ジャズ・ア・ラ・モード #44. ビリー・ホリデイ、レディ・イン・サテン

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44. Billy Holiday, Lady In Satin
text and illustration by Yoko Takemura 竹村洋子
photos:  Used by permission of the University of Missouri-Kansas City Libraries, Dr. Kenneth J. LaBudde Department of Special Collections, Pinterestより引用

2021年4月7日はビリー・ホリデイの106歳の誕生日になる。『レディ・ディ』と呼ばれたビリー・ホリデイ(1915年4月7日~1959年7月17日)はジャズ・シンガーとしての実力とその凄まじい生き方と共に、ファッションの話題にも事欠かない人だった。
このコラムでも4回目の登場となる。(#9.シンプルなクルネックセーター#22.最高にゴージャスなアクセサリー#31.ファー・コート

ビリーは稀にみる才能、美しい容姿、個性的な魅力を持ち、誰にも真似ができない彼女自身のスタイルで世の中を思うがままに生きた女性だった。

1935年、ジョン・ハモンドに認められて以降、ジャズシンガーとして名が知られ始めた。
同じ年、音楽はデューク・エリントンが主役の映画『ラプソディ・イン・ブラック』に出演した時、「彼女はコスチュームでも話し言葉でも、そのどちらかにも品格を作るのが巧く持ち前の威厳があった。体は比較的大きく肉感的だったがサテンのような滑らかなベージュ色の肌の美しい女性は、ルックスだけでも十分にスターになり得る存在だった。」とエリントンは言っている。
1939年、アメリカ南部の黒人リンチについて歌った<ストレンジ・フルーツ:奇妙な果実>はビリーのテーマソングとして、彼女を一躍有名にした。

1940年代はシンガーとしての絶頂期だった。1950年代にもいくつかの大成功を収め、ジャズシンガーとしての高い評価を受けながらも、健康状態はどんどん悪化していった。1950年代の中頃までには、ビリーの声は粗くなり初期の頃の彼女のものではなく、彼女のスピリッツもスキルも失われて行く一方だった。私生活においても男性との関係が破綻していく。長年の飲酒癖、薬物乱用、大麻所持により何度か逮捕され服役生活も送り、出所後はニューヨークでのクラブカードも失い、コンサート中心の活動を余儀なくされるが、それでも唄い続けていた。1958年のモントルー・ジャズ・フェスティヴァルの頃には酷使された体は完全に憔悴仕切り肝硬変、腎不全、心臓病などを患いなどボロボロの状態だった。

ビリーは生涯に亘り浪費家で、自分の稼ぎが幾らかでも貯まるということはほとんどなかった。1930年代後期には週給75ドルだったが、いつもコティの香水や高価なバスオイルを買っていた。グリーンのクロコダイルの靴とハンドバッグに2週間分のサラリーをあっという間に使い切ってしまった事もあった様だ。常に最高級のものを身につけていた。
身だしなみについてもうるさく、手の込んだヘア・スタイルにしている時は何時間でも髪結に時間を費やし、髪をかっちりとカールした時には旧式のカール用のアイロンでウェーブをつけるのに長時間、楽屋の鏡の前に座っていた。
ビリーはいつも必要以上にイアリング、ブレスレット、ネックレスなどのアクセサリーを持ち歩いていた。綺麗好きなビリーはホテルの自分の部屋でそれらのアクセサリー類を全部念入りに磨いていたようだ。

ビリー・ホリデイといえば、誰もが豪華なステージ衣装を身に纏い、ガーディニア(梔子)の花を髪につけている姿を想像するだろう。
彼女の絶妙なファッション・センスは、いったいどこから来たのだろう?それがステージ衣装とは言え、現代に生きる私達には信じ難い。胸元が大きく開いたオフ・ショルダーのドレス、宝石をちりばめたドレスやガウン、ターバン、大きく煌びやかな指輪やブレスレット、多くのパールのアクセサリーや豪華なドレスの数々。

ビリーのステージ衣装の数は実に多く、その時々に流行ったスタイルのイヴニング・ドレスを身につけてステージに立っていた。また、ビリーは映画が好きでハリウッド・スター達のファッションにいつも憧れていたようだ。当時ハリウッド・スター達はパリのデザイナー達の格好の宣伝媒体だった。戦後1946年にパリ・メゾンを開店したクリスチャン・ディオールの美しい素材と造型によるドレスは世界のトップレディ達に支持されていた。ディオールのドレスの中に、英国バレリーナのマーゴット・フォンテーンが1956年バッキンガム宮殿で行われた称号授与式で着用した非常に華やかなサテン地のドレスがある。ビリーはそれと良く似たドレスを1958年、パリ・オランピア劇場でのコンサートで着ている。同じディオールのものであるかどうかは定かでないが、贅沢好みのビリーはパリのメゾンのファッションも意識していたに違いない。

 

しかし、なんと言ってもビリーのドレスを語る上で一番重要なのはサテン地のドレスだろう。華やかなレースや装飾のあるドレスが目立ちがちだが、サテン地のシンプルなドレスを着たビリーは本当に美しい。

