風巻 隆「風を歩く」から vol.29 CD『Return To Street Level』
text & photo:Takashi Kazamaki 風巻 隆
1989年にミュンヘンからギタリストのカーレ・ラールを日本に招聘して、二人でツアーを行った。東京ドイツ文化センターの協力を取り付けてホールをコンサートに使わせてもらうことになり、また、カンバセーションというミュージシャンの招聘を行っている会社に協力していただいて興行ヴィザを取得することもできた。ジーナ・パーキンス+ケイティ・オルーニーとのツアーでは列車で移動し、駅の階段などで大変な思いをしたのだけれど、カーレとのツアーからは三鷹で一緒に暮らすパートナーの実家から自家用車を借りてきて、成田空港にも迎えに行き、また、ツアーの移動も全て車で行った。
それまで85年のダニー・デイビスとのツアーなどでも青春18キップを使って鈍行を乗り継ぐというのが、ボクのツアーのスタイルだった。77年秋に一人で沖縄・八重山へ行き竹富島の種子取祭をフィールドワークしたとき、台風の影響で予定していた東京行の船に乗れず鹿児島へ船で渡り、西鹿児島から鈍行を乗り継いで横浜・菊名まで二日間かけて旅をしたことがある。その際多くの人と出会い、さまざまな人生に触れることができたこともあり、ツアーの度に鈍行を乗り継いでいたのだけれど、それまでのスタイルから抜け出して、新しいことを始めるというのがカーレ・ラールとのツアーだった。
「ドイツ文化会館ホール」のようなホールで演奏するのも珍しかったし、この時はチケットセゾンやチケットぴあの取り扱いもあった。どれだけチケットが売れたかは忘れたし、おそらくほとんど売れなかったと思うけれど、この時は少し背伸びをして普通のコンサートをやってみたかったのだ。Vedda Music Workshopで即興演奏のキャリアを始めたようなボクは、これまで東京のアンダーグラウンドな音楽のコミュニティーの中にいたし、「音の交差点」という自主的なコンサートを明大前の「キッド・アイラック・ホール」で続けながら自主製作のLPを作るなどオルタナティヴな音楽活動をずっと続けてきた。
87年の半年間、ニューヨークで音楽活動を続け、88年には西ドイツのDossierレコードからLP「143 Ludlow st. NYC」というサム・ベネットとジーナ・パーキンスとのそれぞれのデュオをA面とB面に配したレコードを制作した。88年にはヨーロッパへソロツアーに出かけ、ミュンヘンでカーレ・ラールと共演し、89年にはカーレ・ラールを日本に招聘しデュオでツアーを行う。ツアーが一段落し三鷹の自宅で一緒に夕食を食べテレビでニュースを見ながらくつろいでいたら、ベルリンの壁が崩壊するというとんでもない映像が飛び込んできた。時代が変わる…、そんなことをボクらは一緒に感じていた。
ちょうどその頃、音楽を取り巻く環境にも大きな変化が起こっていた。アナログからデジタルへの移行である。それまであたり前だったLPレコードがCDに置き換わり、スタジオでのレコーディングもオープンリールの磁気テープからDATというデジタルテープに置き換わっていた。カーレとの日本ツアーを無事終えたボクらには、今度はニューヨークへ行ってみようかという計画が持ち上がっていて、90年4月に、「Roulette」という87年にトム・コラとデュオで出演したことがあるスペースでのコンサートが決まると、4月~6月にかけてカーレ・ラールとニューヨークへ行き、共に演奏活動することになる。
ニューヨークへ来てはじめの3週間は、ヨーロッパツアーに出かけている友人のトム・コラの留守宅のロフトで過ごしていた。そこは、倉庫を改装したような天井の高いスペースで、ドラムの練習や、ミュンヘンから来たカーレ・ラールと一緒にリハーサルをすることもできた。トライベッカと呼ばれるエリアでチャイナタウンからも近く、新鮮で安い野菜や魚、麺類や玄米、タイの調味料のナムプラーなどを買ってきては自炊を続けてきた。天井から吊り下げられた電球にちょうちんのランプシェードがかかっていて、金魚のすだれ等がインテリアに使ってある東洋趣味も、気分をアットホームにしてくれる。
4月9日、肌寒いJFK空港で震えながらバスを待ち、次の日ジーンズショップで1ドルのジャケットを買って始まったニューヨーク生活。初めの一週間は思いがけない寒さだったけれど、エリオット・シャープと電話で連絡がとれ、幸先のいいスタートを切る。ギターとバスクラのエリオットには、カーレとボクのレコーディングのプロデュースをお願いした。彼を含め、ターンテイブルのクリスチャン・マークレイ、チェロのトム・コラ、コントラベースクラリネットのポール・ハスキン、ギターのニック・ディコフスキーをゲストに迎え、6月9日、ダウンタウンの「 Baby Monster 」というスタジオで録音することになった。
