#4 鈴木浩二(レコーディング・エンジニア)
text by Moto Uehara 上原基章
人は如何にしてJAZZと出会ってしまったのか?プロフェッショナルな人々にその原風景を訊ねていく<ジャズ事始め>。第4回は、ソニースタジオのベテラン・エンジニアで筆者のSME在籍時にはマイルスやウェザー・リポート、ハービーなどマスターサウンド・シリーズのリマスタリングやポール・ブレイ&富樫雅彦『ECHO』レコーディングなどの諸作のスタジオ・ワークにおける長年の相棒でもあった鈴木浩二氏(通称:Cちゃん)に登場してもらいます。
―――子供時代はどんな音楽環境にあったんですか?
幼稚園の時にヤマハオルガン教室に通っていて、小学校の3年生からはホルンを始めたんですね。親が割とクラシックが好きで、家でも主にクラシックを聞いているうちに吹奏楽に触れるようになって。そうすると男の子なんで、ポップっぽいのものにだんだん興味が向かっていったんですね。だから自分で初めて買ったのがポール・モーリア楽団。それもホルンが活躍するからという理由でした。
―――最初に触れた楽器がオルガンということは、コードとかハーモニーの存在を幼少期から認識してたってことになりますね。
そうですね、オルガンとかピアニカで発表会に出ていて、そこから管楽器に行ったんですよね。
―――最初に触れたジャズって何だったかは覚えていますか?
中学生の頃になると音楽の情報を得るのはラジオでしたね。夜遅く寝る時や土日の午前中のラジオとかで、一番最初に「何だこれは?」って思ったのが、ジョージ・ベンソンの『ブリージン』でした。あれはギターだけじゃなく、彼のヴォーカルも入ってましたね。その頃にはもうインスト物が好きになっていたんですけど、テクニックに感心させられるだけじゃなく、こんなに感情まで揺らす音楽って何だろう?ってびっくりしたんですね。そこから<ジャズ/フュージョン>というジャンルへの探索が始まったわけです。
―――フュージョンやジャズ系がかかるってことは、FM東京かNHKだよね。J-WAVEはまだ開局していないから。では、鈴木少年のジャンル探索が始まって一番最初に手に入れたアルバムは?
はっきりは覚えていないんだけど、中学生の頃からジャズ・フュージョンへの探求が始まる中で、まずチャック・マンジョーネに意識が行ったんですよ。自分がホルンを吹いていたんで、フリューゲル・ホーンはホルンとトランペットが融合した楽器だというのも大きかったかも知れませんね。最初に手に入れたのは代表作の『フィール・ソー・グッド』。彼のアルバムはほぼ全部買い集めたほど好きでした。そしてバイトで金を貯めで、16歳の時に念願のフリューゲル・ホーンを手に入れ、そこら辺りから管楽器を中心にしてジャズへの興味がどんどん大きくなり、東京FMでオンエアしていた『渡辺貞夫 マイ・ディア・ライフ』を毎週欠かさず聞くことでジャズの知識や情報を増やしていく日々でした。
―――ちなみにホルンでジャズを演奏したことはありました?
ホルンではなかったですね。吹奏楽で若干ジャズっぽいアレンジはあったかもしれないけど、ジャズという意識はありませんでした。
―――いわゆるビッグバンド的というかブラバン大編成的なサウンドですね。
そうですね。でもジャズを好んで聴き込むようになってからは、やっぱり「ソロ」をすごく意識するようになるじゃないですか。それで今度はトランペット吹きたくなって、フリューゲルとトランペットの両方を演奏するようになって行くわけです。
―――それが10代半ばくらい。
16、17歳の頃でしたね。
―――その頃に意識したトランペッターは?
貞夫さんを経由したんで、先ずは日野皓正さんに行きましたね。特に『シティ・コネクション』が大好きでした。
―――イエローキャブの前でフレンチ帽被ったデニム姿の日野さんがジャケットを肩に引っ掛けているいかにもNYっぽい雰囲気のジャケットのやつですね。デイブ・リーブマンとかアンソニー・ジャクソン、デヴィッド・スピノザが参加していて、ホーンやストリングスのアンサンブルがカッコよかったアルバムだ。
日野さんのアドリブまでコピーして吹いてたのを覚えています。僕の双子の兄貴がサックスを吹いていたんで、貞夫さんの「マイ・ディア・ライフ」なんかも仲間とバンドで演りましたよ。日本人アーティストでは貞夫さん、日野さん、あと香津美さんがカッコいい!と感じてました。その他にはアール・クルーもレコードを聴いたりコンサートに行った記憶があります。あとはソプラノ・サックスのスパイロ・ジャイラを聴いた時は管楽器奏者としてもドッキリしました。とにかく70年代後半はフュージョンが流行りだったので、いろんな音と出会いが多かったですね。
―――ライブハウスとかコンサートで初めて行った経験とか最初の頃すごいなと思った記憶は?
サントリーが冠に付いたプーさんと日野さんのコンサートがあって、それが圧倒的に印象が強かったコンサートですね。70年代の最後の頃だったかな?
―――『シティ・コネクション』から『デイ・ドリーム』のあたりですね。それにしても後年にレコーディングやマスタリングで関わることになる日野さんやプーさんとの出会いがこの時期にあったとは、なんたる因縁(笑)。
日野さんがピアノの中に向かってトランペットのベルを向けてブワーッと吹く姿を見て「なんだこりゃ!」みたいな(笑)。もう少年としては衝撃でしたね。
―――ところで、エンジニアになってもう何年になりますか?
1985年にソニーに入ってからだから、もう40年ですよ。
―――10代の頃にレコーディング・エンジニアになろうと志したきっかけはなんだったんだろう?「音作りってすごいな」っていう体験があったのかな?何がきっかけで「こんな音があるんだ」「こんな音を作りたい」なっていうふうに感じたきっかけは何だったの?
高校生の頃からの音楽感があって、先ずはミュージシャンになりたいという夢はあったんですけど、高校時代の友人にアル・ディ・メオラみたいなギターを弾く友達がいて、そいつのバンドが学園祭で演奏するときに「PAをやってくれ」って頼まれたんですよ。
―――それまでにPAの経験はあったんですか?
いや、全く無しです(笑)。で、レンタル機材のPA卓を触っている内に「あ!楽器のチャンネルを一つずつコントロールすることで音楽が出来上がっていくんだ!」と気付いたんですね。それで「なるほど、これは音楽を作る道になるんだ」ということを感覚的に体験しました。そんな時期に有名なエンジニアの吉野金次さんが出した『ミキサーはアーティストだ』(CBS/SONY books)を読んで「ミキサーとしても音楽が創れるんだ!」と思い込んでしまったんですね(笑)。だから16、7歳の時に「自分はレコーディング・エンジニアになるんだ!」と決意したまま、今日までまっしぐらです。
―――高校を卒業して音響系の専門学校には行きましたか?
決意したのはいいけれど「どうやったらなれるんだろう?」と先ずは思いますよね。学校の先生には「大学行け」って言われたんですけど。でも、1980年前後はいわゆる音響系の学校がちょっと流行っていろんな宣伝もしてて、いろいろ調べて「こういうミキサーになれる学校があるんだ」って入ったのが東放学園。でも入った途端にガッカリすることになるんですけど(笑)。一応そこで大したことない勉強して、あとはもう現場にどうやって潜り込むかを試行錯誤して辿り着いたのがソニースタジオというわけです。