サテンとは、『朱子織の織物』の総称のことを呼ぶ。朱子織とは、ちょっと専門的になるが組織点が隣接しない1本のフロートした糸が最低4本の糸を取っている。そのフロートが長いため、光をよく反射し、光沢が生まれる。シルクで織った朱子織物を『サテン(satin)』、コットンまたはウールで織った朱子織物を『サティーン(satteen)』と区別される。サテン生地は高級感と美しさ、ドレープ性、滑らかで光沢のある表面があるのが特徴。デメリットとして、摩擦に弱く、縫製が難しく、保水性や吸湿性が低いことなどが挙げられる。フォーマル度の高い素材で、ウエディング・ドレス他、フォーマル・ウエアによく用いられる。戦後、カラフルなカジュアル・ウエアにも使われる様になった。
いずれにせよ、ビリーはサテン地のドレスがとても好きなようだった。そしてガーディニアの花を髪につけていた。

1940年代後半、彼女は若く見せるために使っていた宣伝用の写真が嫌いになり、それまでの古いイメージと『新しいイメージのビリー』の間にけじめをつける為、ガーディニアの花からオーキッド(蘭)などに変え、その後、ガーディニアの花をつけるのはやめたが、数年後にファンからガーディニアの花が贈られるとうやうやしく受け取り、送り主の気持ちを損なわない様にこの花をつけていた。ガーディニアの花言葉は『優雅』、『幸せを運ぶ』、『胸に秘めた愛』など。独時の甘い香りが強いまさに優雅で高貴なイメージの花だ。余談だが、19世紀後半、アメリカのハイ・ソサエティの男性達の社交の場でブラック・タイにガーディニアの花を胸に付けるのが流行った様だ。イーディス・ウォートン著、マーティン・スコシージ監督の映画『エイジ・オブ・イノセンス』の中で、社交の場に優雅に登場する男性陣がジャケットの襟にガーディニアの花をつけているのを見ることができる。

1950年8月末頃、ビリーはハリウッドのユニヴァーサル・スタジオで短編映画を撮影し、その時カウント・ベイシー・セクステットと共演し2曲(God Bless The Child, Now Baby or Never)歌った様だ。その時のビリーはガーディニアの花をつけず、黒のサテンのドレスを着ている。1920年代の半ばにココ・シャネルが喪服ではない黒のドレスを発表して以来、黒のドレスがステージやショウといった晴れの場でもポピュラーになり定着し始めた頃だろう。
ガーディニアの花をつけずに、サテンのドレスを着ているビリーはさらにシンプルで美しい。

ビリーの最晩年1958年2月に録音された『レディ・イン・サテン』というアルバムがある。
このアルバムカバーでは、肩を出して大きく胸元を開けた白いサテンのドレスを着ている。肩から上がクローズアップされているので全体像はよくわからず、同じドレスの写真があるかどうか探したが、今ひとつぴったりくる物が見当たらなかった。アルバムカバー撮影用に用意されたものかもしれない。
1955年、ビリーの声も衰えてきた頃、『メトロノーム誌』は「レディ・デイは薄暗いクラブ出演の時、あの馴染みの深い本来の魅力はなく、白い豪華な衣装で優雅さを強調している。彼女の独特な活気も会場にそぐわなかった。」と記している。

ビリーの一流品、贅沢好みは、単純に『成功の証』というよりもっと複雑なものだった様な気がする。持って生まれた美意識が彼女の上昇志向と共にどんどん磨かれて行ったことは確かだろうが、それ以前に彼女の貧しい生まれや育ちから来る『醜さへの嫌悪感』も人一倍強かっただろう。
自分の体が薬や麻薬で蝕まれて行く時、美しくありたいというビリーの本能や願望と現実の姿に大きなギャップがあることに葛藤があったに違いない。美しい服やアクセサリーを身につけること、高級品を買いあさることは、ビリーの現実逃避の一つだったかもしれない。

ビリーがカフェ・ソサエティで<奇妙な果実>を唄った時、クラブのライトが彼女の顔にスポットだけを残して部屋は薄暗くなった。曲の終わりに部屋はさらに暗くなり、明かりが戻ってきた時、ビリーは既にステージから姿を消していた。
私達はカフェ・ソサエティの観衆の中でビリーの語りかける様な歌を聴くことは決してないが、レディ・デイに敬意を表して彼女の106歳の誕生日を祝い、彼女の美しく独特なスタイルを称えたい。

 

*YouTubeリンクはアルバム『Lady In Satin』より

<You Don’t Know What Love Is >Billy Holiday 1958

*参考文献:ビリー・ホリデイ物語(Billy’s Blues):ジョン・チルトン著、1975
ビリー・ホリデイ自伝・奇妙な果実:晶文社刊, 1998

竹村洋子

竹村洋子

竹村 洋子 Yoko Takemura 桑沢デザイン専修学校卒業後、ファッション・マーケティングの仕事に携わる。1996年より、NY、シカゴ、デトロイト、カンザス・シティを中心にアメリカのローカル・ジャズミュージシャン達と交流を深め、現在に至る。主として ミュージシャン間のコーディネーション、プロモーションを行う。Kansas City Jazz Ambassador 会員。KAWADE夢ムック『チャーリー・パーカー~モダン・ジャズの創造主』(2014)に寄稿。Kansas City Jazz Ambassador 誌『JAM』に寄稿。(2016)

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