ジャズ・ア・ラ・モード#55 オスカー・ピーターソンと『グッチ』

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#55  Oscar Peterson and GUCCI
text and illustration by Yoko Takemura 竹村洋子
photos:Library and Archives Canada, Pinterestより引用

今年1月に劇場公開されたリドリー・スコット監督による映画『ハウス・オブ・グッチ:House Of Gucci』を観た。1995年に実際にあったグッチ・ファミリーのスキャンダル、一族の確執、当時グッチのオーナーだったマウリツィオ・グッチ殺害事件の全貌が描かれている。映画中の登場人物の衣装と共に、元グッチ夫人だったパトリツィア・レッジアーノをレディ・ガガが熱演していたのが印象的だった。リアルタイムにこの事件を知る者として大いに楽しめた。

グッチ(Gucci)はイタリアのファッション・ブランドで、バッグを始めたとした皮革製品、服、服飾小物などの商品を展開する企業である。

映画の舞台は1970年代後半のイタリア、ミラノ。
トラック会社の娘だったパトリツィア・レッジアーノ(1948~)がファッション・ブランド、『グッチ』創業者の孫で弁護士を目指していたマウリツィオ・グッチ(1948~1995)に近づく。パトリツィアは積極的にアプローチし、やがて2人は惹かれあっていく。マウリツィオの父ロドルフォ・グッチ(1912~1983)はパトリツィアが財産目当てだと言い結婚に反対するが、2人はその反対を押し切って結婚する。
グッチの実質上のトップだった兄アルド(1905~1990)はパトリツィアを気に入る。
グッチには興味がなかったマウリツィオだが、アルドからの信頼もありグッチ・ビジネスに関わっていく。一方、アルドの息子のパオロ(1931~1995)はデザイナーとして関わっていたが、グッチのイメージとは違うデザインを模索していた。
やがてロドルフォが死去。パトリツィアはブランドを自分の物にしようと企み、女帝のように振る舞い、アルドとパオロの関係を険悪にさせる。パオロがもたらした脱税の情報によってアルドが逮捕されるように仕向け、そのパオロを著作権侵害で訴えるなど、パトリツィアは創業者一族を経営から追い出していく。しかし、ロドルフォからグッチの株を相続する際の署名偽造が発覚し、パトリツィアとマウリツィオにも捜査の手が入る。トラブル続きの中、マウリツィオとパトリツィアは離婚。マウリツィオに経営の才覚がなかったために、グッチの売り上げは低下。外部からデザイナーを迎えて、ブランドのイメージ・チェンジを図ったりするが、結局は外資本にグッチ・ブランドを売却することになる。
パトリツィアは自分の思うようにグッチ家の財産を相続できなかったため、マフィアを雇い元夫のマウリツィオ殺害を企てる。マウリツィオは、ある朝オフィスの玄関先で背後から撃たれて死亡した。
と、こんなところが映画で描かれている事実に基づくストーリーである。

非常に込み入った事情満載のグッチ・ブランドについてもう少し詳しく触れてみる。
創業者グッチオ・グッチ(Guccio Gucci : 1881~1953)はイタリア、フィレンツェ生まれ。英国貴族のファッションに影響を受け、1921年に皮革製品を中心に起業した。フィレンツェの『グッチオ・グッチ鞄店』からその歴史は始まる。レディスの定番バッグ『グッチ・バンブー』は1940年代にここで生まれた。
グッチは『ブランドの元祖』と呼ばれている。世界で初めて品質保証のためにデザイナーの名前を商品に入れたことでも知られる。

初代社長のグッチオ・グッチ亡き後、グッチの所有権は、3人の息子、アルド、ヴァスコ、ロドルフォで均等に分けあっていたが、革新や変化を求める兄アルドと、保守的なロドルフォはビジネス戦略に関して常にぶつかりあっていた。ヴァスコ・グッチは、フィレンツェの工場運営を任されていた。

