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Jazz à la Mode 竹村洋子No. 310

ジャズ・ア・ラ・モード #69「ファン〜ダンス〜ミュージック」(扇子と舞踊と音楽)Part 2.ファン・ダンス

69. Fan, Dance and Music, Part2 Fan dance
text and illustration(fan dancer, Sally Rand) by Yoko Takemura 竹村洋子
Photos : Used by permission of the University of Missouri-Kansas City Libraries, Dr.Kenneth J. LaBudde Department of Special Collections, The Kansas City Public Library,Getty images, Pinterestより引用

キャサリン・モーガン嬢、後のカウント・ベイシー夫人。1930年代

前号#68で扇子について取り上げた。きっかけは、2024年はカウント・ベイシー生誕120年、没後40年にあたり、カウント・ベイシーの自伝『グッド・モーニング・ブルース:Good Morning Blues, The Autobiography of Count Basie As Told to Albert Murray』を読んでいたら、ベイシーの妻であったキャサリン夫人は、結婚前はキャサリン・モーガンというショーガールであり、『ファン(扇子)ダンサーとして働いていた。』という記述があったことからだった。
今回はそのアメリカに於ける『ファン・ダンス』と『ファン・ダンサー』について、焦点を当ててみたい。

カウント・ベイシー(1904~1984)がキャサリン・モーガン嬢を初めて見たのは1930年頃で、キャサリン嬢は15歳くらい。二人は初対面の時はろくに話もしなかったようだが、ベイシーの一目惚れだったようだ。2度目に会った時はベイシーは32歳で、ベニー・モーテン・バンドに在籍し、ニューヨークへ公演に行った時の事だった。この時のことは「彼女はこの頃、20歳くらいのはずで、以前に会った時はホイットマン・シスターズのコーラス・ガールだったが、今やソロで活躍するファン・ダンサーになっていた。」とある。ホイットマン・シスターズにいた頃はカウント・ベイシーとも共演もしたこともあったようだ。

『ファン・ダンス』とは扇子を小道具として使って踊るダンスであり、その歴史は古く、中国から始まったと言われている。中国の扇舞は、文化と芸術に大きな価値を認めた最初の中国王朝、漢王朝時代(紀元200年頃)に初めて登場した。
古代中国では団扇(うちわ)や羽のついた旗などの小道具を駆使しダンスを踊った。これは民間人用の美しいダンスと軍事用の2つのタイプに分けられる。軍事用は、軍隊の兵士の訓練の一つとして始められた。団扇を使って踊る動きが兵士が武器を使う動きの訓練になるからだ。また、軍隊の武勇を誇示する役目もあり、中国人がこの扇舞をアジア全土に広めた。

近代になってファン・ダンスは西洋に伝わった。中国に起源を発する扇舞というより、より華やかでエンターテインメントの域に入る。欧米では『ファン・ダンス』という言葉が定着している。ここでのファン・ダンスは『扇子(せんす)舞踊』と訳すべきではないだろう。
このファン・ダンスに使われた巨大なファンは主としてオーストリッチ(ダチョウの羽根)時には孔雀などもあったようだ。時にはシルバーフォックスなどの動物のファーなども多少は使われていたようだ。アメリカのファン・ダンスのファンはエジプトのものに影響を受けてできたのではないかと思う。
ダチョウはアフリカが原産。エジプトでは柔らかくて優雅な羽根の形が対照的なことから『正義の象徴』として女神や光の神の紋章となったと言われている。孔雀は中国~アジア原産とアフリカ原産の2種類がある。

現在、多くの国々で様々なファン・ダンスのバリエーションがある。ダンスの背景には古典的な物語や神との対話などがあり、見た目に美しいだけではない。西洋のダンスは一種のエロティシズムを表現したものも多い。女性だけでなく男性も踊ることがある。

