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Jazz à la Mode 竹村洋子No. 237

ジャズ・ア・ラ・モード #6. マイルス・デイヴィスから始まったジャズ・ミュージシャン達のアイビー・ルック

6. マイルス・デイヴィスから始まったジャズ・ミュージシャン達のアイビー・ルック

Miles Davis, Ivy League Look & Jazz musicians: text by YokoTakemura 竹村洋子
photos: printestより引用

『アイビー・ルック』というと、20世紀に最も流行ったファッション・スタイルの一つである。誰がファッション・アイコンだったか、という事にはいくつかの説がある。アンソニー・パーキンス(コロンビア大卒)を初めとするハリウッドの男優達、ジョン F.ケネディ元大統領(ハーヴァード大卒)、そしてマイルス・デイヴィスを中心としたジャズ・ミュージシャン達だ。ジャズ関係者ならほとんどの人が、マイルス・デイヴィスが『アイビー・ルックのファッション・アイコン』という事に異議を唱えないだろう。
アイビー・ルックもマイルス・デイヴィスもあまりに皆に知られているため、かなり難しいテーマになってしまった。

今回は、アイビー・ルックについて。そして、何故マイルス・デイヴィスが、何故彼を中心とするジャズ・ミュージシャンにまでアイビー・ルックが広がったかについて探ってみた。

日本では『アイビー・ルック』と言われているが、アメリカでは『アイビー・リーグ・ルック(Ivy League Look)』という言い方が一般的である。
歴史は長く、1900年初頭から1930年代にかけ最初の流行があった。イギリス紳士のワードローブをアメリカの『ブルックス・ブラザース』と『 J.プレス』といったアパレル小売業社がアメリカ東海岸のエリート大学生用にデザインし直したのが始まりだ。
第2次大戦後から1960年代までが第2次ブーム。そして1980年代にリヴァイバルした。

第2次ブームは、戦後世の中が少し落ち着いてきた頃になる。1954年にハーヴァード、イェール、プリンストン、コロンビア、ペンシルバニア、ブラウン、ダートマス、コーネル大学の8校によって、フットボール連盟が結成された。それぞれの大学の校舎に茂る蔦(アイビー)がシンボルとなり、アイビー・リーグと名付けられた。それらの大学生達、アイビー・リーガー達が好んできていた服装のスタイルを、1955年に国際衣装デザイナー協会が『アイビー・ルック』と名付けた。その後、アイビー・ルックは大学のキャンパスを越え、若者達の間に流行した。アメリカでの流行からほんの数年遅れて1960年代に日本でも大流行した。このコラムの読者の多くの方は実体験されていると思う。

アイビー・ルックの基本アイテムには、ナチュラルショルダーの3つボタンジャケット、ボタンダウンシャツ(ブルックス・ブラザースの考案)、細身でちょっと丈の短めのコットンパンツ、チルデンセーター(Vネックの首回り、袖口、裾に太めのラインの入ったセーター、ペンシルベニア大卒のテニスプレイヤー、ウィリアム・チルデンが着ていたことに由来)、アーガイルセーター、大学の大きなロゴがついたニットアイテム、マドラスチェックのジャケットやシャツ、シアーサッカーのジャケット、ポロシャツ、ナローなレジメンタルストライプやペイズリーなどのネクタイ、ニットタイ、コインやタッセルの付いたローファーシューズなどがある。
これらのアイテムは、21世紀の現在でも幅広い年代の人たちに支持され、進化し続けており、J.プレスやブルックス・ブラザース以外にもラルフ・ローレン、J.マクローリン、トミー・ヒルフィガーなどのブランドで展開されている。
だが、何と言っても戦後から1960年代にかけての第2次ブームはそのピークを極めたといっても過言ではないだろう。

マイルス・デイヴィス(Miles Dewey Davis III, 1926年5月26日 – 1991年9月28日)は父は歯科医、母は音楽の教師という裕福な環境で生まれ育った。彼は高校在学中の15歳の時にユニオン・カードを手に入れて、セントルイスのクラブに出演するようになる。その後ニューヨークに出てジュリアード音楽院 に入学、中退。チャーリー・パーカーに出会い、1年間同じ部屋で暮らしながら演奏を共にする。 パーカーやディジー・ガレスピーの元でのビバップからキャリアは始まったが、マイルスは新たな自分自身の音楽の可能性を求めていった。1948年に 編曲家のギル・エヴァンス やジェリー・マリガンらと出会う。ギルの協力を得て、後にウェスト・コースト・ジャズの興盛に多大な影響を与えた『クールの誕生( Birth of The Cool ) 1949~50 録音、1957年アルバムリリース』を制作した。

