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Tak TokiwaのJazz WitnessNo. 286

Tak. TokiwaのJazz Witness #07 ロン・カーターの想い出


Photo & Text By Tak. Tokiwa  常盤武彦

 

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1986年の9月、私はロサンジェルスから、グレイハウンドのバスを乗り継ぎ10日間かけて、初めてニューヨーク・シティに降り立った。その夜、まずはボトム・ラインに出演中のラウンジ・リザースをチェックする。当時、日本でも話題になっていた、ジム・ジャームッシュ監督の『ストレンジャー・ザン・パラダイス』や、『ダウン・バイ・ロー』に主演していたジョン・ルーリー(as)が率いるバンドだった。そして午後10時をまわった頃、ヴィレッジ・ヴァンガードへと向かう。そこでは、スティーヴ・キューン(p)・トリオが出演中、メンバーは、ロン・カーター(b)と、アル・フォスター(ds)だ。いつかは訪れてみたいと憧れていたヴィレッジ・ヴァンガードでのレイト・ナイトは、エキサイティングだった。セット終了後、ロン・カーターと少し言葉を交わす。と言っても”Nice to meet you”ぐらいしか話せなかった当時の私だが、日本では、多くのCMに出演して大スターだった彼と、こんなに距離が近いとはと驚かされた。それが、ロン・カーターと私の、現在までに及ぶ長い付き合いの始まりだ。

1988年に留学を名目に、私が拠点をニューヨークに移したのも、この時のアーティストとの距離の近さが理由だろう。日本制作のレコーディングの撮影を手がけるようになると、しばしばサイド・メンとして参加するロンと会うこととなる。若手のセッションに参加したとき、1曲の録音が終わってもコンソール・ルームでのモニター・チェックには加わらず、いつも一人でベースのブースの中で新聞を読みミルクを飲んで超然としていた。「写真は3カットまで」、リーダー・セッションではないと、グループ写真で全て横を向く、などの意地悪もされていた。少し距離が縮まったのは、1990年にルディ・ヴァン・ゲルダー・スタジオで録音したチェロ4本をフィーチャーしたノネットの録音の時だ。終了後、マンハッタンでナイル・ロジャース(g)の撮影があった私を、愛車のサーブで送ってくれる。アメリカでは珍しいマニュアル・シフトの車で、それを訊くと「オートマティックじゃつまらん」と、嘯いていた。ロン・カーターは、1990年代半ばから東芝EMIのブルーノートの姉妹レーベル、Somethin’elseと契約した。まず日本で先行発売され、その後、ブルーノート・レコードから全世界リリースというスタイルだ。ロンは、自らの音楽を深くリスペクトしてくれる日本のレーベルとの契約を選ぶ。私も1998年から、ロン・カーターのアルバムのカヴァー撮影も手がけるようになる。ロンのレコーディングは、いつも朝9時に集合。簡単な確認ぐらいのリハーサルの後に、全てワン・テイクで録音し、午後2時ごろには終了。ランチをとって、ミュージシャンは解散。ロンは、そのままレコーディング・エンジニアのジム・アンダーソンと、ミックス・ダウンを始める。その合間をぬってスタジオの中にセットを組んで、アルバム・カヴァーを撮影したこともあった。そして午後9時ごろには、全て終了、12時間でアルバムが完成する。もちろん、クオリティは高い。予算は2、3日レコーディングにかけられるぐらいはあるはずだが、1日で終わらせる。つまり、ロン・カーターは徹底した合理主義者で、極度に無駄を嫌う。だから「写真は3カット」と言われたのかと、妙に納得した。ロンの流儀に従い、最小カット数で、クォリティの高い写真を仕上げていると、いつしか彼とも打ち解けることができるようになった。深く印象に残っているセッションは、2001年の『When Skies Are Grey…』だ。このセッションの直前に、長年連れ添った夫人が逝去する。すでにニューヨークに来ていた東芝EMIの担当A&R、在ニューヨークのコーディネーターと、夫人の葬儀に弔問に行った。マイルス・バンドの同僚のハービー・ハンコック(p)、ウェイン・ショーター(ts)や、同郷の先輩のトミー・フラナガン(p)らが来ていた。東芝 EMIの担当者が、レコーディングの延期を申し出ると、「いや、ワイフは私がいつも通りのルーティーンを続けていることを、望んでいると思う」と語り、レコーディングは厳かな雰囲気の中、行われた。アルバム・カヴァー撮影は、レーベルから「都会のボサノヴァ」という漠然としたテーマが提示され、セントラル・パークの南東の角にある池のほとりで撮影することになった。朝9時に、プラザ・ホテルのロビーに集合し、撮影開始、9時20分には終了。まさにロンのルーティーンを全うしたプロジェクトであった。

2006年に月刊プレイボーイのニューヨーク特集が組まれた。あと2週間後に担当編集者がニューヨークに来るという段階になって、アポがあまり取れていないから手伝って欲しいという依頼が私にあった。「私がやると、ジャズ・ミュージシャンばかりのジャズ特集になりますよ」と応えると、それでも構わないという。ジム・ホール(g)、マリア・シュナイダー(arr)、スティーヴン・バーンスタイン(slide-tp)、DJロジック(turntable)らとともに、ロンにもインタビューを依頼した。その時に、ロンはマイルス・クィンテットに最初に参加したときのエピソードを語ってくれた。「アトランタのギグに参加しろと、航空券が送られてきた。必死になってプレイして終え、ニューヨークへ帰ろうとすると、マイルスはベースだけ送れという。アトランタから、マイルスのフェラーリを運転して一緒にニューヨークへ帰ったよ」。若き日のロンの緊張する姿を想像すると、笑みが込み上げた。いつもスーツ、カジュアル・ウェアでもビシッと着こなしているのは、おそらくマイルスの影響なのではと思われる。この時の撮影は、バードランドでのスティーヴ・キューン・トリオ。奇しくも、1986年の初めて出逢ったときのトリオを、20年の時を経て撮影することとなった。

