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Jazz à la Mode 竹村洋子No. 261

ジャズ・ア・ラ・モード#29. ルイ・ジョーダンで明けましておめでとう!

29. Happy New Year, Louis Jordan !
text bt Yoko Takemura 竹村洋子
photos: Used by permission of the University of Missouri-Kansas City Libraries, Dr. Kenneth J. LaBudde Department of Special Collections, Library of Congress-William Gottlieb Collection, Pinterestより引用

新しい年の幕開けには明るく楽しい話題を、と毎年思う。今回は思い切り脱線して『お目出度い、ルイ・ジョーダン』でスタート。

ギョロ目でサックスをバリバリ吹き、ユーモラスに歌い踊るルイ・ジョーダン。別コラム『カンザス・シティの人と音楽』にも何度も書いているが、私のカンザスシティ・ジャズの師、チャック・へディックス氏(UMKC、マー・サウンド・アーカイブス、ディレクター)の持つラジオ番組『Fish Fry』のテーマソング<Saturday Night Fish Fry>を演奏し歌っているのがルイ・ジョーダン(Louis Jordan、1908年7月8日-1975年2月4日)。そんな事から、個人的にも大変親しみがある。(https://www.kcur.org/programs/fish-fry#stream/0

ルイ・ジョーダン(1908年生)アーカンソー州ブリンクリー生まれ。ライオネル・ハンプトンと同い歳。ルイ・アームストロング(1901年)や、ファッツ・ウォーラー(1904年)、カウント・ベイシー(1904年)、キャブ・キャロウェイ(1907年)より少し年下。ベニー・グッドマン(1909年)やアート・テイタム(1909年)より一才年上。同じジェネレーションのスイング・ジャズという形態を創り活躍したミュージシャン達と比べるとやや知名度が低い。
ルイ・ジョーダンはどちらかというとブルース寄りの人で、ジャズをベースにブルースをミックスした『ジャンプ・ブルース』というジャンルのミュージシャンである事、67才という比較的早く逝ってしまい活動期間が短かった事などの理由からかもしれない。だが、この人は1940年代から1950年代に数多くヒット曲を生み出し、大活躍をしたサックスプレイヤー、シンガー、バンドリーダーで俳優でもあったのだ。

ジョーダンの父親はミンストレル・ショーのバンドリーダーだった。(ミンストレル・ショー:顔を黒く塗った “blackface”によって演じられた踊りや音楽、寸劇などを交えた、エンターテインメント)ジョーダンは父親のバンドのツアーにハイスクールの生徒だった頃までついて回った。
プロとしてのデビューは1929年、21才の時、いくつかのバンドに入ってアーカンソーからフィラデルフィアに移動し演奏活動していた。その後ニューヨークに移り、ファッツ・ウォーラー(p)とも一緒に活動した。その後ドラマーのチック・ウエッブの楽団に入る。チック・ウエッブ楽団には同時期にエラ・フィッツジェラルドが在籍していた。1938年にジョーダンは彼女を連れて独立を計画したため、チック・ウエッブに解雇される。その際、一緒に楽団を離れた何人かのメンバー達とティンパニー・ファイヴ(Tympany Five)というグループを作りデッカ・レーベルと契約。そのバンドが大受けに受けた。このバンドでは『Swing Parade (1946)』や『Beware (1946)』など9本の映画にも出演した。
1942年<What’s The Use of Getting Sober>がビルボード誌のR&Bチャート1位、1944年<GI Jive>がR&B とポップチャートで1位となる。1946年にはエラ・フィッツジェラルドとのデュエット<Stone  Dead in The Market>がR&Bチャート1位になるなど、大ヒットを幾つも生み出した。1952年までに50曲近くをR&Bのヒットチャートに送り出し、持ち前のショウマンシップとミュージシャンシップを発揮し大成功を収め、『ミスター・ジュークボックス』とも呼ばれていた。1940~1950年代にはリズム&ブルースの分野で、レイ・チャールズ、ジェームス・ブラウン、BBキング等、後にR&B界の大御所となるミュージシャン達にも大きな影響力を持つ程になった。<Ain’t That Just Like A Woman>はチャック・ベリーの<Jonny B Good>のヒントにもなったと言われている。
1952年以降は大きなヒットに恵まれず、1954年にデッカを離れて以降は、いくつかのレーベルに録音を残している。インプロヴァイザーとしてのジョーダンはアルトサックス、ソプラノ、テナー、バリトンサックスを巧みに演奏し、<Saturday Night Fish Fry>始め多くの曲を残している。
1960年以降はソロ・ツアーやビッグバンドを率いてイギリスをはじめとするヨーロッパやアジアを回ったりした。特にイギリスでの評価は高く、またフランスではアルバムが再リリースされるなど、恵まれた晩年だったが1975年にカリフォルニアで逝去した。

