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Jazz à la Mode 竹村洋子No. 326

ジャズ・ア・ラ・モード #73.ステファン・グラッペリと『ピーコック革命』

73. Stéphane Grappelli and the peacock revolution

Text and illustration (Stéphane Grappelli) by Yoko Takemura 竹村洋子
Photos: “A Life in the JazzCentury-Stéphane Grappelli”, Pinterest, Getty imagesより引用

ステファン・グラッペリ(Stefano Grappelli、1908年~ 1997年)。この偉大なジャズ・ヴァイオリンのマエストロについて今まで触れなかったことを反省しつつ今回のコラムを書いている。グラッペリはピアニストでもあった。

ステファン・グラッペリは1908年、イタリア系の哲学者の父とフランス系の母を両親に持つ貧しい家庭に生まれた。母はステファンが4歳の時に他界。父は妻を亡くした後、ステファンの世話を見る誰かを探した。そこで、当時すでに活躍していたバレエダンサー、イサドラ・ダンカンのダンススクールに6歳のステファン少年を放り込んでしまう。そこは感性豊かなステファン少年にとり、とても居心地が良かったようで、多くのダンサー達とも馴染み芸術家らとも親しくなる。
父はステファンが13歳の時にヴァイオリンを買い与える。ステファンは当時のパリのモンマルトルの素晴らしい芸術環境の中で独学でヴァイオリンを学び、ストリートで弾いてお金を儲けることを覚える。ストリート・チルドレンだったステファン少年はモンマルトル界隈の皆に親切にされ愛されていたようだ。
ある日、モンマルトルでイタリア人のギタリストでシンガーに声をかけられた。ステファンはレストランに連れて行かれ、そこで弾くことを始めた。

このようにして、ステファン少年(以下グラッペリ)は1923年、15歳の時にユニオンに加盟しプロとして活動を始めた。
主としてサイレント映画の伴奏をヴァイオリンとピアノで演奏していた。映画からも多くの音楽を学んだようだ。サイレント映画の伴奏をしていた時に、隣の部屋にあったジュークボックスにコインを入れ、間違ってボタンを押してしまい<ティー・フォー・トゥー>をかけるつもりが、今まで聴いたこともなかったアメリカのミッチェル&ヒズ・バンドの演奏するニューオリンズ・ジャズの<スタンブリング>がかかってしまい、大いに驚く。この事がステファンの人生を大きく変えたと自ら言っている。

時代は『ベル・エポック』と呼ばれたフランス文化が美しく花開き繁栄した頃だ。ピカソ、ブラック、マン・レイ、ロートレック、ドビュッシーなど多くのアーティスト達が活躍していた。特に、ピカソをはじめとしたアーティスト達はエキゾティックなアフリカ文化に影響を受け、アメリカから来たジョセフィン・ベイカー主演の『レビュー・ニグロ』(#70,ジョセフィン・ベイカーの『バナナスカート』参照)も大盛況で、シドニー・べシェをはじめ、多くの黒人ミュージシャン達が自由なパリに残った。

グラッペリは1928年にフランスのオーケストラにユニオンのアンバサダーとして参加する。そこで、アメリカから来たオスカー・レヴァント(Oscar Levant, 1906-1972, p)、ジョー・ヴェヌーティ(Giuseppe “Joe” Venuti, 1903~1973, イタリア生まれ, vl.)、ポール・ホワイトマン・オーケストラなどの前座を務めたり、彼らの演奏を聴いたりしていた。

その後、いくつかのグループやオーケストラで活動し1920年代後半に、ピアノ、3人のヴァイオリン、サックス、ドラムなど、全16人編成のバンドで活動し注目を浴びるようになる。

