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Jazz Meets 杉田誠一R.I.P. 沖至No. 270

JAZZ meets 杉田誠一 #111 追悼 沖至

text by Seiichi Sugita 杉田誠一

©1974 Seiichi Sugita 杉田誠一 June 07, 1974@赤坂・草月ホール

“突然炎のごとく”、、2020年8月25日、パリの沖至 (tp) が死去してしまった。生まれは。1941年9月9日、大阪。享年78。合掌。

「我々は日本民族である。だから当然日本民族独自のジャズを演奏したいが、しかし、自分が日本人だという民族意識がぼくをさいなむ」(月刊『ジャズ』1969年創刊号)
常に朴訥な影を持ってステージに臨むトランペッター、沖至と出会ったのは1969年初頭。日本のフリー・シーンがその情動性の激烈な逆巻きを果てしなく噴出したときだった。たまさか山下洋輔が再デビューした年。
沖は同年5月、初めてヨーロッパに渡る。

帰国後、さまざまなフリー・シーンを通過し、1974年7月にはパリを拠点とすべく、再び渡欧。翌75年、14ヶ月ぶりに帰国し、76年初頭にはまたパリへ飛び立った。
インタビューは、1976年1月27日、青山「ロブロイ」で行われた。帰国の目的はアルバム『幻想ノート』(OffBeat) の吹き込みであった。

ケニー・ドーハムの
トランペットが流れてきて
なんかわかんないんだけど
すごくいいんだよなあ

__音楽の道に入られたのは?

沖 大阪工業大学で建築学をやってたんですけど、もうその頃、腹の中は決まってた。とにかく自由になりたかったからね。

__ジャズと出会ったのは?

沖 高校時代にブラバンをやっててね。その時、関西学院大学の“クレッセント・フェローズ”というデキシー・グループの生を聞いて、この世にこんないい音楽はないと。
それから本気になっちゃってね。

__最初からトランペット?

沖 中学3年からです。

__音楽的環境は?

沖 おふくろが琴の先生。おやじが尺八で、知らないうちにその旋律が耳についちゃってね。いまでも「六段」くらいは弾けますよ。

__モダン・ジャズをやるようになったのは?

沖 大学でデキシーをやってる頃。ある時、ケニー・ドーハム (tp) が流れてきてね。なんかわかんないんだけど、すごくいいんだよなあ。それから、ジャズ喫茶「バンビ」*に出入りするようになったんです。3年の頃かなあ。大学ではデキシー。ダンモは、楽器屋の2階を借りて、練習してたんです。

*大阪駅近くの「バンビ」は、「スイング・ジャーナル」児山紀芳元編集長(故人)が皿回しをやっていたジャズ喫茶である。

__東京へ出てこられたのは?(ぼくが出会ったアパートは、伊勢佐木町のハズレ)

沖 1965年11月です。きっかけは、日野皓正さんなんですよ。これはすごいと思って。とにかくあの姿勢は素晴らしいですね。

__トラディショナルから入り。フリーのコンセプトを自分のもにするのですが、その必然性というか、きっかけは?

沖 ぼくが、富樫雅彦 (ds) さんのところに入っちゃって、あの“ESSG”(イクスペリメンタル・サウンド・スペース・グループ。富樫、佐藤允彦p、高木元輝ss,ts,b-cl,fl、沖)* だったんです。
ぼくはすごく光栄でしたね。富樫さんとやれて。それからですよ。

*“ESSG”の主な場は、PitInn裏の「ニュージャズ・ホール」。富樫雅彦は、とりわけ沖至に厳しかった。何度も何度も同じフレーズを吹かせているのをしばしば目撃する。

__“ESSG”は、1969年当時のフリーの頂点。それ以降、沖さんは自立していく。映像、詩など他ジャンルとも積極的に対峙していく。
「天井桟敷」のシャドウ・ボクサーとの対峙は、おもしろかったですね。実は、いきなり寺山修司さんから電話がかかってきたのです。誰か、ジャズ・ミュージシャンを紹介してくれないか?とね。

沖 その頃が、阿部薫 (as) との出会いなんです。「天井桟敷」でね。

__芥正彦「産業革命の歌」。
あの阿部薫はすさまじかった。それをピークにその後は転がる石でした。

なぜ、インター・メディアか?
なぜ、詩とジャズか?
なぜ、エレクトリックか?