6月1日、ギターのドグ・ヘンダーソンの紹介でブルックリン・ラファイエット通りのアパートへ引っ越す。近くにBAMと呼ばれるブルックリン音楽学校がある閑静な住宅街だ。地下鉄の駅からアパートへ行く途中に、中華料理のテイクアウトの店がありよく利用していた。9日、ブルックリンから地下鉄に乗り、Broadway-Lafyette駅で降りて、古いビルの5階にあるスタジオまでエレベータがないので楽器をかついで登っていく。「Baby Monster」というスタジオは、狭いながらに落ち着く場所で、楽器をセッティングし、ドラムをチューニングしたりしていると、録音に参加するミュージシャンが次々と現れる。
レコーディングは12時から20時まで続くかなりの長丁場。ボクとカーレのデュオを軸にして、それぞれのゲストとのトリオを中心にエリオット・シャープとクリスチャン・マークレイ、トム・コラとポール・ハスキン、ニック・ディコフスキーとエリオット・シャープ、トム・コラとクリスチャン・マークレイとのカルテットなど、組み合わせをさまざまに変えながらレコーディングを続ける。演奏はどれも短く、1分から4分、クリスチャン・マークレイのターンテイブルのカットアップ、カーレ・ラールや、トム・コラのサンプラーがさまざまな音色を引用しながら、1990年のニューヨークの斬新な音楽が次々と録音されていく。
このときのボクのタイコは、カムコという古いメーカーの木製のドラムを改造し、椅子に座ってドラムに近い叩き方で叩いていた。それは、即興であることに依りかからず、作品としての形を作ることを意識したような演奏だった。このときのセッションは、それぞれのミュージシャンのさまざまな音楽へのアプローチが瞬時で次々と形を変えていき、短いスパンの中で濃密な音楽をどんどん作っていく…、そんな演奏が続いた。87年に「Noise New York」でトム・コラをエンジニアにスタジオワークをした経験がいき、ニック以外は旧知のミュージシャンで、ボクはそこで伸び伸びと自分の音楽を展開できた。
このレコーディングセッションから30曲を選び、順番を並び替えて、64分28秒のCD「RETURN TO STREET LEVEL」というアルバムとしてドイツEar-Rational レコードからその年の秋にリリースすることになる。短い曲は0分57秒、長い曲でも4分40秒というこのCDは、ある意味で断片を寄せ集めてコラージュした作品だ。短い曲が次々と繰り出される疾走感や、今演奏した音楽を次の瞬間には異化していくような即興演奏は、ニューヨーク・ダウンタウンの「新しい音楽 (New Music)」と呼ばれる音楽の一つの潮流でもあったし、CDというメディアやデジタルな録音技術がそれを後押ししてくれた。
もちろんスタジオでのレコーディングはデジタルのDATになったけれど、それを再生する機材をボクはその頃はまだ持ってはいなかったので今まで通りカセットテープに落してもらい、その音源を何度も何度も繰り返し聴きながら、CDの曲順を考えていった。おそらくスタジオでは50~60曲はレコーディングしただろう。その中から60分を目途に順番をあれこれ試しCDの形を作っていったのは東京へ帰ってからのことだった。ただ今までにないような音楽が出来てくるだろうという予感のようなものはあったし、実際、参加してくれたミュージシャンはテンションの高い素晴しい演奏を披露してくれた。
エリオット・シャープはCARBON、トム・コラはCURLEW、ニック・ディドコフスキーはDoctor Nerveといったバンドで活躍するロック系のミュージシャンだ。この頃のニューヨーク・ダウンタウンの新しい即興音楽を支えていたのはおもにロック系のミュージシャンだった。もちろんそれは音楽家として生計を立てる一つの手段でもあったのだろうが、トム・コラがインタビューで「バンドで構成音楽をやる一方で、即興音楽をやっていくことが面白いんだ。」と言っていたことを思い出す。彼らは皆、2分~3分という短い時間の中に、さまざまなアイデアを凝縮させ、ボクが繰り出す変てこなリズムとともに、一緒に短い作品を形作っていった。ニューヨーク発の「新しい音楽」が一番輝いていたころの、それは貴重なドキュメントだった。