風巻隆 エッセイ「風を歩く」から Vol.8 〜放浪の旅へ

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photo above @青森「だびよん劇場」©坪谷昭夫

text by Takashi Kazamaki  風巻 隆

1982年7月5日夜、吉祥寺で一人暮らしをしていたアパートが火事で全焼した。その日は、新宿の「JAMスタジオ」でGESOさんたちの「涙のラーメンカルテット」のライブがあり、ボクはそのバンドで、<二ルリリヤ>などの曲を珍しくストレートなドラムを叩いていた。高円寺の友人宅で飲んで雑魚寝をし、次の日の朝、眠たい目をこすりながら、仕事に間に合うように吉祥寺のアパートへ帰ったら、何だか人だかりがしていて、知り合いの不動産屋のオヤジさんが、「いたいた、生きてたよ。」と言うので何だろうと思ったら、住んでいた木造の古いアパートが、その時はもう真っ黒こげに焼け落ちていた。

吉祥寺に住み始めたのは1980年の1月、その頃、南口の丸井の近くに「羅宇屋」というインド音楽/民族音楽のレストランがあって、そこの若林忠宏さんからボクはタブラという北インドの打楽器を習っていた。「やぶ浅」というそば屋さんでバイトをしながら、五日市街道と中央線が交差するあたりに4畳半の部屋を見つけ、そこで一人暮らしを始めた。80年、81年と羅宇屋の「民族音楽教室」の面々と北インドのラクナウへ出掛け、「バテカンデ音楽大学」のサマーコースや、個人レッスンでタブラを習い、またタブラやパッカワージという両面太鼓を買ってきていた。それが全て灰になってしまった。

その頃には、毎週水曜日の「羅宇屋」のライブで、若林さんの伴奏もしていたのだけれど、インドで買ってきた楽器や、貴重な録音テープなど多くのものが灰になってしまい、ボクはそのショックもあってインド音楽からは離れていくことになる。それこそ、ほとんど無一物になってしまったのだけれど、演奏に出かけていたので無事だったタイコと、ディストリビューションをお願いした地引さんの家に預けておいた自主製作のLP「風を歩く」が焼けずに残ったことは、ボクの気持ちを前向きにさせた。そば屋の出前の仕事はしばらくやめ、友人の家を転々としながら、あらゆるツテを探してツアーを計画した。

80年頃から、ボクは、友人やジャズ喫茶を訪ねて東北へ行ったり、京都で開催された「フリーミュージック・ミーティング」へ行き、そこで知り合ったミュージシャンに誘われて広島でライブをしたり、Vedda Music Workshopで関西や長野をツアーしていた。また、地方の小さなスペースはヴェッダにも参加していたパフォーマンスの霜田誠二さんに随分教えてもらう。この「さすらう即狂のチンドンヤ」というタイトルを付けたソロ・ツアーは、7月31日徳島「ぺれんと劇場」ではじまり、8月3日広島「クエスト」、4日京都「スタジオ・ヴァリエ」、5日名古屋「マウンテンゴリラ」と続き、いったん東京へと戻ってきた。

その後、8月17日陸前高田「ジョニー」からはじまり、18日盛岡「ママT」、19日青森「だびよん劇場」、青函連絡船に乗って北海道へ渡り、20日函館「TOP OF THE GATE」、小樽から船で新潟へ渡り、25日新潟「劇団由稽古場」と回る。新潟のライブを企画してくれたベースの羽生英一さんが、佐渡へ行ってみないかと金井の大慶寺の近藤浄太さんを紹介してくれ、次の日にフェリーで佐渡へ渡って大慶寺を訪れると、27・28日、本堂での投げ銭ライブが即決まる。近藤さんがあちこち声をかけて人が集まってくれ、ライブの後には囲炉裏のある部屋で、お客さん達を交えた宴会で盛り上がった。

そこに、松ヶ崎という少し離れた集落から来ていた美術家の斉藤隆さんがいて、翌日はその海辺の漁師町に斉藤さんと一緒に向かう。昼間の暑さがようやくおさまった夏の夕暮れ、古い木造の公民館には、いかにも漁師といった腕の太い、真っ黒に日焼けした男達が集まり、女達はきびきびと食事や酒の用意に忙しい。今日行われた町の運動会の慰労会があるというその公民館に、ボクは、タイコを抱えて中へ入り、宴会の末席で出番を待っていた。佐渡は芸能の島でもある。鬼太鼓や人形芝居など、ごくごく普通の生活を送っている人達が、数多くの伝統芸能を継承しているのは知っていた。

皆一通りお酒がまわって、お腹も落ち着いた頃、「そろそろ、やるかい?」と声がかかり、ボクは宴席の前に進み出た。ギターのストラップをつけたタイコを首にかけて演奏を始める。ポーンとタイコを叩くと上半身を動かして、タイコを揺さぶり、またポーンと叩く。次第に動きを早め、荒波の上の船のように上下左右に激しく動き、それをとらえようとするバチも、さまざまな角度で動きまわる。その動きがピークに達したとき、首をさっとひねって旋回しぐるぐると周り、ドラを拾い上げて演奏に加えていく。そうして30分ぐらい演奏しただろうか、深々とお辞儀をして席に戻ると、斉藤さんが帽子を回す。
「えかったぞ、大将、酒だ酒。」 「すごかったー、でもこんなんやってって、お嫁さんくるのかしら、それが心配」