ルイ・ジョーダンの大きなギョロ目でバリバリとサックスを吹きまくり、ユーモラスに歌い踊る姿は実にハッピーだ。ファッションは自己表現。しかし着る本人(自己)の個性が強すぎて、何を着てもそのキャラクターが勝ってしまう人がいる。女性でいうと、エラ・フィッツジェラルドやサラ・ヴォーンのところで、そんなことに触れた。ルイ・ジョーダンもまさにその一人。ジョーダンその人の存在感もさることながら、彼の容姿や動作がコメディアンのように面白おかしく、アクも強く見ていて飽きないが、あまり彼のファッションに目がいかないのだ。

しかし、よく見てみると1940年代には当時、特に黒人ミュージシャン達の間で大流行したズートスーツが圧倒的に多い。(#チャーリー・パーカーのストライプスーツ参照)この時代、当然オーダー・スーツだろうが、非常に仕立ての良いゆったりしたサイズのスーツを着こなし、1960年代、アイビー・ルックが流行した時代には、肩幅がやや狭く第一ボタンがやや上の位置にあるサイドベンツのジャケットに裾幅の狭いパンツ、そしてナロウタイ着用といった具合に、その時代を象徴するスタイルの装いでいる。バックのバンドもスタジオセットも典型的な1960代のスタイルだ。

 

一方、映画やアルバムカバーではルイ・ジョーダンのキャラクターの面白さに拍車をかけるように滑稽なスタイルでいる。1940年代のバンドリーダー達がよく着ていた燕尾服(スワローテール・コート:スワローテイル=燕の尾)、柄物ジャケット、アルバム『SAKATUMI (1968)』では日本なのか中国なのか解らない国籍不明の奇妙な格好をしている。ラウンドシェイプのメガネもトレードマークのようだ。ちなみに、“SAKATUMI: サカツミ”とは、1960年代に流行った『Lough In』というショウのキャッチフレーズの事。“sock it to me!(私を強烈にやっつけて!)”という意味。もしくは “F*k me.” という、2通りに解釈できる(通例、一方が性的な意味)ごく軽い意味の言い回し。アルバムカバーの女性の名前ではありません。

服は着る人の顔の表情によっても生きも死にもする。ルイ・ジョーダンは非常に質の高い音楽を演奏するインテリジェンス溢れるミュージシャンなのだが、彼のギョロ目、笑顔、剽軽(ひょうきん)なキャラクターは、彼が何を着ていようが、見る側、聴く側を楽しく明るい気分にしてくれる。

読者の皆さんには、何枚かの写真とヴィデオ・クリップを楽しんで頂きたい。
<Deacon Jones>は1944年の映画からの全盛期の演奏でもある。
<Stone Dead in The Market>は映像は無いが、珍しいエラ・フィッツジェラルドとの共演を聴くことができる。
<Saturday Night Fish Fry> は1964年に再リリースされたアルバム『Hallelujah・Louis Jordan Is Back』をテレビ・ショウで演奏したもので、オリジナルの<Saturday Night Fish Fry>より少しリメイクされているが、テンション高く、楽しく歌いまくり踊っている。

ということで、改めて皆様、ルイ・ジョーダンでよいお年をお迎えください!

<Deacon Jones>Louis Jordan & His Tympany Five 1944

<Stone Dead in The Market >Ella Fitzgerald& Louis Jordan 1946

<Saturday Night Fish Fry> Louis Jordan

竹村洋子

竹村 洋子 Yoko Takemura 桑沢デザイン専修学校卒業後、ファッション・マーケティングの仕事に携わる。1996年より、NY、シカゴ、デトロイト、カンザス・シティを中心にアメリカのローカル・ジャズミュージシャン達と交流を深め、現在に至る。主として ミュージシャン間のコーディネーション、プロモーションを行う。Kansas City Jazz Ambassador 会員。KAWADE夢ムック『チャーリー・パーカー~モダン・ジャズの創造主』(2014)に寄稿。Kansas City Jazz Ambassador 誌『JAM』に2016年から不定期に寄稿。

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