ジャズ・ア・ラ・モード #49 カウント・ベイシーの『モンキーバック・スーツ』

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#49. Count Basie in the monkey-back suits
text and illustration by Yoko Takemura 竹村洋子
photos : Used by permission of the University of Missouri-Kansas City Libraries, Dr. Kenneth J. LaBudde Department of Special Collections, Pinterest, Getty imagesより引用。

カウント・ベイシー(1904~1984) の口述による自伝、アルバート・マレイ著『グッド・モーニング・ブルース』の中で、若きベイシーが故郷レッドバンクから初めてニューヨークに行く前に、仕事に行く道すがら寄った古着屋のウィンドウでとても格好良いスーツを見つけて購入した、という記述がある。
「それは『モンキーバック・スーツ(the monkey -back suites)』と呼ばれ、『ピンチバック(the pinch-back)』もしくは『ジャズバック(the jazz-back)』と呼ばれてもいた。ジャケットは背中にギャザーとバックベルトがついており、シャープなデザインだった。古着なので少し繕ってあり、見えないところに当て布もしてあって、4ドル程だった。」とある。1923年の話で、ベイシーは19歳。ミュージシャンとしては駆け出しの頃で当時のギャラが一晩で3ドルか4ドルだった。

私はこの本を読むまで、『モンキーバック・スーツ』がどういうものか知らなかった。UMKCU (ミズーリ大学カンザスシティ校)マーサウンド・アーカイブスのディレクター、チャック・ヘディックス氏や、彼のスタッフでこのコラムの写真選びを手伝ってくれているファッションに詳しいケリー・マケニリー氏他アメリカの友人たちに聞いてみたが、誰もが分からないという答えだった。
色々調べてみると、『ピンチバック・スーツ』という名称で呼ばれている1920年代から1930年代にアメリカで流行ったスーツ・スタイルのひとつの事だった。現在でも古着が市場に出回っている様だ。

“ピンチ” には “締め付ける” とか “つまむ” といった意味がある。『ピンチバック・スーツ』のジャケットは、後ろ身頃にギャザーやタック、プリーツが入っており背中にアクセントがある。後ろ身頃のウエスト部分にベルトがついているのは、身体に快適なフィット感を出すため、またギャザーやプリーツを縫い止めるためであり、それがバックスタイルの表情をより豊かにしている。
そして、ベストとたっぷりめの幅で裾が僅かに窄まったスラックスが組み合わされたものを『ピンチバック・スーツ』という。ジャケット単品の場合は『ピンチバック・ジャケット』。『ピンチバック・コート』もある。
ジャケットの後ろ身頃両サイドのアームホール側にプリーツを入れ、腕の可動域を広げたデザインもあり、これは『バイスイング・ジャケット』とも呼ばれている。『アクションバック』とも呼ばれていたようだが、これは文字通り活動的な服の構造である事からの呼称だろう。ベイシーが言うところの『モンキーバック』については、 “モンキー” には “背中にあるコブ” という意味があり背中のギャザーで丸みのついたデザインから『モンキーバック・スーツ』と呼んでいたと推測する。
この様にいろいろな呼び方をされているが、大きくは『ピンチバック・スーツ』として括られる。
夏物冬物に関係なく、素材も麻、綿から梳毛ウール、紡毛ウールまで様々あり、ジャケットはシングル・ブレストが多い。また、ポケットやカフスなどのデザインに凝ったものも見られる。

ピンチバック・ジャケットの起源は19世紀半ばまで遡り、英国ノーフォーク地方で着られていた『ノーフォーク・ジャケット』に端を発する。
ノーフォーク・ジャケットは前後見頃にボックス・プリーツが入っており、肩にはヨークがある。打ち合わせはシングルブレスト。共布のベルトで止められるがハーフベルトのものもある。元々はハンティングなどで、シューティング・コートとして着用された。腕を上げて銃を構える時に動き易い様にデザインされたものである。
英国の皇太子時代のエドワード7世(当時はプリンス・オブ・ウェールズ:1841~1910)が、1860年頃に主催したスポーツ・サークルにおいて着用した。また同じ頃、15代ノーフォーク公爵のヘンリー・フィッツアラン・ハワードがノーフォーク地方の男達が作業着として着ていたのをスポーツ・ウエアの狩猟服として着始めた事、この2人がスタイル・セッターになり広まったと言われている。
英国王エドワード7世は、“世界中で一番衣装持ち”と呼ばれた程のファッション・アイコンだった。メンズファッションでは19世紀半ばまで上下揃いのスーツはごく稀だったが、エドワード7世がツイード素材で作られたこのスポーツ用の上着に同素材のニッカーボッカーを合わせてスーツとした着こなしは、斬新で大きな話題になった。
19世紀末の英国はテニス、ゴルフ、ハンティング、サイクリングといったスポーツが流行し、服装も活動的なニッカーボッカー・スーツがよく着られていた。その後、ヨーロッパ中で流行し、20世紀に入ってからアメリカに伝播していった。

