55. モニュメント・トゥ・フリーダム、ジャスティス & カレッジ : Monument to Freedom , Justice & Courage

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55. Monument to Freedom, Justice & Courage; text by Yoko Takemura, 竹村洋子

photos: courtesy of Fanny Alaadeen Dunfee,  Used by permission of the University of Missouri-Kansas City Libraries, Dr. Kenneth J. LaBudde Department of Special Collections, Yoko Takemura

2018年、6月、カンザスシティの友人、ファニー・アラディーン・ダンフィーから、ファニーの亡夫、サックス奏者、コンポーザー、エデュケイターのアーマド・アラディーンがミズーリ州、ジャクソン郡において、公民権運動に貢献した功績を称えられ、カンザス・シティのレオン・ジョーダン・メモリアル・パーク ( Leon Jordan Memorial Park) にあるモニュメントにその名を刻まれるオープニングセレモニーに参列する、というメールがあった。私が9月にカンザスシティを訪れた際、ファニーが、まだまだ暑い中、レオン・ジョーダン・メモリアル・パークに案内してくれた。

ミズーリ州ジャクソン郡(Jackson county)は、ミズーリ州に114(全米では3000以上ある)ある郡の一つで、人口約70万人弱。17の都市で成り立っている。カンザス・シティが政治、ビジネス、文化の中心であり、インディペンデント(郡庁所在地)、レイタウン、グランビュー、リーズサミットなどが含まれる。

『モニュメント・ トゥ・フリーダム・ジャスティス & カレッジ ( Monument to Freedom, Justice & Courage – 自由、正義、勇気)』は、毎年100人、ジャクソン郡において、過去から現在まで、公民権運動、若しくは人種差別撤廃に貢献した人を選び、その名をモニュメントに刻していく、というもの。このイベントは昨年、2018年から始まった。

日本人には肌による人種差別と言うのは馴染みが薄く、公民権運動といっても実際に肌で感じる事はなかなか難しいだろう。ただ、ジャズミュージシャン達のみならず、黒人達が奴隷としてアフリカからアメリカに連れて来られて以来、如何に肌の色だけで差別を受けてきたか、と言うことは見聞きして知っている。

1964年、人種差別の撤廃と人種間の協和という理想を訴えたキング牧師による演説、「I Have a Dream」は良く知られている。実際に公民権が施行されたのは1964年7月2日でここで法の上での人種差別は終わりを告げることになる。

レオン・ジョーダン・メモリアル・パークはカンザス・シティの32th丁目&ベントン通りにある。この辺りはカンザスシティ内でもアフリカ系アメリカ人が多く住む地域として歴史的にも意味を持つ地域である。周囲は住宅地ではあるが殺伐とした地域、という印象を持った。

レオン・ジョーダン(Leon M. Jordan: 1905年5月6日~1970年7月15日)という人はアメリカ人の警察官で、後に民主党の政治家となり、公民権運動に尽力した。“カンザス・シティにおける最も影響力のあるアフリカ系アメリカ人で公民権運動の指導者”とも、“最もパワフルな黒人の政治家”とも言われた。1970年に“ブラック・マフィア”と呼ばれる3人の男達に暗殺された。1975年にジャクソン郡はジョーダンの偉業を称え、銅像を設立した。

2018年の『モニュメント・ トゥ・フリーダム、ジャスティス& カレッジ』のイベントは第1回目で、アート&エンターテイメント、ビジネス、歴史学、宗教、教育、公民権運動などの分野から、最初の100人が コミッティメンバーの投票により選ばれた。選ばれた100人は肌の色を問わないが、黒人の方が数は多いようだ。

今回、アート&エンターテイメントの分野で3人のジャズ・ミュージシャンが選ばれた。
ジェイ・マクシャン( Jay “ Hottie “ MacShann)、先に述べたアーマド・アラディーン(Ahrmad Alaadeen)とパール・ザストン・ブラウン(Pearl Thuston Brown)である。

ジェイ・マクシャンもアーマド・アラディーンも、この『カンザス・シティの人と音楽』のコラムではお馴染みのミュージシャンである。

ジェイ・マクシャン (Jay “ Hootie ” McShann :1916年1月12日~2006年12月7日)

