、もしこの作品が、バーンの目論見通りの効果を発揮するのであれば、リスナーは、CDだろうが、iPodだろうがメディアを問うことなく、アルバムを通して聴いてくれるはずであって、バーンが目指したのは、むしろそういう地点ではなかったかと、思うからです。
これは余談かもしれませんが、この作品には映像とブックレットもついたデラックス・エディションがあって(入手していないのですが)、そもそもがメディアミックスを前提としたプロジェクトとして構想されているようなのです。また、CD発売前には劇場で映像+ライブによる、コンサートも行なわれたといいます。
それらをかんがみて思うのは、このプロジェクトをプレゼンテーションするのに最も効果的なツールは、実は、案外、iPad だったのかもしれない、ということです。バーンは本作を提示するにあたって、旧来のパッケージ・メディアのありようは、不自由だと感じていたと推測することさえ許されるのです。
ぼくが身を置く出版業界においても電子化の衝撃波がついに襲ってきています。
大変なことになりつつあります。
iPad はまだ実際に触ってはいませんが、プレゼン映像などを見る限り、そこでコンテンツに必要とされるのは、この未知のメディアの特性を最大限に活かすことのできる、新しい「ナラティブ」なのだということがなんとなくわかってきました。
従来の2次元の「編集ロジック」をそのままスライドさせて、電子メディアに適応すればいい、ということではまったくなさそうなのです。電子メディアを前提に、いちから新しいコンテンツの「形式」や「話法」をくみ上げていくことが、どうやら必要みたいです。
そうしたなかで、今一度音楽の「ナラティブ」の可能性を再検証しようというバーンの姿勢は、とても興味深いものです。その実験が、今後音楽が新しいメディアに対応していくなかで有益なサンプルを提供することになるのかもしれません。
ぼくは、こうした電子化の流れは、もはや不可避なものだろうと、考えています。もっというと、そのことの善悪を問うことにもはや意味がない段階にまで 来ていると感じています。
あとから振り返って、結果として善し悪しが論じられることになるにせよ、それがかりに「受け手に何を与えられたか」で計られることになるのだとすれば、そこで問われるのは、必ずしもメディア自体の問題だけではないはずで、 コンテンツを作る側、送る側の責任も同時に、問われてこなければならないはずです。インターネットというメディアが音楽作品を分断してしまうようにしか作用しないのは、たしかにメディアそのものが持つ構造的な問題ではありますが、だからといって自動的に「コンテンツ制作サイド」が免罪されるわけにはいかないのではないでしょうか。
音楽家はもとより、レコード会社やそれを下支えしてきたジャーナリスト・批評家を含む送り手が、そこでどんな工夫をしたのか。していくのか。それが、 今後ますます厳しく問われていくことになるはずです。
ECMのオーナー/プロデューサー、アイヒャー氏がこうした状況にどんな見解をもっているか、非常に興味はあります。ECMは確かにパッケージ・メディアを高度に洗練化させた会社です。ですから、今の状況に対して危機感はもっているでしょうけれども、その一方で、さほど危機感をもたなくても大丈夫だと思っているかもしれません。
もちろんCD屋の減少は、由々しき事態で、安閑としていられる状況とはほど遠いとは思いますし、新メディアへの対応も急務でしょう。
けれども、ECMのリスナーが、そもそもインターネットの登場によってめためたに分断させられ壊滅させられた、というようなことが本当に起こっているのかというと、根拠はないのですが、個人的にはちょっと疑問符をつけたくなります。
ぼくの感覚では、もしかりに配信のみで音楽が聴かれる時代が来たとしても、 ECMの作品は、多くの人がやはりアルバム単位で買うにちがいないと思えてしまうのです。
それはきっと、アイヒャーという人が、メディアや商品性、流通上の要請からではなく音楽そのものの要請から、常に「コンテンツ」を制作してきて、かつ、そのことをリスナーにたえず(作品を通して)伝えてきたからだと思います。