ノーフォーク・ジャケットはアメリカに於いても、最もファッショナブルなスポーツジャケットとしてクローズアップされ、アメリカ独自の変化を遂げ、その流れからピンチバック・スーツが生まれたようだ。
エドワード7世による上下共地の狩猟スタイルが基礎となり、現在の『ビジネス・スーツ』に繋がったとも言える。

もう一説に、ピンチバック・スーツは英国服の仕立て技術を習得したドイツのテイラーが考案したという説もあるが、確かではない。

1920~1930年代のアメリカを描いた映画の中にピンチバック・スーツを着ている登場人物達を見ることができる。
『或る世の出来事(1934年)』では新聞記者を演じるクラーク・ゲーブルが大きなパッチポケットがあるピンチバック・スーツを着ている。1925年が舞台の『華麗なるギャツビー(1974)』ではヨットに乗って登場するギャツビーの友人を演じるサム・ウォーターストンが真っ白な麻のピンチバック・スーツを着ていた。このコスチュームを担当したのはラルフ・ローレン。
他にも『アンタッチャブル(1987)』ではシカゴの警官役のショーン・コネリーが、また1932~33年頃が舞台の『俺たちに明日はない(1967)』ではチンピラギャングのクライドを演じるウォーレン・ビューティーが茶色のツイードのピンチバック・ジャケットを着ている。因みに『或る夜の出来事』はアカデミー賞作品賞、他の3作品はいずれもアカデミー衣装デザイン賞をとっている。映画の中でも多くみられる様に、ピンチバック・ジャケットがこの時代に如何に流行ったかがよくわかる。

UMKCのケリー・マケニリー氏が私のリクエストに答え「ベイシーの写真はないが、1930年代の写真のコレクションの中に、これがピンチバック・スーツに違いない、と思うものを着ているジャズミュージシャンの写真がある。」と、数枚の写真を提供してくれた。バックスタイルの写真は皆無だが、ジャケットのシェイプ感とポケットのデザインなどが決め手になった。それらは、アール・ハインズ、ハリー・ジェイムス、バック・クレイトン、ジミー・ランスフォードだった。いずれもお洒落で有名なミュージシャン達だ。

カウント・ベイシーがピンチバック・ジャケットを購入した1920年代のアメリカは『ローリング’20’s』『レザネ・フォル(仏)』とも呼ばれ、狂騒の’20年代の始まりだった。ベイシーはまだ青春時代真っ只中?
第1次世界大戦(1914~1918)と第2時世界大戦(1939~1945)の間にあたり、近代アメリカ風俗に最も活気があり、スコット・フィッツジェラルドの言う『ジャズ・エイジ』とも呼ばれた華やかな時代だった。禁酒法(1920~1933)の時代でもある。

この時代のアメリカは、映画、ラジオ、大衆芸術、新聞、雑誌をはじめとするマスメディアとネットワーク、ファッションなどが飛躍的に発達して新しい水準に達し、自動車も庶民の足として普及し、現在の都市生活の基本的な枠組みができた。

音楽の世界では、文字通り『ジャズ』が大流行する。シドニー・ベシェ、ルイ・アームストロング、デューク・エリントン、フレチャー・ヘンダーソン、ジミー・ランスフォード、グレン・ミラー、キャブ・キャロウエイ、ベニー・グッドマンなどを始め多くのジャズ・ミュージシャン達が台頭してきた。1900年代初頭にニューオーリンズから始まったジャズは、カンザスシティ、シカゴへと広がり、ニューヨークがジャズのメッカとなっていった。