オクラホマ州マスコギー出身。教会に通う信仰心の厚い両親の下、4人兄弟の末弟として生まれる。 レコードやラジオを聴きながら両親に隠れてピアノを独習。ジェームスP.ジョンソンからブルース を、アール・ハインズからジャズのエッセンスを学ぶ。15才の時にドン・バイアス(ts)のバンドで稼いだギャラを持ち帰り両親の認めるところとなる。大恐慌下のことである。生地の周辺で武者修業を続 け、1937年秋、職探しのためネブラスカ州オマハに住む叔父を頼ってバス旅行中、カウント・ベイシー・ビッグバンドを聞くため降りたカンザス・シティで仲間に誘われ腰を落ち着ける。ブルース、ブギウギ、ジャズに通じていたマクシャンがカンザス・シティでポジションを得るには時間がかからなかった。その後、同地をホームグラウンドに活動を続け、客分の身だったが、カンザス・シティを代表するミュージシャンの一人として自他共に認める存在となった。

ジェイ・マクシャンの最大の功績のひとつは、若きチャーリー・パーカー(1920~1955)の異才を見出し、手を差し伸べたことだ。カンザス・シティに居着いて間もなく、マクシャンはパーカーの存在を知る。余りの異能振りに地元のミュージシャンから共演を拒まれていたパーカーを1938年11月、クラブ・コンチネンタルに出演中の自分のテンテットに招じ入れるが、パーカーがドラッグに手を出していることを知り、退団させる。NYから戻ったパーカーを1940年前後にバンドに復帰させるが、 再度ドラッグに耽溺するパーカーを見過ごせず、ツアーの途中で見限らざるを得なくなる。1942年末の事であった。( 『カンザスシティの人と音楽』#Extra:R.I.P. ジェイ・マクシャン: 稲岡 邦彌氏による https://jazztokyo.org/column/kansas/post-4746/参照

1941年にマクシャンがデッカ・レーベルでレコーディングした<Confession’s  the Blues>はビッグ・ヒットとなり、15000枚のアルバムが売れた。これを機にマクシャンはシカゴ、ニューヨークへと本格的に進出し、カウント・ベイシー、アンディ・カークらと共にカンザス・シティ出身のビッグ・バンド・リーダーとしての地位を確立していく。
1943~44年、マクシャンは従軍する。第2次大戦後、マクシャンはビッグ・バンドを再編成する。
1948年、<Ain’t Nobody Business>がビッグ・ヒットとなる。しかし、大きなバンドはツアーをするにも多額の費用がかかり過ぎるため、小さなグループでの活動を余儀なくされる。資金を切り詰めたバンドの経営をロスアンジェルスで数年続けた後、1950年代の初めにマクシャンは再びカンザス・シティに腰を落ち着けた。

1960年代後半にマクシャンはツアーを再開し、ソロ活動や小さなグループ編成で音楽活動をし、残りの人生を埋めていった。この頃、マクシャンはデューク・エリントンに「カンザス・シティでの活動にちょっと限界を感じ始めた。」と告白している。デューク・エリントンの薦めにより、マクシャンは幾度もヨーロッパツアーを行っている。

晩年、マクシャンはカンザスシティを基盤にしながらも、ヨーロッパ、日本、オーストラリア等にも頻繁に出向き演奏をした。(49. レジェンド、ジェイ ”フーティー” マクシャン生誕100年 参照 https://jazztokyo.org/column/kansas/post-3455/

 

アーマド・アラディーン(Ahmad Alaadeen: 1934年7月24日~2010年8月15日)

1934年、カンザスシティ生まれ。6年生の時にサックスを習い始める。同時にフルート、クラリネット、オーボエも始める。レオ・H・ディヴィスというチャーリー・パーカーをも教えた音楽教師について学ぶ。最初のプロとしての仕事は14歳の時、レオ・H・ディヴィスのコンサートだった。メジャーデビューはジェイ・マクシャン・バンドでのバリトンサックスの演奏だった。のちにマクシャン・バンドのテナー・サックス奏者となる。

アラディーンはカンザスシティ・コンサヴァトリー・ミュージックで教育者になるために学ぶ。また、セント・マリー・ユニヴァーシティでもオーボエを学ぶ。

1957年から1959年までは第4陸軍バンドにサックス奏者として従軍。退役後、シカゴ、ニューヨーク、デンヴァー、ヒューストン、サン・アントニオ、セント・ルイスなどを転々とし、演奏活動を続けていく。また、マクシャン・バンドにも参加し、マイルス・ディヴィスやビリー・ホリディ、エラ・フィッツジェラルド、テックス・ベネキー、クロード“フィドラー”ウィリアムスなどと活動を共にする。