アメリカでは特に1900年~1930年代にかけて、ナイトクラブ、バーレスク・ショー、見せ物劇場(exhibition theaters)を中心として流行った。また、ファン・ダンサー達は男性社交クラブの余興などにも雇われたりした。ダンサーは官能的な衣装を着て、音楽にのせてファンで自分の体を隠したりちらつかせたりし、あるいは全裸で巨大なオーストリッチの羽根のファンを自由に操りパフォーマンスを行う。その美しさで男性客の目を釘付けにする。
しかし、ファン・ダンスは、ただのエロチックな踊りではない。ファンを操りながら音楽に合わせて美しく踊る高い技術が要求され、それはアートの域に達する。トップダンサーとなれば、ハリウッドスター並みの扱いを受けた。
ハリウッドの女優やシンガー達もこの頃大きなファンを身につけたり手に持ったりして、パフォーマンスを行っていた。

ファン・ダンサーの中で、特に有名で人気があったのが、サリー・ランド(Sally Rand, 本名:ヘレン・グールド・ベック、1904~1979)というバーレスク・パフォーマーだ。ランドは女優でもあった。ミズーリ州エルクトンという街で生まれ、カンザスシティで、父親はアメリカ陸軍の大佐で母親は学校の教師、という極めて厳格な両親の下で育った。

サリー・ランド。カンザスシティで活動していたまだ10代の頃。ビリー・ベック(Billie Beck)と名乗っていた。@@University of Missouri-Kansas City Libraries, Dr. Kenneth J. LaBudde Department of Special Collections

彼女は10代の頃はビリー・ベックという名で、13歳の頃はカンザス・シティでコーラスガールをやっていた。カンザス・シティでバレエを習い、10代のヘレンはハリウッドを目指した。
1920年代にはサイレント映画に出演した時にサリー・ランドという芸名にした。トーキー映画の始まりと共に、ランドはダンサーに転向し、知られるようになる。
1933年の『発展の世紀』と題した『シカゴ万国博覧会』でアメリカン・バーレスクのパフォーマーとして、ドビュッシーの『月の光』をバックに踊り話題になった。
また、野外でのパフォーマンスに使う大きな風船を用いたバブル・ダンスというのも考案した。ランドは公然猥褻罪で何度も逮捕されているが、「彼女のダンスに何か淫らな要素があると考える者は逆に倒錯した道徳感を持っている。」という判事の判断で無罪になっている。ランドのバブルダンスは、立派な芸術作品としても認められたことになる。彼女のダンスは、ファン・ダンスもバブル・ダンスも極めてユニークで美しく、この当時画期的なものだった。ランドは40年に於けるファン・ダンサーとしてのキャリアを持ち、バーレスクの歴史に大きな足跡を残した。後に「パンティを脱いでから仕事が無かったことはなかった。」と言っている。

フェイス・ベーコン(Faith Bacon, 本名フランシス・イヴォンヌ・ベーコン、1910~1956)もサリー・ランドに次ぐ人気のファン・ダンサーだった。
ジャズ・シンガー、女優としても大人気を誇ったジョセフィン・ベイカーも演じていた。他にも現在にわたって、有名な人気ダンサーは何人もいる。ディタ・フォン・ティースは現代のサリー・ランドと言われている。ラスベガスのショーなどで活躍している。

後にカウント・ベイシー夫人となるキャサリン・モーガン嬢は、サリー・ランドの弟子でもあった。ランドから多くを学び、ランドのお気に入りのダンサーで、ランドの舞台の中でソロを指名されたこともあったようだ。
この辺りの事情はカンザスシティ在住のミズーリー大学カンザスシティ校のマー・サウンド・アーカイブスのディレクターであり、『バード:チャーリー・パーカーの人生と音楽』の著者で、歴史家でもあるチャック・へディックス氏がよく教えてくれた。サリー・ランドのカンザス・シティ時代の珍しい写真も提供してくれた。
ファン・ダンサーは当時、シカゴやニューヨークなどの発展した街にあるバーレスク・シアターには大体いた。ベイシー自身も「1930年代はハーレムには一流のダンサーが溢れるほどいた。」と言っている。