1929年、ジャズ・ギタリストのジャンゴ・ラインハルト(1910~1953)と出会い、一緒に音楽活動を始める。フランスにはジャズ評論家の先達となるユーグ・パナシェやシャルル・ドゥローネ他らが1931年に設立したジャズ愛好家団体『フランス・ホット・クラブ』があった。パナシェとドゥローネがラインハルト兄弟、グラッペリらを見い出し、1934年に新たに『フランス・ホット・クラブ五重奏団』というジプシー・ジャズ・スタイルを演奏するバンドを作った。このバンドは大人気を博し、特にイギリスで大成功を収めた。
この時ラインハルトはイギリスのプロモーターに車を買ってくれるように頼み込み、その車でどこかへ行ってしまう。残されたグラッペリはその後、イギリスのミュージシャン達と活動を始めた。そこにはピアニストのジョージ・シアリングもおり、一緒にツアーも行っている。
1939年に第二次世界大戦が勃発した時にホット・クラブ楽団はイギリス慰問公演中だった。結局、ラインハルトはほとんど英語が話せなかったためフランスに戻り、グラッペリはイギリスに残り、その後長きに亘ってイギリスで活動を行う。
1946年に二人は再び合流し、メンバーの入れ替えはあったものの、1948年までフランス・ホット・クラブ五重奏団は続いた。
余談だが、グラッペリの生まれたパリのラリボワジエール病院で、ラインハルトは彼の家族の率いるジプシー・キャラバンの幌馬車が火事で手に大火傷を負った治療を受けている。何か2人の縁を感じる。

ラインハルトは1953年に心臓発作で亡くなった。
時代も変わり、ジャズもスウィングから、バップが台頭し、1960年代にはフリー・ジャズやアヴァンギャルド・ジャズも台頭し、音楽シーンも大きく変化し始めた。しかし、グラッペリは何も変わることなく、昔と同じように『ホット・クラブ・スタイル』のジャズを演奏し続けた。グラッペリの音楽はラインハルトと一緒にやっていたこともあり、『マヌーシュ・ジャズ』と言われることもあるようだが、もっと洗練された音だ。
1960年代にはジャズ・ヴァイオリンへの関心が高まった。特にアルバム『ヴァイオリン・サマー』(1966年)の成功によりグラッペリの人気はさらに高まった。
グラッペリは、ヒルトン・パリで演奏していた時、デューク・エリントンに出会い、その後、『デューク・エリントン・ジャズ・ヴァイオリン・セッション』を1963年に録音。

その後、イギリスに戻り、ジャズクラブ『ロニー・スコッツ』ではテディ・ウィルソンと共演。オーナーのロニー・スコットはグラッペリをかなり気に入っており、彼のクラブはグラッペリの大切な演奏拠点だったようで、グラッペリはロニー・スコット・トリオとして、定期的に演奏していた。

1960年代以降の活動はアメリカ、ヨーロッパを中心に、ゲイリー・バートン、ローランド・ハナ、バッキー・ピザレリ、ジョージ・シアリング、ニールス・ペデルセン、ミッシェル・ルグラン、スラム・スチュアート、ラリー・コリエル、ヨー・ヨー・マなど多くのミュージシャン達と共演、数多くのアルバムを作成している。ギターもラインハルト亡きあと、ディズ・ディズレー、ルイス・スチュワート、マーティン・テイラーなど多くのプレイヤーと一緒に演奏した。
初めてアメリカに行ったのは1969年、ニューポート・ジャズ・フェスティヴァルに参加するも、そこではあまり楽しめなかったようだ。
1970年以降も、オーストラリア、中国、香港、シンガポール、日本、マレーシア、などアジアの国々からヨーロッパ、アメリカと世界中を精力的に演奏して回った。

1975年、ロンドンのBBCの企画で、アメリカのクラシックのヴァイオリン奏者、指揮者でもあったユーディ・メニューイン(Yehudi Menuhin, Baron Menuhin、1916~1999)との共演を実現させ、大きな話題となる。メニューインは「人生の中であんなにナーヴァスになったことはない。ジャズなんてインプロヴィゼーションも何も知らなかったのだから。」とインタビューで答えていたが、二人の演奏は息が合い、パーフェクトだった。その後何枚かアルバムも出し、グラッペリはメニューイン音楽学校で時々教えたりした。

1979年、フランスから、レジオンドヌール勲章を受賞。
1971年、1984年とエリザベス女王陛下の御前演奏(ロイヤル・バラエティ・パフォーマンス)を行なう。

映画音楽も手がけ、『5月のミル(Milou En Mai)1989』や『バルスーズ(Les Valseuses)1973』も担当した。『5月のミル』はルイ・マル監督による映画で、5月革命の中ブルジョワ家族がパリ郊外の家で繰り広げるストーリー。グラッペリの音楽がとても良くマッチした、決して派手ではないが心穏やかにしてくれる筆者のお気に入り、お勧めの映画でもある。