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ロン・カーターは、ハンク(p)、サド(tp)、エルヴィン(ds)のジョーンズ三兄弟、トミー・フラナガン(p)、先頃、逝去したバリー・ハリス(p)、ポール・チェンバース(b)、ジョー・ヘンダーソン(ts)、カーティス・フラー(tb)、ペッパー・アダムス(bs)と数々のジャズ・レジェンドを輩出した、アフリカ系アメリカ人が人口の80%以上を占める、ミシガン州デトロイトの出身である。私は2010年から、毎年9月最初の週末のレイバー・デイ・ウィークエンドに開催される、世界最大の無料で聴ける大規模イヴェント、デトロイト・ジャズ・フェスティヴァルの撮影を手がけていた。ロンは、故郷の誇り”Home Coming”として参加している。ベースが大きくフィーチャーされるデュオというフォーマットを、ロンは好むようだ。ニューヨークで2014年にオープンしたジャズ・クラブ”Mezzrow"での、イーサン・アイヴァーソン(p)とのデュオは面白かった。デトロイトでも、盟友ジム・ホールの逝去の翌年の2014年に、ホールの愛弟子、ピーター・バーンスタイン(g)と、絶妙なデュオを聴かせてくれる。デトロイト・ジャズ・フェスティヴァルは、アーティスト・イン・レジデンスというシステムをひいている。デトロイト以外の出身のアーティストを招聘し、フェスティヴァル期間中は3日以上、異なるフォーマットで演奏し、その年の4月から、デトロイトでのクラブ・ギグ、クリニック、プレミア曲の制作など、デトロイトのジャズ・シーンと深く交流し、その活性化を図る。2015年、パット・メセニーが、レジデント・アーティストを務めたときには、トリオ、ゲイリー・バートン(vib)をフィーチャーしたクァルテット、ビッグ・バンドと並んで、デトロイトのレジェンド、ロン・カーターとのデュオも行った。いつもは、ラフなファッションのメセニーが、残暑の9月、ジャケット着用でステージに登場したのには驚かされた。まあ靴がスニーカーなのは、ご愛嬌だったが。ロンの十八番のマイルス・チューンや、ジョビンのボサノヴァ・ナンバーがプレイされた。そして2016年、ロン・カーターは異例ながらデトロイト出身者のアーティスト・イン・レジデンスを務める。オープニング・ナイトは、私が1990年にヴァン・ゲルダー・スタジオで撮影したノネット、翌日はリニー・ロスネス(p)をフィーチャーしたクァルテット。3日目は、2013年に亡くなったマルグリュー・ミラー(p)に代わってドナルド・ヴェガ(p)が参加したラッセル・マローン(g)とのゴールデン・ストライカー・トリオ、最終日は、長年の念願のロン・カーター・グレイト・ビッグ・バンドと、全日にわたってフルにさまざまな側面をプレイした。「故郷の友人たちが、今日のロンは、どんなサウンドを聴かせてくれるのか?そんな期待に応えたいと思った」と語っている。2016年以降も、2019年にパット・メセニーとのデュオの再演、ジミー・グリーン(ts)をフィーチャーしたクァルテットなどで、故郷に錦を飾っている。2017年に私が日本に帰国後も、来日したロンと会う機会があった。2020年の4月にも来日ツアーが予定されていた。同年の3月13日に他界したロン・カーターとともにヒット作を制作したプロデューサー、行方均氏を偲ぶためにどうしても日本へ行きたいと話していたが、コロナ禍によって、その希望は叶わない。世の中が平常に戻り、またあのロン・カーターのちょっとシニカルな言い回しをする甲高い声と談笑し、モダン・ジャズの歴史の重要な一部を担っている、あのグルーヴィーなベース・ラインが聴ける日が、待ち遠しい。

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常盤武彦

常盤武彦 Takehiko Tokiwa 1965年横浜市出身。慶應義塾大学を経て、1988年渡米。ニューヨーク大学ティッシュ・スクール・オブ・ジ・アート(芸術学部)フォトグラフィ専攻に留学。同校卒業後、ニューヨークを拠点に、音楽を中心とした、撮影、執筆活動を展開し、現在に至る。著書に、『ジャズでめぐるニューヨーク』(角川oneテーマ21、2006)、『ニューヨーク アウトドアコンサートの楽しみ』(産業編集センター、2010)がある。2017年4月、29年のニューヨーク生活を終えて帰国。翌年2010年以降の目撃してきたニューヨーク・ジャズ・シーンの変遷をまとめた『New York Jazz Update』(小学館、2018)を上梓。現在横浜在住。デトロイト・ジャズ・フェスティヴァルと日本のジャズ・フェスティヴァルの交流プロジェクトに携わり、オフィシャル・フォトグラファーとして毎年8月下旬から9月初旬にかけて渡米し、最新のアメリカのジャズ・シーンを引き続き追っている。Official Website : https://tokiwaphoto.com/

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