ロドルフォ・グッチは、グッチの商品のデザインとミラノ店の経営に携わる。彼は、17歳の時にローマで俳優マウリツィオ・ダンコラとして映画デビューした。1953年に俳優業を諦めてグッチ業に専念するが、グッチの洗練されたイメージを創るのに一役買ったのが、ロドルフォの俳優としてのコネクションだった。キャサリン・ヘップバーンやソフィア・ローレンといったセレブリティをグッチの顧客として取り込んだことで必然的にグッチのステータスは大きく向上した。

2代目社長のアルド・グッチはグッチ・ビジネスに一番貢献したと言えるかもしれない。
彼は多くの新しいことにチャレンジしたが、イタリア国内での多店舗展開、パリ、ロンドン、アメリカを始め、海外進出を積極的に行ったのは一番大きな功績と言える。
アルドのブランド・イメージ作りは徹底しており、販売員の教育にまで指示を出していた。「何かお探しですか?」と尋ねてはいけない。客には、「おはようございます。」と声をかけさせ、製品の価格を言ってはいけないというルールも作った。グッチの顧客であれば価格を気にする事はないはずで、その水準に満たない人達は相手にする客ではないと考えた。日本人客については、お金があって謙虚な客と考え、習った日本語で客をもてなしたりしていたようだ。日本進出は1962年に銀座の『サンモトヤマ』とのフランチャイズ契約から始まった。
アルドがバッグやベルトをはじめ、商品に『GG』のモノグラムを用いたのは画期的な事だった。
靴事業もアルドが始めた。グッチを富裕層から一般にも広く浸透させたのは、ローヒールのモカシンによる。新しくオープンさせたニューヨーク店で1年間に2万足売れ、ニューヨークの近代美術館(MOMA)にもモカシンが永久コレクションされ、グッチの評価はアメリカで非常に高いものになった。【*モカシンとは、アメリカ先住民が履いていた一枚革で作られたスリッポンシューズが元といわれるレザーシューズのこと。シューズの甲部分がU字に縫製されている“モカシン縫い”に由来している】
アルドは大統領ジョン・F・ケネディからも『駐米イタリア大使』と称された。ニューヨーク、ビバリーヒルズ他、アメリカ各地に出店し、グッチをアメリカ人が大好きなブランドに成長させた。
1972年には女性をターゲットにした香水、時計の販売も始め大成功を収めた。

グッチ一族の中でも異端の存在だったアルドの息子のパオロ・グッチは、3代目の社長となった。パオロはデザイン・センスに長けていた。
1968年のグッチ初のプレタポルテ(既製服)のデザインもパオロの手による。アパレルにもGGのモノグラムを採用した。パオロは、多くの人達にグッチを着てもらいたいので、セカンドラインやライセンス・ビジネスといった低価格路線をとるべきと考えていた。このパオロの考えは、グッチの『ラグジュアリーなブランド』というコンセプトと相反するもので、同じくデザイン業を担っていたロドルフォの反感も買う。パオロは1980年代までデザイナーを続けるが、デザインは次第に色褪せ、アルド曰く『三流オペレッタ』と言われるほど時代遅れの野暮ったいものになっていった。最終的にパオロは自分の会社を作りグッチを去る。

マウリツィオ・グッチは伯父のアルドにビジネスのノウハウを教えてもらい、パオロの後に4代目社長となる。マウリツィオはプレタポルテ事業を軌道にのせた。グッチのブランド・イメージを刷新するため、1982年にレディス部門のデザイナーに外部からイタリア人デザイナー、ルチアーノ・ソプラニを起用。1990年にはアメリカ人デザイナーのトム・フォードを起用し、1994年からはクリエイティブ・ディレクターに昇進させ、ブランドの近代化を図り『ニュー・グッチ』として蘇らせた功績は大きい。
志半ばで殺害されてしまったが、その後のグッチの顧客は若返り、レディス、メンズ、子供服、スポーツウエア・ライン、靴、ファッション小物、ジュエリー、時計、インテリア、メイクアップ・ライン、香水まで手がけるファッション・ブランドとして大きく成長し、今日の『ニュー・グッチ』に至っている。