アメリカでのアイビー・ルックの流行は、丁度マイルスの『クールの誕生』の時期と重なる。

 

マイルス・デイヴィスは1954年頃、マサチューセッツ州、ケンブリッジの小さな洋品店『アンドーバー・ショップ(Andover Shop)』にジャズ・プロモーターのチャールズ・ブルジョア氏と一緒に足を運んだ。(このショップは現存する)ケンブリッジのその店は、一人の男を大きく変えた。

マイルスは、アンドーバー・ショップで、ナチュラルショルダーで細い襟のツィードとマドラスチェックのジャケット、チノとフランネルのパンツ、ボタンダウンシャツ、ニットとレジメンタルストライプのタイを買い込んだ。
マイルスの伝記の著者ジョン・スウェッド氏は「とても洗練されて格好良かった(クールだった)。」と。当時、店のオーナーだったチャーリー・デヴィッドソン氏は「マイルスは本物のアイビー・リーグ・ルックが好きだった。そしてそれはとてもヒップな装いだった。」と言っている。そのクリーンで控えめな表現のアイビー・ルックはジャズのパイオニア達の新しい冒険的な音楽をより一層強調させたかのようにも見えた。
チャーリー・デヴィッドソンはすぐにスタン・ゲッツ、ジェリー・マリガン、ポール・デスモンド、J.J.ジョンソン、モダン・ジャズ・カルテットなどの当時、若く前途輝けるミュージシャン達にもアイビー・ルックを提供した。

1955年7月17日。ニューポート・ジャズ・フェスティバルの夜。マイルス・デイヴィスは誰もが予想しなかった姿でステージに登場した。ストライプのシアサッカーのジャケット、丸いクラブカラーのシャツ、そしてペイズリーの蝶ネクタイ姿でステージに現れた。
一緒にステージで演奏したのは、ズート・シムズ(ts)、ジェリー・マリガン(bs)、セロニアス・モンク(p)、パーシー・ヒース(b)、コニー・ケイ(ds)。
マイルスは、セクステットで<Hackensack>からソロで<Round Midnight >を感情たっぷりに演奏した。マイルスのソロは明快で簡潔であり、それは後に多く見られる彼の演奏スタイルの表れだった。その後、チャーリー・パーカーと最初にレコーディングした<Now ‘s the Time>と続く。観客はマイルスの演奏に完璧に魅了され、スタンディング・オベーションでマイルス・デイヴィス・オールスターズを讃えた。後にマイルスは、この時の演奏の事を「自分がいつも演っている様に、演っただけさ。」と語っているが、ニューポートでのマイルスのパフォーマンスは明らかに彼の大きなターニングポイントだった。

1958年には同じジャケットにボタンダウンのシャツと黒のナロータイをコーディネートしてニューポート・ジャズ・フェスティバルに登場している。

スイングバンド全盛の時代にはタキシード・スタイルがあり、ビーバップが全盛だった頃はダブルブレストのストライプスーツと幅の広いカラフルなネクタイがあり、ベレー帽とバップ眼鏡のディジー・ガレスピーがそのファッション・アイコンでもあった。

1950年代に入って生まれた新しいサウンドはそれまでのビーバップとは違い、よりソフトで、よりクリーンで、より心地よく、より落ち着いた『クール』な音楽だった。その音楽を表現するミュージシャン達は、新しい表情のスタイルを必要としていた。
アイビー・リーグ・ルックはまさにその新しいジャズに完璧にフィットしたスタイルだったのだ。
19歳の若さ溢れるマイルス・デイヴィスは1955年にニューポート・ジャズ・フェススティバルのステージに上がった途端『世界中で最もクールな男(the coolest man in the world)』になった、とアメリカの著名なジャズライターのブルース・ボイヤー氏は語っている。

