風巻隆「風を歩く」から Vol.31「ヨーロッパ・ツアー 1990」
text by Takashi Kazamaki 風巻 隆
静かな午後だ。11月1日、ドイツでは「諸聖人の日」という祭日で、ここミュンヘンのオストバンホフ(東駅)の近く、ヴァイセンブルガー通りの商店は全部閉まり、木枯らしの吹く道を、老夫婦が肩を寄せ合って歩いていく。昨夜、「MANEGE(マネイジ)」というスペースでコンサートの後に飲んだワインの酔いが、まだ体のどこかに潜んでいるらしく、何もすることがないのをいいことにその気だるさを心地よく思っている。ミュンヘン空港に降り立ったのは10月3日、その日は東西ドイツが再統一する戦後史の転換点となる日だったが、以来、ここに住むギタリスト、カーレ・ラールとツアーを続けている。
昨年11月、ベルリンの壁が崩壊したというニュースをボクとカーレは三鷹のアパートで見て、彼は「とても信じられない」と言っていたのだけれど、それから1年、今度はボクがヨーロッパに来て、あたり前のように東欧・ハンガリーのブタペストにまで足を伸ばした。カーレの運転する車に二人の楽器や機材、身の回りのものを詰め込んで、まずは、オーストリアのウィーンでギャラリーをしているカーレの友人宅へ向かう。その後、ハンガリーとの国境に近いニッケルスドルフにある「Falb」というカフェのJAZZGALERIEでコンサートをしたあとブタペストへと向かい「TŌLGYFA」ギャラリーでライブをする。
ブタペストでの休日には、コンサートの主催者の一人で劇団の演出をするイルディコという知的な女性に連れられて、エゲルというワインの産地へ行き、丘の中腹に横穴を掘って作ったようなワイン蔵を案内してもらう。木の樽が整然と並び、手作りでワインをつくっているような木の桶や、木製の圧搾機などもそこにあった。このワイン蔵の主といった風貌の老人がガラス製のスポイトのようなもので樽から少量のワインを取り出して試飲させてくれる。それは年代物の貴腐ワインで今まで飲んだこともない濃厚で深みのある味がした。その古酒を買い求め、用意していた容器に入れて持ち帰った。
ボクらはブタペストからの街道を車でひた走り、途中、パプリカの産地の屋台でパプリカを買い、生でかじったりしながらいったんミュンヘンに戻ってくる。そして今度は、オランダのアイントホーヘンと、ベルギーのゲントへ行き、「HET APOLLOHUIS」と「LOGOS」でデュオのコンサートを行う。ベルギーのゲントでのデュオの後、ブリュセル「Palais des Beaux-Arts(パレ・デ・ボザール)」での「PERCUSSIO」という国際的なパカッション・フェスティバルにボクは出演しソロで演奏する。ミュンヘンに戻ると今度はアルプスを越えてイタリアへ行き、ボローニャで「Ketty DÕ」というカフェで演奏をした。
カーレの乗用車に楽器と機材と旅の荷物を載せ、アウトバーンを疾走する長旅がここのところ続いている。ウィーンではカーレの友人でギャラリーを営むデイジーにお世話になり、ブタペストでは、ラズローとイルディコ夫妻のお世話になった。イタリア・トスカーナのパンザノというキャンティというワインで有名な村へ行き、山の中腹にあるカテーロの家にしばらく滞在していたこともある。そこに2歳ぐらいのソフィーという女の子がいて仲良しになる。手をつないで近くの牧場に馬を見にいき、かくれんぼなどもした。それぞれの場所でカーレの友人達と、味わいの違う赤ワインを楽しむ旅でもあった。
ひと月ほどのカーレとのヨーロッパツアーを無事終えて、昨夜はご当地ミュンヘンでのコンサートが行われた。カーレとボクに加え、地元のオーケストラで活躍するクラシック畑の女性トロンボーン奏者アビー・コーナント、チューリッヒからサックスのクリストフ・ガリオ、シュトゥットガルトからベースのアレクサンダー・フランゲンハイムを迎え、5人編成による「FREE LITTLE BIG BAND」での演奏になった。会場は「MANEGE」という、倉庫を改装したようなスペース。ステージ、壁、床、椅子とほとんどが黒づくめ、バーの近くの数個のテーブルだけうす緑色になっていて裸電球に照らされている。
ドイツの秋特有の鉛色の空が広がり、朝から冷たい雨が降って、雪になってもおかしくないほどの底冷えがするなか、夜9時頃からポツポツとお客さんが集まってきて、コンサートが始まる10時頃には50人ほどになっていた。5人のミュージシャンがさほど広くないステージに上がる。アビー・コーナントの大きな背中がスポットライトをさえぎるなか、彼女のトロンボーンから静かに演奏が始まった。クラシック畑の人だけれど楽器の表現力が素晴らしく、思いもかけないような音色まで吹きこなす。こういう人のことを、ヴァーチュオソと言うのだろう、控えめに、しかし確実な形で演奏をリードしていく。