パトリツィア・レッジアーノは、マウリツィオの殺害事件後に逮捕され、1999年の裁判で懲役29年の判決を受け18年間服役した。パトリツィアはグッチ一族に戻ることをいまだに夢見ており、映画を痛烈に批判。米PEOPLE誌によると、自身を演じたレディ・ガガに対し「挨拶がなく、常識と敬意がない!」と御冠の様子だそうだ。

グッチは創業家のお家騒動と外資の買収に翻弄された経緯が関係し、フランスの流通大手企業であるPPR(ピノー・プランタン・ルドゥート)の保有会社となった。2011年に系列会社を含めて『PPRラグジュアリー・グループ』に、また2013年より『ケリンググループ』の構成企業となった。現在のクリエイティブ・ディレクター兼デザイナーはアレッサンドロ・ミッケーレで、経営にはグッチ一族の誰も関与していない。

グッチが大好きなジャズ・ミュージシャンがいる。
オスカー・ピーターソン(Oscar Emmanuel Peterson:1925.8.15~2007.12.23) がグッチの大ファンだったことはあまり知られていないが、そのグッチ狂いは信じられないほどである。

ピーターソンはカナダ、モントリオールで生まれ育った。デューク・エリントンにその超絶技巧のピアノ・テクニックから『キーボードのマハラジャ』と呼ばれ、ジャズ史上最も偉大なピアニストの一人である。比較的裕福な家庭に育ち、父親がアマチュアのトランペット & ピアノ奏者だった。ピーターソンもトランペットとクラシック・ピアノを5歳の時に父親から習い始めた。姉のデイジーはクラシックのピアノ奏者。
1949年、ノーマン・グランツにより、ニューヨーク・シティのカーネギー・ホールにてアメリカに進出を果たす。以後の活躍ぶりはめざましかった。1965年ピーターソン、レイ・ブラウン、エド・シグペンによる絶頂期を迎え、1970代にはパブロ・レーベルに多くのアルバムを残した。1993年に脳梗塞で倒れ、歩く事が出来なくなるもリハビリを重ねた。1999年に第11回高松宮殿下記念世界文化賞(日本美術協会主催)を受賞。 その後、まだ左手が不自由ではあったが再びピアノを弾けるようになる。2007年12月、腎不全によりトロント郊外の自宅で死去。享年82。

オスカー・ピーターソンは演奏のダイナミックさに加えて体も大きく、存在そのものが大きすぎてコンサートなどでは服にまで関心がいかない観客が多いかもしれないが、若い頃から非常にお洒落で高品質な物を身につけていた。
ピーターソンは日本にも幾度か来日しているが、1970~1980年代に来日した時、コンサート以外でも直に見かける機会が何度かあった。その時に着ていたスーツ、ゴールドのリング、ブレスレットやカフリンクス。時計はローレックスで上から下までパーフェクトに超一流品だった。あの巨体に合う既製服はあるはずはなく、生地も普通の人の倍は必要だろう。もちろん、すべてオーダー・メイドだ。

1975年に来日した時には誰が見ても一目で『グッチ』と判るような、デニムのシャツジャケット・スーツを着ていた。少し洗いのかかったデニムのシャツジャケットの胸ポケットには、グッチのトレードマークでもある緑と赤の織リボンと小さなホース・ビット(馬具のくつわ)がついていた。そしてジャケットと同素材のパンツとの組み合わせだった。
ポケットについた織リボンの、赤は“情熱”、緑は”浄化”を意味している。ホース・ビットはグッチの代表アイテムのモカシンについているものと同じもの。
その時の写真がないので、どんなシャツジャケットだったか、読者の皆さんにはわかりにくいかもしれないが、シャツジャケット自体は1970年代に大流行したアイテムでもあり、#34.ビル・エヴァンスの中年の危機で取り上げたものとほぼ同じ様なデザインだった。。
現在、似たようなデザインのシャツが販売されているが、これはシャツでありシャツジャケットではない。胸元のポケットのデザインを、参考にして頂きたい。現デザイナー、アレッサンドロ・ミケーレが発表した『オールド・グッチ』と呼ばれている1980年以前にグッチ一族により作られたアイテムを、今の時代にフィットする様に作り直された物の一つである。