最初にマイルスをアンドーバー・ショップに連れて行ったのはジャズ・プロモーターのチャールズ・ブルジョア氏だった。彼は「マイルスはとても格好良かった。タキシードやミリタリーのユニフォームの次にはアイビー・ルック以外に男性の見栄えを良くするものは何もない。」と言っている。1954年、チェット・ベイカー(Chesney Henry Baker Jr.、1929年12月23日 – 1988年5月13日)はボストンのジャズクラブ、『ストーリーヴィル』に出演するためにカリフォルニアからやってきた時、巨大な肩パッドの入ったヨレヨレのジャケットを着ていた。ブルジョア氏はマイルスにしてやったようにチェット・ベイカーをアンドーバー・ショップに連れて行った。その後、チェット・ベイカーは1958年にアルバム『Chet Baker』を発表した。そのアルバム・カバーにはネイビーのジャケット、白のボタンダウンシャツ、ゴールドのレジメンタルタイを身につけたクールなチェット・ベイカーがいる。

もう一人、アンドーヴァー・ショップの顧客に有名なジャズ・ミュージシャンがいる。現在も活躍中のボストン育ちのロイ・ヘインズだ(Roy Haynes,1925年3月13日〜)。彼はナチュラルショルダー、ボタンダウンシャツ、レップタイ(ブルックス・ブラザースが発案した逆『ノの字』のストライプタイ)といったファッションの人達を見慣れていた。当時、アイビー・ルックは若者達に人気があり、ジャズイベントでハーバード大学の学生達を見ることは稀なことではなかったようだ。

マイルス・デイヴィスは当時、知的で教養のある白人のジャズファン達、マイルスのファンでもある若者達がアイビー・ルックを身につけ始めた事に、大きくインスパイアされたのではないだろうか?彼が彼の音楽を変えようとしていた事と同様に、彼のファッションも変えようとし、何か新しいものはないかと必死に探していたに違いない。
マイルスは若い頃から生涯に亘り、音楽だけでなく、自分の装いに関してもとてもお洒落でマイルス自身がファッションの歴史と言える程、新しい事、流行に敏感な人だった。マイルスは1940年代後半に質屋で中古のブルックス・ブラザーズの服を買った、と言う記述もある。既にその頃から、アイビー・ルックに目をつけており、質屋で買うほどにアイビー・ルックにこだわっていたとは、驚くばかりである。決して背が高くない自分に何が似合うかもよく知っていたようだ。

 

マイルスがあまりに格好良く(クールに)自己自身を表現した事に、多くのジャズ・ミュージシャン達が追随していったのかもしれない。
1950年代の多くのジャズ・ミュージシャン達、チェット・ベイカー、スタン・ゲッツ、ジェリー・マリガン、ポール・デスモンド、J.J.ジョンソン、モダン・ジャズ・カルテットの面々、ロイ・ヘインズの他にも、リー・モーガン、アート・ブレイキー、ホレス・シルヴァー、マックス・ローチ、ケニー・ドーハム、ジミー・スミスやジョン・コルトレーン、チャーリー・ミンガスでさえもアイビー・ルックに身を包んでいた。ただアイビー・ルックの広がりと共に彼らの姿を見ると、本家本元のアイビーリーガー達の様にぴっちりとお行儀よく着こなすのではなく、ジャケットの3つボタンを2つがけにしたり、シャツの襟元を崩したり、ジャズミュージシャンなりにちょっと崩し、さらにカジュアルな着こなしに変化させていっている。そこが既成概念にとらわれないジャズ・ミュージシャンたちのちょっとした抵抗だろうか?
そんなミュージシャン達の姿はブルーノート・レーベルのアルバム・カバーに山程見ることができる。『アイビー・ルック』が如何にクールで流行ったか、敢えて言う必要もないだろう。

*参考文献
・ラルフ・ローレン・マガジン(Ralp Lauen Mgazie: 現在は廃刊)2007
・『Ivy Style Exhibittion 』2012 , The Museum at FIT
・『New Port Jazz Festival』1977, by Burt Goldblatt

*関連リンク

マイルス・デイヴィス<Birth of the Cool >

The Andover Shop: https://theandovershop.com

竹村洋子

竹村 洋子 Yoko Takemura 桑沢デザイン専修学校卒業後、ファッション・マーケティングの仕事に携わる。1996年より、NY、シカゴ、デトロイト、カンザス・シティを中心にアメリカのローカル・ジャズミュージシャン達と交流を深め、現在に至る。主として ミュージシャン間のコーディネーション、プロモーションを行う。Kansas City Jazz Ambassador 会員。KAWADE夢ムック『チャーリー・パーカー~モダン・ジャズの創造主』(2014)に寄稿。Kansas City Jazz Ambassador 誌『JAM』に2016年から不定期に寄稿。

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