準備の段階から苦労人らしさを見せていたカーレ・ラールは、ホームグラウンドの気安さからか、いつもよりリラックスしているようだ。エレキギターとアクースティックギター、それに四弦の小さなギターと三本のギターを使い分け、サンプラーからノイズや音の断片を引用しては共演者に刺激を与えていく。ソプラノとアルトのサックスを吹くクリストフ・ガリオは繊細な音使いと、演奏に向かっていくまっすぐな姿勢が印象的で、今回も、サックス奏者特有の押しと引きをうまく使い分け、絶妙のタイミングで演奏に加わってくる。力強くはないけれど、周りの音をよく聴いているということがひしと伝わってくる。
ベースのアレクサンダー・フランゲンハイムは、ヨーロッパ・フリーミュージックの影を残し、靄の中を漂うような一定の雰囲気をキープしていたかと思うと、高音を弓できしませてくる。けして憎めないいい奴なのだけれど、その性格そのままの演奏をする。五人の演奏は、一部50分、二部40分という長いセットの中で、それぞれの音がたゆたっていく。広いホールに拡散していく雑然とした音をつなぎとめ、たえず変化していく音の形象に、メリハリといったものを付け加え、わかりやすいリズムを導入し、即物的なもの、俗っぽいものさえ取り込んでいくこと…、ボクは、そんなことをイメージしていた。
春にニューヨークへ行った際にドラムの内部へ取り付けるMAYというマイクを見つけ、タムタムの中に仕込んだことで、大きいホールでも音色の変化や倍音のコントロールをうまく伝えることができるようになった。また、最近は演奏をしている自分と、演奏される音楽の間にある距離のようなものを感じるようになった。演奏をしながら、自分でも驚くほど覚めていて、冷静でいる分いろいろなアイデアが浮かんでくる。それは、具体的なリズムだったり、突拍子もない演奏法だったり、エンターテイメントだったりするのだけれど、そのどれも、音楽を作ることを楽しみたいという気持ちから現れてきている。
前後半、トータルで90分、とりとめのない混沌とした雰囲気から、様々な音楽の生成を予感させながら、ボク達の演奏は終結していった。即興というものへの信頼といったものより、むしろ、新しい音楽を作ろうとする音楽に対するアプローチの共通性と、そのゆるぎなさといったものを楽しみ、共に育んでいた。ギターのカーレ・ラール、サックスのクリストフ・ガリオとは後に、エストニア、タリンのギタリスト、マルト・ソーとトロンボーンのエドアルド・アクリンとともに「ENSEMBLE UNCONTROLLED」という即興アンサンブルを作ることになるのだけれど、この時のコンサートがその原点となっている。
カーレの住むヴァイセンブルガー通りはミュヘンの中心部からイザール川を越えたところにあり、ときどき川まで出かけ、色づいた木々や水量の多い川に癒される。11月になるとさすがに肌寒く、夜には薪のストーブを焚く。ときどきもれるパチパチという音とかすかな木の香りが、やわらかな暖かさとともに部屋に広がっていく。静けさの中で遠くに耳を澄ます…、そんな夜が、ここヨーロッパにはまだ残っている。6月にニューヨークで録音した演奏がドイツのEAR-RATIONALからリリースされることになり見本盤を聴く。ボクの選曲より1曲トラックが増え、曲間にノイズも残っていて残念な思いがする。
しばらくミュンヘンに滞在した後、11月22日からは舞踏家の徳田ガンさんの「死者の谺(こだま)」という作品によるドイツ・ツアーに合流する。ただ、シュトゥットガルトでベースのアレクサンダーがセッティングした初日の公演はBUTOHではなく、美術家、音楽家、舞踏家が共演する即興的なパフォーマンスだった。K.R.H.ゾンダー・ボルクさんは戦争で右手を失い左手で床の紙に墨を叩きつけるアクション・ペインティングの大家だ。トロンボーンのギュンター・クリストマン、そしてカーレとアレクサンダーとボクが演奏に加わり、ガンさんがダンスで参加し「Das Unbekannte Ties」というカフェで公演した。
「未知の絆」という意味のこのカフェの名前にふさわしく、何の打ち合わせもなく、お互いを紹介しただけで臨んだ即興的なパフォーマンスは、墨汁をいきおいよく紙に流すゾンダーボルクさんのスリリングな行為の緊張感に引っ張られるように進み、籠を背負って登場したガンさんが赤い玉を床にブチまけて場をなごませ、即興音楽とパフォーマンスがパラレルに展開していった。それぞれがそれぞれの場所にいながら、誰が主役で誰が脇役かといったこともなく、誰もが個の表現といったものを推し進め、風通しの良い空間で「未知の絆」という場に、創造のうねりのようなものを作り上げていった。
ヨーロッパを本格的にツアーしたのは90年秋がはじめてだった。カーレの車に乗って田舎道を走っていると、なだらかな丘に畑が広がり、ただ一本の並木道がどこまでも続いている…、そんな光景によく出くわした。その頃はまだユーロも無かったので、国境を越える前に小銭を使い切り、国境を越えるたびに両替しなければならなかった。それでも、近代的なアウトバーンだけではなく、古くからじっと佇んでいるような道が、国境を越え、町と町を、人と人をつなげてきたことがよくわかる。古い映画の中に出てくるような「道」の光景が、いつまでも目に焼きついて離れない…、そんな思いでいた。