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ある音楽プロデューサーの軌跡 稲岡邦弥No. 286

ある音楽プロデューサーの軌跡 # 55 「エムトゥーメとバダル・ロイの死」

text by Kenny Inaoka 稲岡邦彌

マイルス・バンドOBのふたりのパーカッショニストの死が相次いで報じられた。コンガのエムトゥーメとタブラのバダル・ロイである。ふたりとはちょっとした関わりがあったのでメモを残しておきたい。

ジェームス・エムトゥーメ (James Mtume) の死は、(2022年)1月9日で死因はガン。享年76。それから10日も経たない18日のバダルの死の知らせが届いた。アメリカの多くのメディアが享年82と報じているが、正しくは1945年生まれの76で、1946年生まれのエムトゥーメよりひとつ年上。マイルス・ディヴィスのバンドの在籍の履歴は、エムトゥーメが1971年から1975年、バダルは1972年から1974年とほぼ同じ時期だが、出入りがあるので常にふたりが同時に演奏していたということではない。アルバムでは、『オン・ザ・コーナー』(1972)、『イン・コンサート』(1973)、『ゲット・アップ・ウィズ・イット』(1974)、『ビッグ・ファン』(1974)の4作にふたりの共演テイクが収録されている。ふたりが叩き出すアフリカ系のリズムとインド系のリズム、加えてドラムのビートが相まってポリリズムを構成していたのだが、ふたりのインタヴュー読むとマイルスからの細かい指示はなく、ただ自分のグルーヴに乗って叩けということだったようで、彼は自然発生的な化学反応を期待していたようだ。須藤伸義の別稿にあるように両者の楽器の構造と奏法による音量の差は如何ともしがたくバダルにとっては必ずしも万全ではなかったのかもしれない。しかし、いずれにしてもふたりがマイルスとの共演で一気に知名度を上げたことは間違いない。

エムトゥーメは、1946年サウス・フィラデルフィアの生まれ。父親はジャズ界では著名なヒース3兄弟(ジミー・ヒースts、パーシー・ヒースb、アルバート“トゥーティ”ヒースds)の長兄ジミー・ヒースだが、同郷のピアニストでチャーリー・パーカーとも共演していたジェームス・フォーマンの養子に出され、James Formanを名乗っていた。60年代中期に西海岸に移り黒人運動に参加、メッセンジャーを意味するスワヒリ語 Mtumeに改名。この辺りの情報については別項のオスカー・デリック・ブラウンの追悼エッセイに詳しい。

僕が初めてエムトゥーメの名を知ったのは、1973年に契約したレーベルStrata-East(ストラータ・イースト)を経由してであった。レーベルの主宰者チャールズ・トリヴァーからMtumeの2枚組アルバム『ALKEBU-LAN』(Strata-East SES-1972-4) を受け取った時、その装いとサブ・タイトル「Land of the Blacks」がすべてを語っているように思えた。エムトゥーメ率いるUmoja Ensembleのブルックリンのクラブ The Eastのライヴ録音で、ビリー・ハートとレオン・チャンクラー、エムトゥーメの叩き出すリズムを縫ってカルロス・ガーネットとゲイリー・バーツのサックスが舞い、ジョー・リー・ウィルソンら3人のヴォーカリストと2人の詩人が言葉を吐き出す。スタンリー・カウエルのピアノやリロイ・ジェンキンスのヴァイオリンも効果的で、ファーアウトからカオスになだれ込む場面もあるものの全体的には組曲風な作りで、楽曲と制作を担ったエムトゥーメの力量が充分計り知られる内容と思われた。全体を貫く背景は強烈なブラックとしてのアイデンティティの発露で、おそらくエムトゥーメが西海岸で参加していた黒人運動の思想を音楽で表現した楽劇だろう。

後にR&Bに転身しグラミーを獲ったり(ステファニー・ミルズ)、hip-hopのサンプリングで大成功した(Juicy Fruit) エムトゥーメの青年時代にしか作り得なかった骨のある作品だ。数年前にRed-bullのイベントで講師として来日した機会を捉えてCD化の話を持ちかけたが、条件面で折り合わず諦めざるを得なかった。LP4面に及ぶブラック・スピリッツ横溢の組曲をCDで通して聴きたかったのだが...。