1970年の中頃、カンザス・シティに戻ってくる。アラディーンは演奏者としてだけでなく、教育者としての実績を積んでいく。1980 年代の初めにチャーリー・パーカー・ファウンデーションに参加、1980年から1990代後半までパセオ・アカデミーで教鞭を執り、多くのミュージシャン達の育成に当たった。後に世界に羽ばたいたミュージシャンの中には、ハロルド・オニール(p.1981年生まれ)、ケヴィン・マホガニー(vo.1958~2017) ローガン・リチャードソン(sax, 1981~)などがいる。ボビー・ワトソン( 1953~)も正式な生徒ではなかったが、アラディーンから多くのことを教わったようだ。

アラディーンは2010年に生涯を終えるまで、自己の演奏活動も行いながら、カンザスシティに於いて、肌の色、性別関係なくミュージシャンの育成に尽力した。

その功績を讃えられ、カンザスシティ・ジャズ・ヘリテージアワード、ミズーリ・アート・アンド・カンザスシティ。ライフタイム・アチーブメント・アワードなど数多くの賞を受賞している。

パール・ザストン・ブラウン(Pearl Thuston Brown : 1927年8月~2011年8月27日)

1927年8月カンザスシティに生まれて育つ。父親はピアノプレイヤーだった影響もあり、6歳の頃からピアノを始める。父親にかなり期待され、素晴らしいピアニストになると、期待されていたようだ。12歳の時にカンザスシティに来たビリー・ホリディに会い、シンガーをも志す様になる。

その後、20代にプロデビュー、40年代~50年代にかけてはライオネル・ハンプトン楽団やデユーク・エリントン楽団に在籍し、ニューヨークのサヴォイ・ボールルームなどで歌っていたようだ。
パール・ザストン・ブラウンについての情報は極めて少ないが、プロのシンガー・ピアニストとしてのキャリアは60年、そのうち30年はツアー生活だったようである。
晩年はカンザスシティに落ち着き、地元ミュージシャン達と一緒に演奏活動をしていた。

ほとんどの黒人ミュージシャン達は人種差別の厳しい時代に生き抜いている。また、マックス・ローチ、アーチー・シェップ、アルバート・アイラーなど、多くの前衛的な黒人ジャズ・ミュージシャンは公民権運動に深く関わっていたことが知られている。

マクシャン、アラディーン、パール・ザストンの3人が、実際に公民権運動に具体的に関わっていたという記録は、いろいろ調べたが見つからなかった。

アラディーンが第4陸軍バンドに在籍していた頃の話がある。第4陸軍バンドというのは大統領や4つ星のジェネラル(大将、将官)の為のエリートバンドだった。バンドメンバーは20人以上、全員白人でアラディーンが唯一の黒人メンバーだった。バスで移動中、レストランに立ち寄ることも度々あった。当時は白人、黒人と食べる場所も別れており、黒人は正面ドアからのレストランには入れなかった。他の白人メンバーは食べ物をアラディーンの為に持って来てくれたが、彼は人種差別にプロテストして食べることを拒否していた、という話はパートナーだったファニー・アラディーンに聞いたことがある。

今回のジャクソン郡の『モニュメント・ トゥ・フリーダム・ジャスティス& カレッジ』に選ばれた3人は、公民権運動を積極的に行った、という事よりも肌の色、性別を問わず、アフリカ系アメリカ人の活動の場を広げ、社会に貢献した。という意味合いが強いようだ。

「ジャズはいかなる人種や文化に帰属するのもではなく、アメリカが世界に与えた贈り物だ。」と生前のアラディーンは言っていた。

キング牧師の「I Have A Dream 」以来、約55年経った今、アフリカ系アメリカ人がいかに自分達の自尊心を取り戻したかは、周りを見ても明らかだ。だが、現在もカンザス・シティを含めて全米各地で人種差別的感情からおこる暴力、発砲事件は後を絶たない。

竹村洋子

竹村洋子

竹村 洋子 Yoko Takemura 桑沢デザイン専修学校卒業後、ファッション・マーケティングの仕事に携わる。1996年より、NY、シカゴ、デトロイト、カンザス・シティを中心にアメリカのローカル・ジャズミュージシャン達と交流を深め、現在に至る。主として ミュージシャン間のコーディネーション、プロモーションを行う。Kansas City Jazz Ambassador 会員。KAWADE夢ムック『チャーリー・パーカー~モダン・ジャズの創造主』(2014)に寄稿。Kansas City Jazz Ambassador 誌『JAM』に寄稿。(2016)

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