__他のジャンルと対峙する、その意図するところは?

沖 たとえば、詩とジャズということであれば、ぼくらのサウンドがある。すると突然、詩という異色のものが入ってきて、よりぼくらのサウンドが固まるわけ。それがある種のコミニューケーションとしておもしろい。*

*白石かずこが、セルビアの「スメデレボ金の鍵」賞をとったときのギグがおもしろいものとなった@Bitches Brew。白石は、長い巻き紙に詩を筆でしたため、読んでいく。朗読が終わるころには、部屋中が巻き紙だらけとなった。

__詩とジャズというと、60年代前半におけるビート・ジェネレーションの時点でほぼやり尽くされていると思う。たしかに、吉増剛造は、突出しているとは認めますが。
下手すると、歌伴に対する、「詩伴」になってしまう。
アレン・ギンズバーグ(訳したのは、諏訪優)は、インプロの名手だけれども、日本の詩はほとんどが朗読ですよね。

沖 実は、吉増さんとインター・メディアのステージを創ってみたかったんです。

__インター・メディアとは?

沖 ぼくは、ステージが好きなんです。
エーリッヒ・ブラウワーというウィーン幻想派の人なんですが、その映画に強烈なショックを受けるんです。ああいう空間を創りたい。たとえば、ジャズを踊りをやって、それをビデオにとる。音だけを聴いても、また踊りだけを視ても素晴らしい。それが本物なんですよ。両者を一緒に享受すれば、1と1が2じゃなくて5ぐらいに素晴らしい。

__沖さんは最近、積極的にエレクトリックを導入してますが。

沖 1974年ぐらいから、たまたま楽器屋でペダルをいじくってたらおもしろくてね。

__マイルスは評価する?

沖 恐れ多くてね(笑)。あんまり聴かないしね。

__アイドルは?

沖 自分の誕生日は忘れても、クリフォード・ブラウンの命日は、いつもローソクをあげてやるんですよ。
それだけのものをあの音には感じます。

パリでは月2本
わりとマジな仕事が入れば
ぼくなんか食っていけますね

__最初にヨーロッパに行かれたのは?

沖 1969年5月。
笠井紀美子 (vo)、菅野光亮 (p)、佐藤武則 (as)、池田芳夫 (b)、岡山和義 (ds)と一緒に、ユーゴのリュブリアナとハンガリーのアルバレージオを回ってきました。
とにかく、フェスティバルの雰囲気に圧倒されちゃって。

__ヨーロッパを根拠地=ホームにしたのは?

沖 1974年6月です。

__決意された理由は?

沖 目の前に山があるから、みたいなね。
行かなきゃいけないみたいな気持ちだった。

__生活はきびしい?

沖 もっときびしいです。
仕事の量が少ない。
でも、ギャランティは、日本の5倍はある。月2本、わりとマジな仕事が入れば、ぼくなんか食っていけますね。

__妥協しなくても。

沖 その代わり、自分で走りまわって、仕事の土壌をつくんなきゃいけない。
持ち金が10フランしかなくて、あと10歩ほど歩いたら倒れるなんてこと、結構あります。でも、音を出さなきゃ、生きていけない。

__お住いは?

沖 パリ14区、バレンシア。
絵描きが多い。
練習所は300年ぐらいたった古い地下室を借りています。
近くにスティーヴ・レイシー (ss) も借りています。
*過日、うかがったハナシ。パリの貧民街に住んでいた頃、空き巣に入られた。もう使えないパソコンだけが盗まれが、警察に一応届けを出した。が、この地域はキーを5つ付けなければいけないといわれ、仕方なく、罰金を払ったそうです。何と4つしか付けていなかった。

ヨーロッパの個人主義というのは
ものすごく正解だと思うんだけど
仕事のうえでは仁義がないよなあ

__日常生活は?

沖 いつも10時起床。昼ごろまでごろごろしてて、カフェでビール。
練習所で5、6時間。
11時頃になると、モン・パルナスのカフェ「セレクト」へ。アラン・シルバ (ce) や、モハメッド・アリ (ds) らと会う。

__日本と違って、100%自分の時間?

沖 パリボケが怖い。(笑)
個人主義というのは、ものすごく正解だと思うんだけど、仕事の上では、仁義がないよなあ。
あれは東洋人だけだね。

スティーヴ・レイシーが
いきなり
エリントン・メロディーをやった

__大きなコンサートは?

沖 1番大きいのでは、3日連続で、「怪談」というミュージカルをやった。

__自分のグループでは?

沖 フランス人と組んでるのと、ドイツ人と組んでるのと、加古隆 (p) と組んでる「メッセージ・フロム・ジャパン」の3組で活動してます。

__現場はジャズ・カフェ?

沖 いま、90%がクローズされてます。
「ビルボケ」「クラブ・サンジェルマン」、それからサン・ラやレイシーが出てる「ジブス・クラブ」ぐらいかな。
きびしいですよ。あとは、自主コンサート。