広告の世界においてはニューヨーク、ブロードウエイ界隈は夜でも昼を欺く様な明るさの野外電飾広告も登場する。ポスターの流通システムが確立され、広告のスペースが規格化され、雑誌等によるマスメディアによる広告も増えていった。

建築では、ニューヨークで1930年に完成したクライスラー・ビルディングをはじめとした高層ビルが次々に建てられ、『摩天楼』と呼ばれたそのビル群の多くは『アール・デコ様式』だった。
アール・デコ(Art Déco, 仏) 様式は1925年のパリ万国博覧会に端を発する。軽快な幾何学的直線を用いた機能的で実用的なフォルム、デザインが新しい美意識として様式化した。この様式は『芸術』といった領域を超え、建築、家具、服飾、アクセサリー、食器などの日用生活品にまで及んだ。この直線美は機械による大量生産を可能にするデザインで、新しいライフスタイルの中に拡がっていった。

この時代のファッションはどうだろうか。
女性のファッションはコルセットから解放され、スカート丈も短くなり、より自由で活動的なスタイルになった。そして、パリ・オートクチュールでその年のモデルが作られ、アメリカで既製服として大量生産される。ここでも『ヴォーグ』や『ハーパースバザー』といった雑誌メディア媒体が一般の女性達への普及に一役買っている。それを売ったのがデパートである。
厳密には1929年の世界大恐慌を境にして風俗は変わり、1920年代と1930年代の女性のファッションには違いがある。しかし、先にも述べた様に1920~1930年代は現在の私たちのファションの原型が作られ、花開いていった時代であることは間違いない。
男性のファッションについても、『ピンチバック・スーツ』やアメリカン・トラディショナル・スタイルの背広『サック・スーツ』に代表されるようにアメリカで発達したものがあり、こういったスタイルのファッションは後にヨーロッパに流れていく。アメリカに於いてファッションは、レディス・メンズを問わず実用性や機能性を重視し、大量生産によってアメリカ独自に発達して行ったものが多くあり、ヨーロッパのファッションとは一緒には考えにくい。

1920~1930年代にアメリカで流行った『ピンチバック・スーツ』は、既製服(レディ・メイド)が大量生産(マス・プロダクション)によって作られ、広告媒体(マス・メディア)の力で売れ始めたヒエラルキーに捉われない大衆のための最も新しいカジュアルなスタイルだったのだ。
ベイシーが言うところの『ジャズバック』というのはこの新しい時代(ジャズエイジ)に流行った事を表現するための用語だったと察する。
若く多感なカウント・ベイシーは、新しい時代の潮流の中、新しいものを積極的に追いかけて時代の空気を吸収し、ビッグ・アーティストたちの仲間入りをしたかったのかもしれない。1923年にピンチバック・スーツを見つけて買う、というのはかなり早く流行に飛びついた話だと思う。

ファッションは時代と共に変化するもの。ファッションに敏感な人には新し物好きが多い。また新し物好きは飽きっぽくもあり、常に違うものを追いかける。だから、ファッションは変化して面白いのだ。
音楽もファッションもその人の自己表現であり時代の反映。そんな事を改めて『ベイシーのモンキーバック・スーツ』を通して感じる。

You-tubeリンクはカウント・ベイシー&ヒズ・オーケストラの古い時代の映像がないので、1965年のカウント・ベイシー・オーケストラの代表曲<ジャンピング・アット・ザ・ウッドサイド>。残念ながら、この時代にはピンチバック・スーツの流行は終わっている。


*参考文献
メンズウエア100年史:キャリー・ブルックマン
英国流おしゃれ作法:林勝太郎
パリモードからアメリカン・ルックへ:濱田雅子
ジャズエイジの街角:海野弘
アメリカン・ジャズエイジ:常盤新平

竹村洋子

竹村 洋子 Yoko Takemura 桑沢デザイン専修学校卒業後、ファッション・マーケティングの仕事に携わる。1996年より、NY、シカゴ、デトロイト、カンザス・シティを中心にアメリカのローカル・ジャズミュージシャン達と交流を深め、現在に至る。主として ミュージシャン間のコーディネーション、プロモーションを行う。Kansas City Jazz Ambassador 会員。KAWADE夢ムック『チャーリー・パーカー~モダン・ジャズの創造主』(2014)に寄稿。Kansas City Jazz Ambassador 誌『JAM』に寄稿。(2016)

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