日本人には『バーレスク』という言葉があまり浸透していないので、補足しておくが、バーレスク(burlesque)はイタリア語 のburla(冗談、嘲笑)に由来する。19世紀後半から20世紀初頭にヨーロッパとアメリカで誕生したエンターテイメント形式で、コメディショー、風刺やパロディを含む演劇、音楽、ダンス、などで構成されたバラエティ・ショーのことを言う。
イングリッシュ・バーレスクは、評判の良いシェイクスピアやジェーン・オースティンなどの演劇作品や音楽作品をパロディ化や風刺したりする道化芝居が中心だった。
アメリカのバーレスクは、1930年代初頭にはストリップ・ショーに発展して行った。そして現在まで続いている。(バーレスクはあまりに、わい雑なものになっていったため、ある興行師が健全なものにしようとバーレスクとは一線を画し、フランスの演芸形態の一つから名を借りたのが『ヴォードヴィル』と呼ばれ、コメディー、音楽、踊り、曲芸、手品など無関係な一連の演目で構成された寄席演芸ショー、ということになる。)

1920~1930年代はジャズは新しいダンス音楽として、既に流行し始めていた。
ファン・ダンサー達は、ソロで踊る時はクラシック音楽を使っていたりしていたようだが、時代はジャズ。次第にジャズをバックに踊るようにもなっていったが、先に述べたように、ショウ自体も次第にわい雑なものになっていった。

カウント・ベイシーは、ファン・ダンサーだったキャサリン・モーガン嬢と1943年の8月に結婚している。キャサリン夫人には「仕事をやめて家庭に入って欲しかった。」と言っており、実際そうなった。美しく聡明な妻の体を男性の目に晒したくなかったのかもしれない、というのは深読みしすぎだろうか?

筆者は1度だけ、1980年来日時にキャサリン夫人と楽屋で会い、話しをする機会があった。ベイシーがステージで演奏中、バックステージで、バンドの音楽に合わせてリズムをとりながら手鏡を見て髪を直していたのを覚えている。とても明るく美しく、お茶目な人だった。その時はサリー・ランドの弟子だったなどと知る由もなし。

You-tubeリンクの最初は1931年、禁酒法の網目を掻い潜ってニューヨークにスピーク・イージー(もぐり酒場)の“300 Club”を開き“ナイトクラブの女王”と呼ばれたテキサス・ギナンが主催する、貧困層向けボードヴィル慈善イベントのステージでの超貴重なクリップ。サリーランドがゲストで登場している。バックではジャズ・バンドが演奏している。
2本目はサリー・ランドが映画『ボレロ』の中で見せたドビュッシーの<月の光>をバックに魅せる美しい踊り。
最後に、1959年作、有名なバーレスク・ダンサーだったジプシー・ローズ・リーの自伝をもとにした映画『ジプシー』から。ヴィデオクリップの最後で女優のナタリー・ウッドがファン・ダンスを演じている映像。

・ナイトクラブの女王、テキサス・ギナンとファンダンサー、サリー・ランド:QUEEN OF THE NIGHTCLUBS – TEXAS GUINAN with Fan Dancer SALLY RAND 1931

・サリー・ランド、映画『ボレロ』より:Sally Rand’s Fan Dance in Bolero (1934)

・映画 『ジプシー: Gypsy』1956年

*参考資料
・『アメリカ・ジャズ・エイジ』常盤新平:集英社 1971(絶版)
・『サーカスが来た』亀井俊介:文春文庫 1980
・『エイジ・オブ・イノセンス』イーディス・ウォートン、大社淑子役:新潮文庫1993
・Fan Dance: History, Types, Costume, Notable Dancers & More: Cora Harris 2022

竹村洋子

竹村 洋子 Yoko Takemura 桑沢デザイン専修学校卒業後、ファッション・マーケティングの仕事に携わる。1996年より、NY、シカゴ、デトロイト、カンザス・シティを中心にアメリカのローカル・ジャズミュージシャン達と交流を深め、現在に至る。主として ミュージシャン間のコーディネーション、プロモーションを行う。Kansas City Jazz Ambassador 会員。KAWADE夢ムック『チャーリー・パーカー~モダン・ジャズの創造主』(2014)に寄稿。Kansas City Jazz Ambassador 誌『JAM』に2016年から不定期に寄稿。

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