JAZZ meets 杉田誠一 #103「セシル・テイラー」
text & photo by Seiichi Sugita 杉田誠一
Monreux 1974
2018年4月5日、フリー・ジャズの創始者、セシル・テイラーが、ブルックリンの自宅で死去。生まれは、クインーズで、1929年3月25日であるから、享年89である。
セシルのピアノが打楽器的だとは誰もが指摘するところだけれども、バルトークやシュトックハウゼンを学んだのは、ボストンのニュー・イングランド音楽院でのこと。
ぼくは、ジャズの歴史を踏まえて、系統樹を教科書的に聴く質ではないけれど、デューク・エリントンとセロニアス・モンクを自ら血肉化してきたことは、確実である。
セロニアスに似て、全く誰のようでもない「間」。デュークに似て、壮大なオーケストレイション。そして、すぐれてパーカッシヴでありながらも、誰よりもよく「うたう」のがセシル・テイラーというわけです。
誤解を恐れずにいうならば、セシルが選びとった楽器がピアノであったことは、賢明であったと断言する。というのは、音楽の3要素=リズム、メロディー、ハーモニーの全てがどの楽器と比べても総合的に優れているから。少なくとも、スケールの大きなオーケストラを表現するには、絶対にピアノですね。
そうそう、「セシルはダリ、デュークはフェルメール、モンクはキリコのようだ」と、坂田明が言っていたっけ。そう、セシルはシュール!!
坂田明を引用するからには、山下洋輔にふれないわけにはいかない。山下自身、『ジャズ』誌のインタビューに「セシル・テイラーほどデタラメではない」と言い放っている。
しばしば、セシルと山下は比較して語られてきたが、はっきり言って以って非なるものである。打楽する者としてピアノを位置付けることとなったのは、セシルの存在をレコードを通して認識したことは、容易に推定できる。
__セシル・テイラーさん、貴方は、ピアノの弦を切りますか?
静かに笑いながら「いえ、切りません」。
とは、1972年のカーネギーホール楽屋での答えである。以って非なるその①は、山下はピアノの弦を切ってしまう。おそらくは意図的と思われる。というのは、1969年2月、山下が森山威男(ds)、中村誠一(ts)、杉本敏昭(b)でデビューした前後、ぼくはピットインでバイトしていた、数少ない目撃者のひとりである。
実は、デビュー前の昼間、数日にわたって、山下は、本田竹彦(p)と弦を切るべく練習に勤しんでいたのである。
弦を切ることがそんなに凄いことでしょうか? 楽器を破壊することことが音楽だろうか?
以って非なるもの、その②は、バップという完成度の高いスタイルの壁を越えられなかった。テーマ→ソロ→テーマの継承に終始したのが後の山下トリオである。確かに各々のソロの部分は、フリーではある。
ここであえて、パーカーを想起してほしい。パーカーが吹くテーマは、いつも同じではなかった。さりげなく曲=テーマを吹いていれも、すぐれてインプロであった。
ぼくの自論では、ここにフリーの原点があるのです。
つまり、バップのテーマ→各々のソロ→テーマという構成において、アドリブ/インプロの部分は、フリーになり得たのだけれども、結局は、テーマからフリーになり得なかったのが山下洋輔である。
そう、セシル・テイラーは、テーマからして、フリーに到達しているのです。
さて、セシル・テイラーがぼくを強靭に魅了するのは呪縛すら覚える肉体的ジャズ・エモーションのほとばしり。ピアノと対峙する姿に、舞踏をすら視るのは、ぼくだけではあるまい。
セシルの母は、バレエ・ダンサーであり、ピアニストであり、バイオリニストでもあった。そして。テイラーは、何よりも詩人であった。
ここに、A.B.スペルマン 中上哲夫訳『ジャズを生きる ビバップの4人』(晶文社)がある。四人とは、セシル・テイラー、オーネット・コールマン、ハービー・ニコルズ、ジャッキー・マクリーン。実は、このディスコグラフィーは、ぼく自身が手がけた。
久々に、読み直してみたい。合掌。