生前、グラッペリは、「史上最初のジャズ・ヴァイオリン奏者として有名なジョー・ヴェヌーティに大きな影響を受けた。」と言っているが、ジョー・ヴェヌーティとエディ・サウス(Edward Otha South, 1904~1962、アメリカ人)とステファン・グラッペリの3人は、ジャズ・ヴァイオリンのパイオニアだった。
1997年12月1日、フランス、パリで死去。享年89。
グラッペリは生前「私はフィドラー・プレイヤーだった。」と言っていた。

さて、ここからがグラッペリのファッションについてのお話。
近代、主として16世紀以降の一般の男性の服装は極めて地味だった。欧米では男性のスーツの原型となるフロックコートの登場が、イギリスで1778年。1800年代の前半には現在の背広が出来上がっている。大体において、色はグレーか紺、夏ならばポーラー(織りの甘い通気性の良い生地)、秋冬ならフラノといった素材で作られ、特にグレイのスーツは現在に至っても成功したビジネスマンの証として認識されている。季節に関係なく、ファッショナブルな男性を惹きつけてやまない魅力がある。
日本においても江戸時代の奢侈禁止令が出された頃には、平民の着る着物は灰色、茶、藍色に限定され、裕福な商人階級の男性達が逆に『百鼠』と呼ばれた様々なグレイのバリエーションで反物を作ることで、反体制的な“粋”を謳歌したという歴史がある。
近代の日本の男性の『ドブネズミ・ルック』と呼ばれたグレイスーツ・ルックは、身だしなみに気を使うことない無粋な男性達の代名詞とも言えるだろう。最近はだいぶ少なくはなってきたが。
このように、男性の装いは、長い間ダークトーン、モノトーンのみに限定されていた。

メンズファッションに於いて色彩が導入されたのは、近代のファッションの歴史の中でも最近の出来事なのだ。そしてその年代もはっきりしており、『ピーコック革命』と呼ばれた。

第二次世界戦後、質素倹約の生活が終わり、1950年代にはファッションは急激にカジュアル化が進んだ。1960年代後半から1970年代にかけてメンズファッションは急速にカラフルになっていった。
イギリスのサヴィル・ロウでは相変わらず正統派のテーラード・スーツを作り続けていた。ロンドンのカーナビー・ストリート(ロンドンのウエストエンドにある通りの名)のキングと呼ばれたジョン・スティーヴンは画期的な初店舗をオープンさせるやいなや、ロンドン中に店舗を拡大していった。そこでは、コーデュロイ、サテン、ベルベットといった斬新な素材のカラフルなスーツや裾広がりのベルボトムパンツが品揃えされ、花柄のシャツ、カラフルなネクタイ、畝織りのビートルキャップがロンドンのストリート・ファッションの必須アイテムになった。そのロンドンスタイルがやがてポップ、ロック・ミュージシャン達やモデル、デザイナー達を介してアメリカに渡っていき、アメリカの既制服メーカーが量産するようになる。

アメリカでは1967年に、アメリカの化繊メーカーのデュポン社がカラフルな合成繊維を売り出した。デュポン社は、プロモーションに心理学者のアーネスト・ディヒターを起用し、『孔雀(ピーコック)のように生物は雌よりも雄の方がカラフルな外観を持っている。性的なアピールを高めることで、遺伝上の競争に勝つ、という戦略的進化の結果だ。同じように男性も華やかな色を見に纏うことで、より魅力的になれるのだ。』とマーケティングに心理的手法を用いてメンズファッションに革命をもたらした。この年を境にして、それまでホワイト一辺倒だった男性のカッターシャツ(Yシャツ)もカラーシャツに変わり始めた。
こんなところがピーコック革命の始まりと言える。

グラッッペリのファッションを見てみると、初期は1920~30年代のほとんどのミュージシャン達がほとんどそうであった様にスーツ、タキシード姿である。
この頃のグラッペリは非常に端正な顔立ちで、何を着ても他のミュージシャン達とは別格の品格と美しさがある。
1953年にラインハルトが亡くなった頃から着るものが急にカジュアルになっている。ジャケットを脱ぎ、シンプルなセーターやカジュアル単品を着ていることが多くなった。これは、1950年代のファッションのカジュアル化に加え、ラインハルトの死により何かグラッペリの心にも変化があったことが偶然重なったのかもかもしれない、というのは筆者の深読みが過ぎるだろうか?