デニムは1970年代にパリ・コレクションで大きく取り上げられて以来、さらに幅広いアイテム、年代層にまで拡大していった。
1976年にカウント・ベイシー・オーケストラが来日した際、メンバーの一人だったメル・ウォンゾ(リードトロンボーン)もオフの時にグッチではないがデニムのテーラード・スーツを着ていた。当時ファッションを学ぶ学生だった筆者は、デニムのスーツを着る40~50代のおじさんジャズ・ミュージシャン達の野暮ったいファッションに驚いたのを鮮明に覚えている。デニムは若者のものとして認識しており、マイルス・デイヴィスのように若々しく格好良く着るものだと思っていたからだ。

この頃の、いかにも野暮ったい『オールド・グッチ・ファッション』とピーターソンのデニムのシャツジャケットは重なる。当時のグッチの顧客は明らかに年齢層が高かった。しかし、若い人たちから野暮ったく見られようが、超一流でステイタス性のあるグッチは、ピーターソンが絶対手に入れたいブランドであり、他のジャズ・ミュージシャン達の服とは一線を画し、差をつけたかったのだろう。
ピーターソンは比較的人種差別の少ないカナダで生まれ育ったことから、アメリカ人のジャズ・ミュージシャンに比べ、黒人として差別されることが少なかったようだ。その演奏にも『黒っぽさ』が少ないといわれることもあったが、クラシックのミュージシャンを目指していたために、確実なテクニックを持つジャズ界屈指のピアニストとなった。
グッチは、そんな芸術を極めた人にふさわしいラグジュアリー・ファッション・ブランドだった。ピーターソンの頭の中には、イギリスでもフランスのブランドでもなく、『絶対、イタリアの老舗ブランドのグッチじゃなきゃならない!』という強い思いがあったのだろう。ピーターソンはアフリカ系の自分にはグッチが似合うことも良く知っていたのだと思う。

今や、スーパーリッチでない人達でもブランド品を買う時代だ。グッチの商品はその値段の高さにもかかわらず、ファッション性の高さから世界中の人達、特に若い世代に人気のあるファッション・ブランドになった。ピーターソンと現在の若い人達は、時代やバックグラウンドが全く違う。しかし、ステイタス、特別感のあるブランド『グッチ』を持つ、という意味では意識の差はさほどないような気もする。
『グッチ』は経営者やデザイナーが何度も交代した後も、ブランドの価値やステイタスを確実に維持し、前進しているブランドなのだ。

You-tube リンクは2005年、オスカー・ピータソン・カルテット最晩年のコンサートから<You Look Good To Me>、オスカー・ピーターソン(p)、アルヴィン・クイーン(ds)、ニールス・ペデルセン(b)、ウルフ・ワケーニウス(g)。他のメンバーが黒無地のタキシード着用の中、ピーターソンはグレイのストライプ・スーツ、ピンタックの入ったシャツに蝶ネクタイと白のポケットスクエア。両腕のアクセサリーと時計を見て頂きたい。

<You Look Good To Me>

♫ 関連記事(#34.ビル・エヴァンスの中年の危機)
https://jazztokyo.org/column/jazz-a-la-mode/post-52867/

*参考資料
・『House Of Gucci』公式カタログ
・『House Of Gucci』サラ・ゲイ・フォーデン著
・『グッチの戦略: 名門を3度よみがえらせた驚異のブランドイノベーション 』長沢伸也、小山太郎、岩谷昌樹
*Gucci HP
http://www.gucci.com/
https://www.gucci.com/jp/ja/

竹村洋子

竹村 洋子 Yoko Takemura 桑沢デザイン専修学校卒業後、ファッション・マーケティングの仕事に携わる。1996年より、NY、シカゴ、デトロイト、カンザス・シティを中心にアメリカのローカル・ジャズミュージシャン達と交流を深め、現在に至る。主として ミュージシャン間のコーディネーション、プロモーションを行う。Kansas City Jazz Ambassador 会員。KAWADE夢ムック『チャーリー・パーカー~モダン・ジャズの創造主』(2014)に寄稿。Kansas City Jazz Ambassador 誌『JAM』に寄稿。(2016)

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