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Jazz à la Mode 竹村洋子No. 301

ジャズ・ア・ラ・モード #64.アニタ・オデイのスリーブレス・ドレス&ホワイト・グローブ

64. Anita O’Day’s sleeveless dresses & white gloves
text and illustration (Anita O’Day) by Yoko Takemura 竹村洋子
Photos: In Vogue: Georgina Howell, Pintest, Getty Imagesより引用

アニタ・オデイ(1919年10月18日~2006年11月2日。シカゴ出身のシンガー。
美しい女性だった。ジーン・クルーパのバンドにいた時、あまりに美しいので整形しているのではないかと噂されたこともあったそうだ。

12歳の時、マラソンダンスに参加。ダンス・フロアに投げかけられる硬貨を求めて歌い始めた。1939年ダウンタウンのクラブシンガーになる。1941年、評判を聞きつけたジーン・クルーパに雇われるが、クルーパが麻薬所持の疑いで逮捕されたのをきっかけに、1年も在籍しないうちにウッディ・ハーマン楽団に移る。1944年にスタン・ケントン楽団に移籍するも数ヶ月で退団。アニタはその歌の上手さから人気が出て、ダウンビート誌の『ベスト女性バンド・ヴォーカリスト』にも選ばれるが、1940年代は歌手として、かろうじて家賃を払えるほどの稼ぎしかなかった。

1950年にノーマン・グランツのクレフ・レコード、ヴァーヴ・レコードと契約し、多くのアルバムを発表。1958年ニューポート・ジャズ・フェスティバルに出演し、人気を博す。この時の様子は、ドキュメンタリー映画『真夏の夜のジャズ』で公開されている。
レナード・フェザーによれば、「一流のヴォーカル・パフォーマンスには4つの基本的な要素が必要。」という。「1.声の質。2.表現方法(そのシンガーがどれ程ジャズのフィーリング=感性を持っているか。3.誰と歌うか。4.何を歌うか。」この4つをきっちり理解しているシンガーはビリー・ホリデイ、エラ・フィッツジェラルド、サラ・ヴォーン、カーメン・マクレエ、そしてアニタ・オデイしかいない。」と言っていた。

私生活では2回の苦い結婚生活を体験し、15年間に及びヘロイン中毒に苦しんだが、すべてを乗り越えて、世界に認められる歌手となった。多くのアルバムを残したが2006年、肺炎からきた心不全で87歳でこの世を去った。

アニタ・オデイのシンガーとしてのキャリアは1950年代~1980年代に及ぶが、彼女のファッション・センスは同時代の他の女性シンガーたちと比べると少し違う、と感じている。自分の好みがはっきりしており、聴衆の前で何を着たら良いかをよく知っている。また、1950~1960年代と1970年以降の薬物依存症を克服してからのスタイルは明らかに違う。

アニタのファッションに関する逸話もいくつかある。
1958年ニューポート・ジャズ・フェスティバルに出演した時の装い、黒のドレスと羽飾りのついた大きな帽子、手袋、ミュールをどうやって調達したか、という話は#3.アニタ・オデイのブラックドレスhttps://jazztokyo.org/column/jazz-a-la-mode/post-18660/)で書いた。

デビュー当時の1940年代、女性シンガーには美しさが求められ、彼女らはバンドの華でなければならなかった。(現在でもそうかもしれない?)シンガーたちは常に美しいドレスを着ていなければならず、特にツアー中などに皺になったドレスを手入れする時間も限られており、美しさを維持するのは大変なことだった。(ビリー・ホリデイも同じ事を言っていた。)ジーン・クルーパのバンドに在籍していた時でもそれは同じだった。そこでアニタはドレスを着るのをやめ、男性のバンドのユニフォームを着てステージで歌った。これは当時、画期的な事だった。

アニタの装いを見ると、他の女性シンガーのコスチュームがキラキラ、ゴージャスなのに比べ、ずっとシンプルでモダンなデザインのコスチュームが多い気がする。特に1950~60年代のアニタは洗練されていて美しい。 “シンプル・イズ・ザ・ベスト”といったところだろうか?
ビリー・ホリデイやエラ・フィッツジェラルドのように絢爛豪華なものはほとんどないだろう。スタイルとして多いのが袖のない無地のスリーブレス・ドレス(ノースリーブは日本語)、そして白い手袋。というのがお気に入りだったようだ。
アニタの30代~40代、シンガーとしての黄金期のコンサートの映像や写真、アルバムカバーにも多く見られる。手袋はアニタのシンボルのようなアイテムになった。アニタは短い物も長いものもいくつも白い手袋を持っていたようだ。素材も、シルク、ジャージー、レースなど、いくつかある。

