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特集『Bird 100: チャーリー・パーカー』Jazz à la Mode 竹村洋子No. 269

ジャズ・ア・ラ・モード #37. チャーリー・パーカーのネクタイ

#37. チャーリー・パーカーのネクタイ

37. Charlie Parker’s necktie
text and illustration by Yoko Takemura 竹村 洋子
photos : Used by permission of the University of Missouri-Kansas City Libraries, Dr. Kenneth J. LaBudde Department of Special Collections, Library of Congress-William P. Gottlieb Collection, The World of Jazz, The Century of Jazz, Pinterestより引用

今年の8月29日はチャーリー・パーカー生誕100年だった。

3年前にスタートしたこのコラムの最初に取り上げたのが『チャーリー・パーカーのストライプ・スーツ』で、チャーリー・パーカー(以下バード)はストライプ・スーツに派手な柄のネクタイを組み合わせる、という難しい技をこなしている事を書いた。#36でシドニー・ベシェを取り上げた時、ベシェのネクタイが派手だった事も書いた。ベシェのコラムの投稿後、非常に面白い写真を見つけた。
1949年にパリのサン・プレイエル・ジャズ・フェスティバルに、ベシェとバードが一緒に出演した時に撮られたものだろう。この時、二人はフェスティバルで大成功を収めた。二人が並んで立っている写真は新聞か雑誌か何かに印刷されたものか、非常にコンディションは悪いが、ベシェは派手なネクタイを締めているのが判る。そんな事で、再度バードのネクタイについて取り上げてみる事にした。

ネクタイは英語で『necktie』、フランス語では『クラバット:cravate』、日本語では『襟締』と呼ばれていたがこれはもはや死語で『ネクタイ』。
古代より、男性が襟元に布を巻く習慣はあった。
現在のネクタイの原型ができたのは17世紀のフランスに起因すると考えられている。 三十年戦争の最中、ルイ13世は『クラバット』と呼ばれたクロアチア兵を雇いイギリス人と戦った。クロアチア兵は皆、首に妻や恋人から送られた一枚の赤い布を着けていた。ルイ14世は側近に、「あれは何だ?」と首元のスカーフの事を側近に尋ねたところ、側近はクロアチアの兵士について尋ねられたと勘違いして、「クロアチア人 (croate)です」と答えようとしたところ、間違って「クラバット(cravat)です」と答えてしまった。ルイ14世は側近の間違いに気づくことなく、「あの布はクラバット というのか。」と納得し、その後、クロアチア兵の色鮮やかな布は「クラバット」になった、という説がある。
そこからネクタイはフランス語で『クロアチア兵』意味する『la cravate:クラバット』と名付けられた。

1660年に戦争が終わった後、クラバットはイギリスに渡り、貴族やエリートのファッションになり、ヨーロッパやイギリスの植民地にも広がっていった。クロアチア人が身につけていたようなものから変化し、フリル付きの首輪、リボン、リネン、コットン、タッセル付きストリング、またはレースなどバラエティに富んだものになって行った。
18世紀、クラバットのファッションは、社会的レベルや貧富の差に関係なくすべての男性に広がった。18世紀の終わりまで、男性が黒のクラバットをつける事はトップ・ファッションで必須と考えられていた。
フランスの皇帝ナポレオン・ボナパルトは、ウォータールーの戦いの間(1805年)、黒い服に白いクラバットを着けていた。この頃、人々はネクタイを首に結びつける習慣を付け始め、ネクタイを「ネクタイ」と呼びだした。

18世紀半ばから19世紀にかけて起こった産業革命は世界を大きく変化させた。「ホワイトカラー」労働者という用語は、同じくネクタイを締めた下層階級のビジネスマンのクラスの服装に由来している。
19世紀、ネクタイの種類として、結び下げネクタイ(フォア・イン・ハンド・タイ)、蝶ネクタイ、ストック・タイ(乗馬や狩猟時に首に巻く。胸元で小さく結ぶか後ろで留める帯状の襟飾り)などが出てきた。

20世紀初頭のネクタイは今よりも短かかった。 スーツは三つ揃いが基本でネクタイの先端はベストの下に隠れるからだ。 また、1枚布のスカーフの流れを汲んでいた為、幅広であったり、形状も様々なバリエーションが存在していた。
1910年頃から、ファッションがよりカジュアルになってきた。1926年、ジェシー・ラングスドルフというニューヨークのテイラーが、ネクタイの生地をカットする、それまでにはない全く新しい方法を開発し、使用後も形を保つことができる様にした事で、ネクタイは劇的に変化した。彼の創意工夫が、最も人気のあるネック・ウェアになった。

