#34 ビル・エヴァンスの『中年の危機 』

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34. Bill Evans in middle age crisis
text  & illustration by Yoko Takemura , 竹村洋子
Photos : Bill Evans My Foolish Heart Sings – Peter Peffinger, Pinterestより引用

ビル・エヴァンス(William John Evans, 1929年8月16日~1980年9月15日)。51年というあまりに短い生涯、ジャズ・ミュージシャンとしても活躍した期間はわずか30年程だが、その影響力は非常に大きく、ジャズ史上極めて重要なピアニストである。エヴァンスの音楽は『耽美的』『叙情的』とか言われるが、それを超えた恐ろしいほどに繊細な演奏の美しさは誰もが認めるところであり、エヴァンスのパフォーマンスが嫌いな人はまずいないだろう。

今更、経歴を語る必要もないとは思うが、やはりミュージシャンの経歴なしではファッションも語れない。しかもこの人のファッションはある時期に大変化を遂げる。

ビル・エヴァンスはアメリカ、ニュージャージー州のプレインフィールドで生まれる。両親は2才年上の兄のハリーと共に、幼い頃から音楽を学ばせ、5才でピアノ、7才でバイオリンやフルートのレッスンを始め、9才の頃にはかなり譜面が読めるようになっていた様だ。10代になるとジャズに興味をもち始め、13才でプロのバンドに参加、サイドマンとしてピアノを演奏するようになる。
1946年にハイスクール卒業後、サウスイースタン・ルイジアナ大学に入学。作曲とクラシックピアノを学ぶ。また、ジャズバンドにも参加し、この頃、後にレパートリーの一つとなる『Very Early』を作曲している。「この頃が人生で最高な時期だった。」と後にエヴァンスは語っている。「自分の音楽を一から作り出したかった。一つずつね。自分の弾く一音一音にちゃんと意味があるんだ。」とも。
1951年から1954年までアメリカ陸軍バンドに従軍。従軍した多くのミュージシャンと同様、あまり良い時期ではなく、その兵役中に生涯にわたるドラッグ常用が始まったと言われている。兵役を終えた後、1955年にニューヨークに渡り、本格的にジャズ・ミュージシャンとしての活動を始め、ちょっと知られるような存在になっていく。
1956年リバーサイド・レーベルから『New Jazz Conceptions』をリリース。しかしこのアルバムは800枚しか売れなかった。
1958年に当時、ジャズ界のトップスターで人気上昇中だったマイルス・デイヴィスとの出会いが大きな転機となる。マイルス・デイヴィス・セクステットのメンバーとなるがドラッグの問題、バンドで唯一の白人プレイヤーだった事、自身がリーダーであることを望んでいた、等の理由からバンドを離れる。が、1959年、デイヴィスの強い要望で『Kind of Blue』のレコーディングに参加。このアルバムは、後にジャズ史に残る傑作となる。ピアニストとして参加したエヴァンスの名声も一気に高まった。
1959年、エヴァンスはポール・モチアン(p)とスコット・ラファロ(b)と一緒に歴史に残るピアノトリオを結成。『Portrait In Jazz』『Waltz For Debby』『Explorations』『Sunday At The Village Vanguard』はリバーサイド4部作と言われる。
しかし、『Waltz For Debby』『Sunday At The Village Vangurd』の収録から11日後、スコット・ラファロは25才とという若さで交通事故死してしまう。エヴァンスはショックの余り暫くの間、活動を中止する。
1960年にベースにチャック・イスラエルを迎え、活動を再開。1964年にはベースにラリー・バンカーを迎え、ヨーロッパツアーも行なっている。
1966年、21才のエディ・ゴメスを新しいベーシストとして迎える。1969年にドラマーのマーティ・モレルが加わり、1975年まで活動した。ゴメス、モレルによるトリオは歴代最長であり、ゴメスは1978年に脱退するまで、レギュラー・ベーシストとして活躍した。ヨーロッパの他、カナダ、東海岸、南米など、活動の場も大きく広がっていき、『Conversation with Love』『Blue In Green』などのアルバムをリリース。
エヴァンスは、この頃から長年の慢性的なドラッグ中毒によりで酷く健康を損なっており、1970年、一旦治療により回復するもつかの間、またヘロインに手を出してしまう。1959年以降、長年エヴァンスを支え続けていた内縁の妻エレイン・シュルツに別れ話を持ちかけ、1975年にエレインは地下鉄に投身自殺してしまう。