*1950~1960年代のアニタ・オデイの装い

スリーブレスの服というのは本来、あまり上品なものではない。
話は少し飛ぶが、筆者は学生時代、美智子上皇后の専属デザイナーだった植田いつ子先生に師事した。植田先生は、1年中、長袖の黒のカシミアシルクの細番手のニット・セーターを着ておられた。
植田先生曰く、「女性の体の一番見苦しいところは、曲がったところ。すなわち関節の部分、首周り、脇の下、手首、肘、膝、足首。」だからそこが強調して見えないようにするのが、女性を美しく見せるポイントだということだ。ティーンエイジャーのうちはともかく、特に歳をとってからはこのことはとても大事なことだ、と教えられた。
スリーブレスの服は主に若い人のカジュアル・ウエアによく見られたが、近年ではミシェル・オバマ元大統領夫人が好んで着たことが、ファッション業界に一石を投じたかもしれない。年齢層の高いの人たち向けの服にも見られるようになった。
『真夏の夜のジャズ』でアニタが長い腕を大きく広げて歌う姿は、そんなことは関係なく美しかったが。

手袋についてその歴史を振り返ると、13世紀頃からヨーロッパで始まったとされる。16世紀にはその流行はピークになり、イギリスのエリザベス一世が好んで着用したため、王族と権威の象徴とされた。西洋の礼服はキリスト教の儀式に由来していることが多く、肌の露出を抑えることが求められ、それは清純であることを意味した。フォーマルなイヴニングドレスは基本的にスリーブレスだ。そこで、肌の露出が過度にならないように、肘上まである手袋を着用するのが基本である。肘の上まである長い手袋はオペラ・グローブと呼ばれる。
その流れから手袋は、品位と優雅さのシンボルとしてタウン・ウエアにも用いられるようになった。1950年代頃まで、女性のファッションには帽子と手袋がたしなみとしてつきものだった。
セロニアス・モンクをはじめ多くの多くのジャズミュージシャンのパトロン的存在だったパノニカ・ド・ロスチャイルド・コーニグズウォーター夫人が住んでおり、チャーリー・パーカーが亡くなったことでも知られるニューヨークのスタンホープ・ホテルでは、男性客はホテルに出入りするには、スーツとネクタイの着用が求められ、女性客には帽子と手袋の着用が求められていた。1960年代までこの傾向は続いた。

アニタはジャンキーだった。
1958年ニューポート・ジャズ・フェスティバルに出演した時も、「あの時もドラッグをやってたわよ。」と公言している。
アニタは1963年、1975年以後、1978年、1981年など複数回来日している。1970年代に薬物中毒から立ち直り復活。2度目の黄金期を迎える。この頃になると時代も変わり、ファッションもカジュアル化し、単品のコーディネートが中心になってきた。アニタのファッションも変化してくる。シャツ&スカート、パンツのコーディネートも増えている。軽くスポーティーな印象のものが多い。
1975年に現在Jazz Tokyoの稲岡編集長がLAでアニタのアルバムをレコーディングした時のアニタは、髪もブロンドに染め、淡いカラーのシャツジャケットとパンツのスーツで、明るくスポーティーな印象だ。この時代だとおそらくセットアップ・スーツだろう。セットアップとはトップスとボトムスが同素材によるスーツのこと。別々に販売される。

*1970年代以降のアニタの装い

筆者は、あるところで「アニタが来日していた時に長い手袋をしていた。それはヘロイン注射の痕を隠すためだったのではないか?」という噂を聞いた。真偽の程は確かではないが、筆者としては、アニタはファッションとして手袋をしていた、と思いたい。

You-tubeリンクはアニタが1963年に来日した時の映像。<ラヴ・フォー・セール:Love For Sale>シンプルなスリーブレス・ドレスにオペラ・グローブを着用して歌っている。
バックのバンドは、宮間利之ニューハード。
<Love For Sale>

*参考資料
・映画 『真夏の夜のジャズ』
・「Anita O’Day : The Life of A Jazz Singer:」by a film by Robbie Cavolina & Ivan Mccrudden

竹村洋子

竹村 洋子 Yoko Takemura 桑沢デザイン専修学校卒業後、ファッション・マーケティングの仕事に携わる。1996年より、NY、シカゴ、デトロイト、カンザス・シティを中心にアメリカのローカル・ジャズミュージシャン達と交流を深め、現在に至る。主として ミュージシャン間のコーディネーション、プロモーションを行う。Kansas City Jazz Ambassador 会員。KAWADE夢ムック『チャーリー・パーカー~モダン・ジャズの創造主』(2014)に寄稿。Kansas City Jazz Ambassador 誌『JAM』に2016年から不定期に寄稿。

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