一方のバダル・ロイ(旧トリオ・レコード時代に表記していた“バーダル”は誤り。バダルもしくはバダールがアメリカでの発音に近い)は、1945年、東パキスタン(現バングラデシュ)の生まれ。近刊の小川隆夫著『マイルス・デイヴィス大事典』に“NY州NY市生まれ、とあるのは誤り)。1968年に統計学の博士課程修得のためNYに移住、学費稼ぎのためインド・レストランでタブラを叩いていたところ、客として訪れたジョン・マクラフリンに見染められ、1970年録音のアルバム『My Goal’s Beyond』に起用された。マイルスとの共演を経ながら、同じくマイルスOBのデイヴ・リーブマンのECMアルバム『Lookout Farm』(ECM1039, 1973)、『Drum Ode』(ECM1046,1974)に参加。なお、リーブマンは1946年生まれでバダルと同世代、マイルス・バンド在籍は1970年から1974年、マイルス・バンドでの共演は『オン・ザ・コーナー』に収録されている。リーブマンはマイルス・バンドを退団後、リッチー・バイラーク(p)との双頭バンド「ルックアウト・ファーム」の活動を本格化、1975年にバダルの故郷バングラデシュを経て来日した機会を捉えて録音したのがバダルをリーダーとするアルバム『Ashirbad(アシルバッド)』(Trio,1975)だった。バダルのタブラをフィーチャーしたアルバムを作りたかったので、本曲(タブラのための古典楽曲)やバングラデシュのフォークソングなどを含めてレパートリーとしたが、スイング・ジャーナル誌のレヴューで油井正一氏から「これはジャズではない!」と切って捨てられた。ミュージシャン共々精魂込めて作ったアルバムなので児山紀芳編集長に「もう少し扱い方があるのではないか」とねじ込んだが電話では埒が開かず、「対面で話したい」とタクシーに飛び乗り社に乗り込んだものの、「編集長はたった今、出かけました」と受付嬢の言葉が虚しく耳に響くだけだった。若気の至りではあったが、当時は編集長との激論も辞さない自負を持って仕事に取り組んでいたことを思い出す。
1988年、オーネット・コールマンのバンド PrimeTimeに参加、1995年録音のアルバム『Tone Dialing』(Verve, 1995) に演奏を遺す。
バダルは物静かですべてに真摯な態度が印象に残っている。彼の性格を伝えるNPRに掲載されたインタヴューを引用してみよう。「彼(マイルス)に “何を演奏するんだい”と聞いたら“とにかくグルーヴだ” というんだ。ハービー(ハンコック)、ジャック(ディジョネット)、カルロス(ガーネット)が入ってきたら、もうカオスさ。俺は何を演ってるんだろう、と自問しながら演奏してた。マイルスに ‘bad’ と言われた時は ‘ゴキゲンだったぜ’ と分からず、クビだと言われたと思った」。「マイルスに ‘演れ!’ と言われて彼がそのグルーヴを気に入ったら‘続けるんだ、変えるな’ と言う。自分は30秒も経つと変えたくなるんだけどね。オーネットはいつも‘変えろ!’ という。まったく逆さ。だけど、二人とも演ってて面白かったね」。
録音の現場ではバダルのタブラのナマ音に惹きつけられて..。日本の湿度はとくに打楽器には禁物なので心配したが、「なじんでとてもいいよ」ということで胸を撫で下ろした。

 

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稲岡邦彌

稲岡邦彌 Kenny Inaoka 兵庫県伊丹市生まれ。1967年早大政経卒。2004年創刊以来Jazz Tokyo編集長。音楽プロデューサーとして「Nadja 21」レーベル主宰。著書に『新版 ECMの真実』(カンパニー社)、編著に『増補改訂版 ECM catalog』(東京キララ社)『及川公生のサウンド・レシピ』(ユニコム)、共著に『ジャズCDの名盤』(文春新書)。2021年度「日本ジャズ音楽協会」会長賞受賞。

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