1973年にクラブのウエイトレスだったネネット・サザラと結婚し、ニュージャージーに移り、念願だった長男エヴァンを授かる。ネネットはエヴァンスの寿命を10年は延ばしたと、言われている。
1978年、エヴァンスはマーク・ジョンソン(b)とジョー・ラバーバラ(ds)と一緒に活動を始めるが、又ドラッグに手を出してしまい、その健康状態は悪化の一途をたどっていく一方、周りの反対を押し切っても活動を続けていた。
1979年、バトンルージュで音楽監督、音楽教師をやっていたエヴァンスと絆が深かった兄のハリーが精神疾患を患った末、自殺してしまう。エレインとハリーという極めて関係の深かった2人の死は、エヴァンスにとって心身ともにとてつもないダメージであった事は言うまでもないだろう。
1980年にニューヨークのライブハウス『ファット・チューズディ』で演奏2日目の9月11日、ついに演奏を続けることができなくなり、市内の病院に搬送され3日後の9月15日、肝臓のダメージ、出血性潰瘍と気管支肺炎により、帰らぬ人となった。享年51。

エヴァンスはハイスクール時代から、長身で端正な顔立ちの美青年で女性にモテたようだ。加えてピアノが上手く弾ければ、怖いもの無しだっただろう。この頃はTシャツやチノパンツ、ネル素材のバッファロー・チェック(2色使いの太いチェック)のシャツなど、学生らしく典型的なアメリカン・カジュアル・スタイルだった。(#7 チェット・ベイカーのミニマリズム参照)地元のクラブに出演するときなどはジャケットを着用していたようだが、極めてお行儀の良いファッションだ。

1950年代後半、マイルス・デイヴィスと出会い一緒に活動を始めた頃は、マイルス同様、当時の大アイビー・ルックの流行に乗った一人でもあった。ただ、マイルスのようにはっきりとしたブランド物のアイビー・アイテムではなく、そのニュアンスのあるものを着ており、特にカジュアル・ウエアの着こなしが上手い。(#6 マイルス・デイヴィスから始まったジャズ・ミュージシャン達のアイビー・ルック参照

レコーディング時に着ている、オックスフォードやヘアライン・ストライプ(色糸を用いて、細かい縞模様を表したデザインで、髪の毛のように細いストライプ)のシャツに、Vネックのセーターやカーディガンにパンツ、というスタイルは非常に洗練された大人のカジュアルスタイルだ。清潔感に溢れ、好感が持てる。
セーター類はおそらくラムウール素材でキャメル色かブラウン系の色だっただろう。ラムウール素材は仔羊の毛から取られる羊毛で、艶が少なく、防寒生、保湿性にも優れ、値段もリーズナブルである。軽量のVネックセーターやカーディガンは、第2次世界大戦後から現在に至るまで誰もが着る超スタンダード・アイテムだ。これを着ていれば、何となくカッコ良くサマになり、安心感があるという事もあるが、下手をすると野暮な姿になるアイテムでもある。エヴァンスのカジュアル・スタイルはとても品良く、洗練されている。
多くの男性の場合、スーツは仕事着であり、カジュアルなファッション程その人のお洒落度が判る。

クラブでのショウやコンサートなど、人前で演奏する時は、正統的なホワイトシャツにダークスーツ。レップタイかブラックのナロータイで胸元に清潔感をもたらしている。
冬のスーツでヘリンボーン・ツイードのジャケットをよく好んでいたようだが、これもアイビー・スタイルの延長線上にある物。エヴァンスはツィードのチェックのジャケットも好きで生涯よく着ていた。
この頃の眼鏡はクールな印象が強いウェリントン型の黒縁メガネ。1950年代に普及したものでインテリ感のある雰囲気にどこか優しい印象を与え、ぴっちりと決めたヘアスタイルによくマッチしている。
マイルス・デイヴィスと一緒の活動期間中、エヴァンスの一番正統的でエレガントな姿を見る事ができる。

しかし、マイルスと活動していた頃もドラッグを常用しており、1950年代後半から1960年代にかけては徐々にその影響で心身共に崩れていく。「自分の演奏に自信が持てなくなってきたのか、痛みを感じることなく勤めを果たすのにはヘロインは最高だった。この頃はもうシャツにネクタイではなくなっていたよ。」と、ジョン・ヘンドリックスはこの頃のエヴァンスについて語っている。
人前でのダークスーツは相変わらずだが、特にこれといった特徴はなく、映像を見ると、ジャケットの袖とシャツの丈のバランスが合っていなかったり、そのスーツも草臥れた感があるものを着ている事がある。
咥え煙草姿が多く見られる様になる。笑っている写真があまりなく、口を閉じているのはヘロインの影響で前歯が虫歯になり、それを見せないようにする為だったという説もある。

