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Jazz Meets 杉田誠一No. 285

JAZZ meets 杉田誠一 #116 追悼 瀬川昌久さん

text by Seiichi Sugita 杉田誠一

2021年12月29日、瀬川昌久さんが肺炎のため、「神の園」に召されました。享年97。
心よりご冥福をお祈りいたします。
合掌。

初めて瀬川邸を訪れたのは、1973年であった。ご近所に草月流の勅使河原邸があり、すぐ分かる。前庭には、広い和風木蓮池が。書斎は、地下にあり、膨大な資料の宝庫である。
実は、1973年で、ぼくが主宰する “Jazz” 誌創刊5周年となる。その特別臨時増刊号「ビリー・ホリデイそしてジャズ・ヴォーカル」の原稿依頼でお邪魔した次第。何故、ビリー・・ホリデイかというと、その年、シドニー J.フェーリー監督「ビリー・ホリデイ物語 Lady Sings The Blues」がダイアナ・ロス主演で公開されるから。
瀬川さんは、東大在学中、学徒出陣で海軍に。敗戦後は氷川丸で、引き上げに専従。50年代に入り、富士銀行NYC支店に入行。
1953年9月26日(土)、カーネギーホールで、ビリー・ホリデイ、チャーリー・パーカー、ディジー・ガレスピー、バド・パウエル、スタン・ケントンの「生」と出会う。以降、52 番街の「バードランド」〜アパートは歩きであった。
あの「真夏の夜のジャズ」のL.I.ニューポートの現場で過ごしている。
瀬川さんは、「好きなように書かせていただけるのであれば、原稿料は結構です」と気諾していただく。貴重なカーネギーホールのプログラムもお預かりする。
ヴォーカル(バンド付き歌手)、ビッグ・バンド、日本のジャズに関して、何時間も傾聴する。そして、それ以降”Jazz”誌のレギュラー・ライターとして招聘することに。この間、瀬川さんは、いわゆる評論、批評をすることは1度たりともなかった。常に、”音楽愛”に満ちての紹介に徹する。
最後に瀬川邸を訪れたのは、35年ほど前である。いわゆるフリーランスも時代、男性誌”TARGET”(辰巳出版)でのロング・インタビューで伺う。ぼくは、瀬川昌久さんのピアノ演奏を初めて目のあたりにする。共演は、高校生の娘さん。楽器はクラリネット。未だ、つい昨日のように思い起こされる。
実は、ぼくが初めてライナーノーツを書いたのはBYG(日本コロムビア)であった。担当ディレクターから後日知ったことであるが、瀬川昌久さんに依頼したら、「杉田さんに書いていただきなさい」と、推薦していただいたと。本当に多々お世話になりました。原稿を大手町の富士銀行に何度も受け取りに行ったものです。
「杉田さん、必ずスーツでいらしゃってください」
本店最上階は、頭取室。瀬川さんは秘書室長であった。いつも、紳士でトラッド/ダンディな方でした。
写真は、2018年6月3 日@Bar Bar Bar, Yokohama。
ボタンダウンと英国レジメンタル・タイで決めている。英軍隊の連隊の数だけお持ちだったそうです。
今晩は、瀬川昌久さん原作の「上海バンスキング」のLPを聴きながら。合掌。

杉田誠一

杉田誠一 Seiichi Sugita 1945年4月新潟県新発田市生まれ。獨協大学卒。1965年5月月刊『ジャズ』、1999年11月『Out there』をそれぞれ創刊。2006年12月横浜市白楽にカフェ・バー「Bitches Brew for hipsters only」を開く。著書に、『ジャズ幻視行』『ジャズ&ジャズ』『ぼくのジャズ感情旅行』他。

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