その意味で言えば、ECMの作品はメディアが変わろうとも、変わらず流通可能な「パッケージ」であるように思うのです。今後もし、iPad 用のコンテンツが ECMから出てきたら、これは絶対やっぱり「見てみたい」と思ってしまうわけです。想像しただけでわくわくしてしまいますが、そう思わせる力が、「パッケージ」ではなく、「コンテンツ」そのものなかに内在化されているのが(ECMの作品においてはパッケージも「コンテンツ」なんですね)、結局のところECMの強みなのではないでしょうか。
時代状況の変化によって最も打撃を受けているのは、表現する側でも、受け手でもなく、その間に入って仕事をしていた人たちです(自分も含めて)。これは音楽でも出版でもそうです。
打撃を受けて、困った困ったと右往左往しているわけですが、表現する側は、すでに表現したいことがあって、それを求める人がいる以上、中間にいる人たちの生活とは関係なく、新しい環境に適応して、そこで生きていかざるを得ないはずです。
レコード会社が何か新しい手立てを考えてくれるのを待っているゆとりは、表現する側にはないはずですし、聴き手は、そもそも中間業者の行く末なんてどうでもいいわけですから、聴きたいものが手に入るシステムがありさえすれば、 メディアはなんでもいいわけです。気づけば、言葉は悪いですが、レコード会社や出版社といった中間業者が、変わりゆく時代の足をひっぱるばかりの守旧派として居座ってる、という状況になってしまっているのです。
仕事柄会ったりする音楽家は、みんなすでに先のことを考えています。そこでの共通の前提は、従来のパッケージ・メディアのありようは、もはや機能しない、ということです。
大ヒットになったビジネス書『フリー』で最も印象的だったのは、「音楽産業のパッケージビジネスは崩壊した」ということが、あらゆる議論の前提となる「事実」として折にふれて言及されていた点です。アメリカで成立してしまった前提に日本だけが抗うのは、困難な道でしょう。
音楽業界が、今後どんな風に推移していくのか、ぼくにはさっぱりわかりません。でも、さまざまなトライ&エラーのなかから、新しい音楽のありようがきっと出てくるんだろうと、期待をもって見てはいます。
iPhone やiPod ももたず、いまだにCDを月に20枚も買っているぼくのような守旧派にしてみれば、時代の変わり目っていうのはこういうものなのか、と、 恐れを感じるばかりの日々ですが、それでも面白いことの萌芽は、すでにあちこちに芽生えはじめていて、そういうものに接するたびにわくわくしますし、興奮もします。
バーンのような人が考えることや作品は、ぼくにとっては、そうした「わくわく」の対象です。バーンの最新作は、商品としての形式は旧来のものですが、 もしかしたら新しい何かの萌芽を秘めているのかもしれません。ぼくが期待したいのは、そこなのです。「アルバム」という形式の採用を「パッケージ・メディアの存続」との関連で見てしまうのは、アメリカの音楽業界の現状と、 バーンという人のセンスを鑑みるとぼくにはやや物足りません。
リアルな現状認識に基づくポジティブなトライアルをぼくはそこに読み取りたいのですが、それが、単なるデイヴィッド・バーン好きの贔屓目にすぎない、ということはもちろんありうることです。
難しい時代です。
色んなことを日々考えさせられます。
スリリングですが、だからこそ面白いんだ、と、前向きに思っていたいのです。
長くなりました。(若林 恵)


*初出:JazzTokyo #142   (2010.7.28)

稲岡邦彌

稲岡邦彌 Kenny Inaoka 兵庫県伊丹市生まれ。1967年早大政経卒。2004年創刊以来Jazz Tokyo編集長。音楽プロデューサーとして「Nadja 21」レーベル主宰。著書に『新版 ECMの真実』(カンパニー社)、編著に『増補改訂版 ECM catalog』(東京キララ社)『及川公生のサウンド・レシピ』(ユニコム)、共著に『ジャズCDの名盤』(文春新書)。2021年度「日本ジャズ音楽協会」会長賞受賞。

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