__リスナーの層は?

沖 年齢層は幅広いですね。
人種もまちまち。日本人が1番少ない。(笑)

__ジャンル的には?

沖 パリじゃ、ジャンル分けないですよ。
スタイルよりも、レイシーがやるから来るのですよ。
レイシーがいきなりエリントン・メロディーをやったりしますよ。
何が大事かといったら
リラックスですよね

__久々に沖さんのコンサートで気付いたんですが、悲壮感というか、煮詰まらなくちゃニュージャズじゃないみたいなものから吹っ切れたんですね。

沖 そうであれば、うれしい。

__日本人離れした。(笑)

沖 何が大事かといえば、リラックスですよ。エキサイティングなものをやろうとしたら、その元に必ずリラックスがある。それを忘れたら、単なる意気がりでしかなくなる。

__日本では、フリーを楽しむ土壌がなさすぎる?

沖 パリで「水との対話」*をやったんです。
そしたら、ゲラゲラみんな笑いだした。
やってるうちに、全員静まってくる。
日本は、まじめすぎる。

*「水との対話」といえば、タルコフスキーだけれども、沖至の場合は、ブリキのバケツにアサガオを突っ込んで吹く。
@Bitches Brew 初出演以来の専用バケツがあります。

 

だましたくないなあ。
ちゃんとやりたいですね。

__ミュージシャン同士の交流について?

沖 レイシーとフランク・ライト(ts) は、パワーのありようが違うが、お互いに認めあってますね。

__フランスのミッシェル・ポルタル (as) の動きは?

沖  コンサートにガンガン出てるけど、ショーみたいで、ぼくは、ストム・ヤマシタ (perc) の方がおもしろい。

__フランスの若手の動きは?

沖 注目は、サックスのクロード・ベルナール、ベースのジャン・ジャックですね。
ぼく自身も、ニューとか、フリーとかという意識はないですよ。
ただただ、自分の音楽をやっていくだけです。

__仏での沖さんの評価は?

沖 『ジャズ・マガジン』なんかでも、すぐ能とか禅とかに結び付けられちゃう。

__日本ブームは?

沖 わりと武道なんか盛んなんだけど、段位もない日本人が道場開いたりしてるわけ。だましたくないなあ。ちゃんとやりたいですね。

__不用意に日本の伝統音楽を持ち出したくないということですね。

沖 そんなことは、すぐバレてしまう。

 

ニューヨークへ行って
シェクナーなんかと
やりたいですね

__今後の音楽の志向は?

沖 インター・メディアをやりたいですね。日本では花柳幻舟*さんの踊り。
ニューヨークで、シェクナーとぜひやりたい。

__日本とヨーロッパの大きな違いは?

沖 例えば、フランス人のミュージシャン。9割はへたなんだけど、あとの1割がものすごく凄い。音楽に限らずね。ショックですよ!

__日本のジャズ・シーンに関して。

沖 量より質。
密度の濃いのをやるべきですね。

*花柳流名取、花柳幻舟 (1941〜2019) は、沖至が、最も共演を望んだ、反権力の日本舞踊家である。終始一貫して、金まみれの家元制度を批判。1980年、劇場で、家元を現実に刺す。判決は、罰金刑であったが、「払うのは、バカバカしい」との理由で、自ら選びとって、刑務所に入る。
写真は、出所後、初めての舞台。名古屋「南座」は、由緒ある芝居小屋であるが、花柳幻舟の舞台を最後に幕を閉じる。
しょっぱな、花柳幻舟は、「家元は、殺す価値すらない!」と発言。クライマックスは、僧侶たちの読経との荘厳ですらあったコラボではあった。なお、花柳幻舟 (77) の橋の上からの転落死は、自殺ではないかといわれている。

沖至は、食うべくして、日本の過密スケジュールをこなしていった。
そんなある日、沖至から相談を受けた。「帰りの飛行機代に困っている」と。
久々に出演していただくも、数人の客数。
ぼくは、任された相応のギャラを支払うも、それ以降は、出演していただかなかった。
かつては、まず、Bitches Brewに声がかかったというのに、さびしい限りではある。
心よりご冥福をお祈りいたします。合掌

杉田誠一

杉田誠一 Seiichi Sugita 1945年4月新潟県新発田市生まれ。獨協大学卒。1965年5月月刊『ジャズ』、1999年11月『Out there』をそれぞれ創刊。2006年12月横浜市白楽にカフェ・バー「Bitches Brew for hipsters only」を開く。著書に、『ジャズ幻視行』『ジャズ&ジャズ』『ぼくのジャズ感情旅行』他。

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