その晩、自分の音楽がこんな形で受け入れてもらえたことに心底驚き、感謝しながら、夜が更けるまでその公民館で酒を酌み交わしていた。次の日、小木からフェリーで直江津へ渡り、長野、名古屋を経由して、9月3日、大阪・天王寺の「マントヒヒ」へ。このライブにアフターディナーでドラムを叩いている川口雅明くんが聴きに来てくれ、「青空総合宣伝社」というチンドン屋で働く林幸次郎さんを紹介してくれ、相棒の赤江真理子さんと4人でおいしいお酒を飲んだ。大阪のチンドンは、三味線やトランペットが入るんだというような話で盛り上がり、ホルモンや串焼きなどの大阪の味にお酒が進む。

夜遅くなって宿のないことを思い出すと、「だったら、チンドンの青空宣伝社に泊まればいい」と天下茶屋の事務所に案内される。衣装や、着ぐるみなどが雑然と並んでいる芝居の楽屋のような場所にあがりこみ、林さんが寝泊りするベッドで、ほとんど倒れるように横になる。翌朝、林さんに「チンドン、叩いてみますか?」と言われ、木枠に太鼓と鉦を取り付けたチンドンを体につけると意外と重たい。こうした芸能の持っているトラディッショナルな感覚も肩にのしかかってきて、生半可な気持ちでは叩けないなと、芸の奥深さを感じた。若い人達のチンドンが脚光を浴びるのは、その数年先のことだ。

ソロのツアーは、9月4日藤井寺「テンポコリン」、5日奈良「ほうぼう」、7日金沢「地下広場」と続いていった。金沢では芸工大の近くの「ジョーハウス」という喫茶店にお世話になり、高岡では「モーツアルト」というレストランのオーナーに大変お世話になった。金沢も、高岡も、この時初めて訪れたのにも関わらず、寝る場所を提供してくれ、朝はコーヒーとトースト、夜はカレーライスや賄飯など、まるで遠来からの客でもあるかのように朝な夕な、もてなしてくれた。とくに「モーツアルト」は事前に何の相談もなく飛び込みで店へ行き、事情を話してレコードを聴いてもらい、確か2泊は泊めてもらった。

佐渡や新潟も含めて、日本海側というのは、この時の旅が初めてで、高岡ではちょうど町のお祭りで、小学生が縦笛で祭囃子を吹きながら行列していた。佐渡では道端の道祖神が穏やかな顔で出迎えてくれ、キレイに清められた祠には小さな花が活けてあった。裏日本などという言い方もあるようだけれど、むしろ日本の原風景といったものが、このエリアにはあるような気がする。ツアーは、9月10日高岡「もみの木ハウス」、14日松本「イオ」と続き、15日鶴巻温泉「すとれんじふるうつ」のあとに、いったん東京へ戻り、19日足利「オーネット」の最終日まで、このツアーは約1ヶ月半も続いた。

バックパッカーの背負子に、自主製作のLP「風を歩く」と着替えを詰め、タイコと韓国のドラという少ない楽器を手に持って、列車は青春18キップを使ってもちろん鈍行、知り合いの家に泊まったり、友人に紹介してもらった店に飛び込んで事情を話して泊めてもらったり、知らない町へ出かけ、始めて会った人達と酒を飲み、ご飯をごちそうになり、寝場所を融通してもらうという、文字通りそれは放浪の旅だった。火事にあって身が軽くなったとはいえ、今日寝るところもわからないという旅をしたのは貴重な経験だったし、25歳の放浪する若者を受け入れる文化の土壌が、その頃は確かにあった。

即興演奏とかパフォーマンスといった言葉が通じないような場所でも、音の斬新さと、見て楽しめる動きをともなったボクの演奏というのは、思っていた以上に「普通の」人達に届いていった。佐渡で演奏することは、自分の音楽が、どれだけ余計なものをそぎ落としてシンプルに楽しめるかという尺度のようなものにその後なっていく。実際、佐渡はこの後も何度も訪れ、大慶寺だけではなく、真野の「アゲイン」という店や、どんでん山の「大佐渡ロッジ」などでも演奏した。佐渡は、自分の音楽を育ててくれた場所だという感覚は強く持っていて、佐渡で演奏することは、自分と向き合う事でもあった。

旅から帰るとボクは、今度は井の頭公園の近くにアパートを見つけ、ボクは、そば屋のバイトを再開した。3ヶ月も休ませてもらったのに、何もなかったかのようにすぐ雇ってもらったこの時の経験は、ボクをより音楽へと向かわせてくれたし、その後のニューヨーク滞在や、ヨーロッパへの楽旅へとつながっていく。古道具屋や質流れで、コタツと小さな冷蔵庫、オーディオ類を揃え、吉祥寺の中古レコード屋で、ビリー・ホリデイや、セロニアス・モンクのLPを買い、地元の商店街で食材を買って自炊をする。そうして、また気ままな一人暮らしが始まり、旧知の友人達と、ライブを続けていくことになった。

風巻隆

Kazamaki Takashi Percussion 80~90年代にかけて、ニューヨーク・ダウンタウンの実験的な音楽シーンとリンクして、ヨーロッパ、エストニアのミュージシャン達と幅広い音楽活動を行ってきた即興のパカッショニスト。革の音がする肩掛けのタイコ、胴長のブリキのバケツなどを駆使し、独創的、革新的な演奏スタイルを模索している。東京の即興シーンでも独自の立ち位置を持ち、長年文章で音楽や即興への考察を深めてきた異色のミュージシャン。2022年オフノートから、新作ソロCD「ただ音を叩いている/PERCUSSIO」をリリースする。

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