1930年代には、シルクが減り化合繊、特にレーヨン素材が台頭して来た事、染色技術の向上により、大胆な柄がプリントされたものが流行した。男性のパンツはややハイ・ウエストで着用されていた為、現在のネクタイの長さよりもかなり短く、ジャケットの下にはネクタイの底を覆うベストを着ていた。ネクタイの結び目は左右対称になる『ウィンザー・ノット』というウィンザー公爵(エドワード8世)にちなんで名付けられた。

1940年代に入り、第二次世界大戦中、ファッションは人々の優先事項ではなくなったが、終戦後は派手な柄と色で活気を取り戻したネクタイが人気を博した。『ズート・スーツ』に代表される、大きなジャケットにダブダブのパンツの組み合わせ、といった極めて強い男らしさを強調した『ボールド・ルック』との相性、関係により幅広の派手なネクタイが流行した。ネクタイ幅は10センチ位の太い物、パターンは狩猟シーン、花柄、キューバやマイアミなどのトロピカルなデザインまで、この当時流行したアール・デコ・スタイルの幾何学的モチーフが広がり、ファッション業界のみならず社会全体に活気をもたらした。
音楽プロデューサーでメンズ・アメリカン・トラッド・ファッションに精通しておられる上野勉氏によると、この時期のブルックス・ブラザースや J. プレスといったトラッド・ファッションの老舗は、世の中の流行とは一線を画しており、独自の路線でネクタイを作っていた、いう事だった。

1950年代はファッションが保守的なものへと変化して行った。鮮やかな色の流行は続いていたものの、細いネクタイが一般的になってきた。細身になってきたスーツのジャケットはスリムなラペルの外観になり、パンツのベルトの高さが下がり、ネクタイは長くなった。幅は3センチ程で、色は通常濃く均一、柄も落ち着いた物が主流となった。アイビー・スタイルが流行し始めた頃であり、この傾向はしばらく続いた。

1960年代の後半、流行はサイケデリックとポップなファッションの影響を受け、ネクタイはそれに続き前衛的なデザインのものが若者を中心に出回った。1970年代『ボールド・ルック』の復活があり、幅広の鮮やかな色や柄のネクタイが流行った。
1990年代になり、ネクタイは色や柄もペイズリー、ストライプ、小紋柄など豊富になり、ビジネス・ファッションの中心のアイテムに戻った。
21世紀の最初の10年間で、標準的なネクタイは約5ミリ薄くなり、ヨーロッパのデザインと影響がさらに加わった。
現在では、イタリアとフランスからの影響がより強くなり、1930~1940年代のアメリカのヴィンテージ物も人気があり、古き良き伝統とさまざまな生地、大胆なプリント、トラディショナルな色や柄の物が混在している。こうでなければならない、というルールはほとんどなく、見た目が良ければ何でもOK!というスタイルになった。ちなみに『クールビズ』というネクタイなしのスタイルは日本のみでしか存在しない。欧米ではビルの中はクーラーがガンガン効いているからだ。

バードのファッションを語るのは難しい。バードはファッションに極めて無頓着だった。洋服代は殆どドラッグとアルコールに消えていただろう。プライベートな写真を見ると、ヨレヨレのシャツやズボンにサスペンダー(赤がお気に入りだったらしい)、といった姿が多い。
1920年生まれのバードは、ニューヨークでディジー・ガレスピーと最初のレコーディング・セッションを行ったのが、1945年で25歳。その頃、公の場での演奏中は当時流行った『ズート・スーツ』を身につけていた。
スイング時代のミュージシャンのユニフォーム的存在だったタキシードやパリッとしたスーツではなく、ズート・スーツを着て、まるでビジネスマンのような格好で演奏するのが『バップ・ミュージシャン』の最高にヒップなスタイルであり、それは1940年代半ばから始まった。

1940年代のバードのスーツはストライプのダブル・ブレストが多い。バードは、肩幅があり、胸が厚くがっしりした体型だったので、良く似合っている。
シャツはロングポイントの襟のホワイトシャツに幅広のネクタイ。幅広の存在感のあるネクタイには大き目の襟のシャツがバランスが良い。一般的にシャツの襟の長さとネクタイの下のカットの一辺の長さがほぼ同じなのが良いバランスとされる。
1948年に3番目の妻になるドリス・シドナーが一生懸命にバードの服を調達していた様だ。ネクタイもおそらく彼女の好みだったろうが、残された写真を見ると、この人は10本位しか持っていなかったんじゃないの?と思う位、いつも同じ物を身につけている。幾何柄のアシンメトリーのネクタイだ。アルバムカバーにもなっている。他は、植物柄、トロピカル柄、幾何柄などがあるが、写真の数の割にはネクタイの種類が少ない。1947年から1949年位までの写真の数はバードのジャズ・ミュージシャンとしての絶頂期と見るにふさわしく数多いが、なべて、今回のコラムを書くにあたり写真探しには苦労した。しかし、ストライプ・スーツはバードのトレードマークのように多かった。