1970年代初めにエヴァンスは、それまでのお行儀の良いファッションから一転して、大きなイメージチェンジを図ろうとする。
フランク・コレット(p)は、「まるでハワイから帰って来たような派手なスポーツ・ジャケット(欧米では日本でいうカジュアルなテイラード・ジャケットのことをスポーツ・ジャケットと呼ぶ)を着て、まるで観光客みたいだった!」と言っている。
髪も伸ばし、髭を生やし。眼鏡も四角いフレームの大きなものに変える。ファッションに異常なこだわりを持ち始めたようだ。髪は実際には1969年位から伸ばし始めたようで、ヘルシンキでの映像でその姿を確認した。初期の頃はただ伸ばしっぱなしという感じがする。

後に一緒に活動をするマーティ・モレロ(ds)はこの頃のエヴァンスを「中年の危機(middle age crisis)だった。」と言っている。

精神状態の変化は肉体にも表れ、ファッションにも表れてくる。麻薬常用の悪影響で健康を損ない、顔は浮腫みそれを長い髪やヒゲで隠そうとする意図があった、という説があるが、本当にそれだけの理由だっただろうか?

1970年代はファッションの流れが大きく変化した。スタイルは多様化、よりカジュアル化し、スーツからジャケット&パンツの組み合わせというようにコーディネートの時代へと変わって行った。男性もカラフルな服を着たり、着装の上でもジェンダーの差が見られなくなり始め、ユニセックス・ファッションが台頭した。

この時代のエヴァンスには、襟の大きいスポーツ・ジャケットにシャツの大きな襟を出してノーネクタイで着ている姿がよく見られる。当時は多くの男性がこのスタイルを好み、最先端でポピュラーなスタイルだった。デューク・エリントンやウッディ・ハーマンといったスタイリッシュなバンドリーダー達やメンバー達も揃ってこのスタイルのユニフォームを着ていた。
また、洗いざらしのジーンズ素材のアイテム、シャツ・ジャケットやサファリ・ジャケットも好んで着ていた。これも大流行したカジュアル・アイテムだ。コットン・ギャバジンのサファリ・スーツは1969年にイヴ・サンローランが初めてメンズ・プレタポルテを始めた時に発表した、新しい男性のスタイルとして画期的なアイテムで、70年代に入ってさらに流行していく。エレガントに着こなすことがポイントで、スカーフをコーディネートする。エヴァンスにもこのスタイルは見られる。
当時、マイルス・デイヴィスも着ていた赤いレザー・ジャケットもエヴァンスは好んで着ていた。リラックスしたカジュアルスタイル姿が多いのは、息子のエヴァンが生まれたことも影響しているだろうか?
髪や髭はフサフサになっているが、伸ばしっぱなしではなく、きちんとケアはされていた。当時、長髪はもう珍しくなかった。1970年代後半から、メガネはメタルフレームの物へと変えている。

1970年代初期のエヴァンスは、確かに『中年の危機』だったかもしれない。私生活においても本人の健康問題、エレインや兄のハリーの自殺、結婚等、波乱に満ちた時期だった。
ドラッグで身体が蝕まれていたのは確かだが、単純にその姿を隠そうとするのではなく、1970年代という時代のスタイルに、うまく乗っていたのだと思う。ジェリー・マリガンや、やはりドラッグ中毒だったチェット・ベイカーも同じような変身ぶりだった。

私個人としては、エヴァンスは時代感覚に研ぎ澄まされ、ファッションに於いてもその時代の波に乗り遅れまいと、常にヒップなファッションを身につけようしていたジャズ・ミュージシャンの一人であったと思いたい。エヴァンスの演奏を聴きながら、身体がボロボロであろうとも、人前で自分の姿を良く見せようとする努力をしていただろうと思うのは、あまりに痛々しく悲しい。

*参考文献
・Bill Evans How My Heart Sings by Peter Pettinger 1998
・Time Remembered Life & Music of Bill Evans (DVD) 2015

<Waltz For Debby >March 19th 1965

<Turn out the Stars>January 30th 1979

竹村洋子

竹村洋子

竹村 洋子 Yoko Takemura 桑沢デザイン専修学校卒業後、ファッション・マーケティングの仕事に携わる。1996年より、NY、シカゴ、デトロイト、カンザス・シティを中心にアメリカのローカル・ジャズミュージシャン達と交流を深め、現在に至る。主として ミュージシャン間のコーディネーション、プロモーションを行う。Kansas City Jazz Ambassador 会員。KAWADE夢ムック『チャーリー・パーカー~モダン・ジャズの創造主』(2014)に寄稿。Kansas City Jazz Ambassador 誌『JAM』に寄稿。(2016)

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