JAZZ meets 杉田誠一 #115 追悼 ジョージ・ウィーン
text:Seiichi Sugita 杉田誠一
photo: courtesy of JazzWax
ありがとう!
不世出のプロモーター ジョージ・ウィーン
(1925年10月3日〜2021年9月13日)
享年95。
心よりご冥福をお祈りいたします。合掌。
ぼくがジョージ・ウィーンと出会ったのは、1969年、70年、72年 (NYC)、73年 (NYC)といずれもニューポート・ジャズ祭であり、あのバート・スターンの『真夏の夜のジャズ』で知られるロード・アイランド州ニューポートで出会ったのは、69年と70年。71年が空白であるのは、暴動による中止である。というか、正しくは、プログラムに触手が動かなかったのである。
最もお世話になったのは、70年で、前年の「アサヒグラフ」や「ジャズ」誌が正しく評価され、全面的に取材許可をいただく。おかげで、ルイ・アームストロングの死の1年前(7月4日)、それも貴重な楽屋の取材もOKとなったのだ。楽屋で面白いなと思ったのは、同時期に開催中のスイス、モントルー・ジャズ祭の大きなポスターが飾ってあることだった。
70年のニューポートというと、渡辺貞夫は自己のコンボで、プーさんこと菊地雅章はエルヴィン・ジョーンズのコンボで出演したことが思い起こされる。後者は、当初、弟の菊地雅洋が呼ばれたことは、ほとんど知られていない。どちらも、昼の部の出演で、聴衆はまばらではあった。
ジョージ・ウィーンは、司会者としても広く知られているし、実はピアニストとしてもなかなかの渋い実力者であり、確か70年に、ニューポート・オールスターズのリーダー=ピアニストとして来日公演を行なっている。
70年、ニューポートのジョージ・ウィーンの司会がふるっていた。
「オイ、オイ、日本のチャーリー・パーカーが、一体どうしちゃったんだい!?」
サダナベさんは、8&16ビートのつのだ・ひろを起用し、アルトではなく全ステージ、ソプラニーノで吹きまくったのだ。いわゆるフュージョンの先取りとはいえ、このトークは深く印象に残っている。
司会としては、ノーマン・オコーナー神父をしばしば招いていたのにも感心する。神父は、不良少年にジャズを指導することで知られている。
思い起こすままに、もうひとつエピソードを記しておこう、ジョージ・ウィーンは、ユダヤ人であるが故に、白人偏重だといわれてきた。これはアメリカならではの偏重と言っていいが、たとえば、サド・メル・オーケストラで、何故、サド・ジョーンズとメル・ルイスが双頭。であるかを考えたことがある。
実は、ニュージャージーのサド宅に呼ばれたことがあって、本人に聞いたことがある。
「ヴィレッジ・ヴァンガードのオーナーは、ユダヤ系の実力者なのですよ。だから、ユダヤ系のメルが重要なわけです」。
ジョージ・ウィーンは、あるとき、マスコミに向かって、妻君を紹介したのである。妻君は意外にも“エボニー・クイーン”であったのだ。
本当に、ぼくたちにこの素晴らしいジャズ世界に誘ってくれてありがとうございました。
心より、ジョージ・ウィーンのご冥福をお祈りいたします。重ねて合掌。
*口絵写真は、ジョージとジョイス夫妻 (1970)。