ストライプ・スーツと派手な柄ネクタイの、柄と柄のコーディネート、というのは極めて難しい。ピン・ストライプのように、無地感覚に見えるスーツはそうでもないが、チョーク・ストライプやペンシル・ストライプのように太い物は柄と柄が主張し合うからだ。
現在では、パターン・オン・パターンといった柄同士をコーディネートする事は当たり前の着こなしになってきたが、この当時はそれはない。
ストライプ自体、個性の強い柄なのでそれに見合うネクタイは、それ以上に強い個性を持つ柄や色の方が、本来アクセントであるネクタイとして相応しい。
コールマン・ホーキンスやイリノイ・ジャケイ他、多くのミュージシャン達がこの時代、ストライプのスーツを好んできていたが、彼等のネクタイはニット・タイだったり、幾何柄でも比較的控えめの物が多く、バードのネクタイが一番派手だった。ただバードは、多くの他のミュージシャンがやっていたようなポケットチーフはほとんど身につけていなかった。この辺りに他のミュージシャン達に比べて、ファッションなんかどうでも良い様子が感じられる。

1950年頃、チャン・リチャードソンと一緒になり始めた頃から、バードのファッションは少しずつ変化して行く。体が大きい上に、この頃はさらに太ってきた。スーツはズート・スーツよりやや体にフィットしているスーツを着ているが、それがさらにバードを太って見せた。
淡いカラーのスーツにネクタイも細かい花柄や淡い色ものも身に付けるようになって行く。レジメンタル・ストライプを締めている姿も見られる。これはスエーデン・ツアーの際の写真だ。当時ヨーロッパではもう派手な幅広のネクタイは流行遅れで、現地で買い求めたのかもしれない。チャンの好みだったか、他のガールフレンドが選んだものだったかもしれないが、真偽のほどは確かではない。ファッション自体が保守化の方向に向かって行った事と大きく関係あるだろう。今では、革新的なミュージシャンであったバードが保守的なトラディショナルなものを身につけていた、というのもおかしな話だと思うが、これもその当時の流行でヒップであったファッションだ。
1955年に細いネクタイをつけた写真が残っていたが、バードが亡くなったのは1955年なので、もし流行を意識していたとしたらバードとしては早い先取りだと思う。

冒頭に述べたバードとベシェが一緒の写真だが、ベシェの横にストライプ・スーツで立つバードの視線は、どうもベシェのネクタイに向かっている。
べシェのネクタイはバードのものより明らかに数段派手なのだ。いくらファッションに無頓着なバードでも、べシェのネクタイを見て何か感じるところがあっただろう。
勝手な想像だが、トラディショナル派のニューオーリンズ・ジャズの巨匠ベシェと新しいスタイルのビ・バップの若きスター、チャーリー・パーカーは、2人とも自己主張が強く負けず嫌い。バックステージでも「ちょっと負けた!」「勝ったぞ!」とお互いに密かに闘志を燃やしていたかもしれない。バードの視線、ベシェの笑顔がそれを語っているような気がする。

BIRD LIVES !

1952年、TVショウ出演時。珍しくボウタイ。

*You-tubeリンクは1947年の<ドナ・リー>。バードが一番良く締めていたネクタイの写真が多かったビデオ・クリップとして取り上げた。演奏は極上!

<Donna Lee>

*参考文献
・The Complete history of necktie : Anthony Alfano 2014
・Bird’s Diary The Life of Charlie Parker 1945~1955: Ken Vail 1996
・bird: The Life and Music of Charlie Parker: Chuck Haddix 2013

竹村洋子

竹村 洋子 Yoko Takemura 桑沢デザイン専修学校卒業後、ファッション・マーケティングの仕事に携わる。1996年より、NY、シカゴ、デトロイト、カンザス・シティを中心にアメリカのローカル・ジャズミュージシャン達と交流を深め、現在に至る。主として ミュージシャン間のコーディネーション、プロモーションを行う。Kansas City Jazz Ambassador 会員。KAWADE夢ムック『チャーリー・パーカー~モダン・ジャズの創造主』(2014)に寄稿。Kansas City Jazz Ambassador 誌『JAM』に2016年から不定期に寄稿。

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