1960年代後半からはグラッペリのファッションはさらに大きく変わり、スーツは特別な場面でない限り着用せず、”花柄のシャツとパンツ”というスタイルを貫いている。ちょうどピーコック革命で、花柄のシャツが世の中に出回り始めた頃だ。ロンドン住まいが長かったことも影響しているだろう。ヒップなグラッペリはストリートの若者達のファッションを見ていたかもしれない。当時、男性のシャツの着方は、シャツをパンツの中に入れてベルトをするというのが主流だった。グラッペリはシャツをパンツの上に出して、オーバーシャツという着方をしている。これは当時、新しいスタイルのカジュアルなシャツの着方だった。1970年代頃のシャツはタイトフィットしたシルエットがトレンドだったので、アロハシャツの様にダボっとリラックスして着るのとは違う。あくまで綺麗に着ているのだ。その後、グラッペリは生涯を通して、花柄プリントのシャツを愛用していた。たまに幾何柄、抽象柄やチェックを、また無地では赤、ワインレッドが多かった。

グラッペリの着ているプリントシャツは、全部ではないが、おそらくイギリスのロンドンにある1874年創業のリバティ社(Liberty)が手がけたテキスタイル・ブランドの生地、『リバティ・プリント』を使ったものと推測する。全面に細かい花柄やペーズリーをびっしり配したデザインが特徴。タナローンと呼ばれる生地のプリントもある。非常に細い番手で織られたシルクのような手触りの上質なコットン素材だ。
フランスには『エキプモン(EQUIPMENT)』という1976年創業のシャツ・ブランドがある。そこのシャツも着ていたのではないだろうか。シルク素材中心の上質のカジュアルシャツで、遊び心あるプリントが使われている。

グラッペリは、コンサートの共演者がスーツ姿、ブラックタイ着用であろうとも、女王陛下の御前演奏の時ですら、花柄のプリントシャツで演奏した。何と素晴らしいファッション・ポリシーの持ち主!そして、シャツのプリントは最初の頃は色合いがソフトだったが、年齢を重ねていくうちにどんどん派手で鮮やかな色のものになっていく。
常に笑みを絶やさず、優雅にスウィングするマエストロ・グラッペリ。花柄のプリントシャツが優しくも激しい、尽きることのない音楽への情熱を表しているような気がする。

You-tubeリンクは1本目が1938年録音。ジャンゴライン・ハルトとの<ジャッテンドライ・スウィング: J’attendrai Swing>

2本目が1982年のライブ・イン・サンフランシスコ<アイ・ゴット・ア・リズム:I Got A Rhysm >

3本目がユーディー・メニューインとの共演で<ジェラシー:Jalousie>

4本目が1988年、ポルトガル、リスボンでのコンサートでピアノを弾くグラッペリ。白地に赤の花柄のシャツ。その上に真紅のカーディガンを羽織っている。

*参考資料
・“A Life in the JazzCentury-Stéphane Grappelli,Music on Earth Production Ltd. 2002
・The New Grove Dictionary of Jazz
・One Hundred Year of Men’s wear: Cally Backman、.2010年
・英国流おしゃれ作法:林勝太郎:平凡社、1996年

竹村洋子

竹村 洋子 Yoko Takemura 桑沢デザイン専修学校卒業後、ファッション・マーケティングの仕事に携わる。1996年より、NY、シカゴ、デトロイト、カンザス・シティを中心にアメリカのローカル・ジャズミュージシャン達と交流を深め、現在に至る。主として ミュージシャン間のコーディネーション、プロモーションを行う。Kansas City Jazz Ambassador 会員。KAWADE夢ムック『チャーリー・パーカー~モダン・ジャズの創造主』(2014)に寄稿。Kansas City Jazz Ambassador 誌『JAM』に2016年から不定期に寄稿。

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