風巻 隆「風を歩く」から vol.9「ストリート~無産の音へ」
text by Takashi Kazamaki 風巻 隆
都会の雑踏の中で即興演奏したいと思い、1982年の冬、おもに週末の夜に東京の街へ繰り出していった。それまで野外での演奏というと、明治大学の卒業式の日に日本武道館の大銀杏の樹の下で演奏したり、「安保をつぶせ」というデモに参加して演奏しながら歩いたり、「東京百鬼夜行」という企画で、夜中から朝まで東京の街を歩いたりもしていた。ただ、繁華街へ出掛けてストリートで演奏するのは初めてで、良い場所を見つけるのに結構苦労した。よく演奏していたのは、渋谷の公園通りの起点、三叉路の角の店の入り口に小さなスペースがあって、そこがステージのように高くなっていた。
冬空の下、Tシャツ一枚でタイコを叩いていると通行人が目を止める。「あれ?あの人もしかして上手なんじゃない?」なんて声も聞こえてくる。ビルが林立する中で叩くタイコは、結構よく響き、破裂音をパンっと出すと、少し遅れてエコーがパンっと返ってくる。ドラとタイコ一つの演奏だけど、さまざまなテクニックを散りばめ、豊かな音色や倍音を奏でていく。リズム的なアプローチというよりは、和太鼓のように叩き込んでいくようなアプローチ。曲を作るのではなく、常に変化し、風のように、川のように音を変化させていく。おそらく、誰にとっても聞いたことがない音楽が、渋谷の街に流れていった。
桜の頃には地元の井の頭公園で演奏する。公園駅の近くの児童公園で夜8時頃から12時近くまで休みなしに叩く。野外の演奏は気持ちいいし、井の頭は高い木立も多く、自然に包まれてエネルギーが循環していく。夜中も近いのでタイコをやめると、「もうやめちゃうんですかー?」と若い女の子が声をかけてくれる。「田舎のお祭りを思い出してました。」ぶらぶらと一人で井の頭公園を歩くと、「タイコの方ですよねー、一緒に飲みませんか?」と誘われ、花見に加えてもらう。いくつかのグループに加わりながら、最後は知らない人の貸してくれた寝袋に包まれて朝を迎え、桜の下で目を覚ます。
1983年、現代音楽の鬼才とも言われる小杉武久さんと自主製作のLP「円盤」を作ったボクは、前年同様ソロツアーを企画した。アパートが焼けて急遽企画した82年のツアーは日程がすいていて放浪の旅になってしまったけれど、今回は準備期間があったので、スケジュールもタイトになった。「無産の音へ」というタイトルは、小杉さんの著書「音楽のピクニック」の中の一文からいただいたものだ。音というのはその場限りのもので、一つの場を共有しながら演奏する側も、聴く側も、その一瞬で消えてなくなる音をけして自分のものにはできないし、所有された音は、もう飛翔することはできない。
風狂舎というボクのレーベルの2作目となるLP「円盤」は、鶴巻温泉のジャズスペース「すとれんじふるうつ」でライブ録音されたもので、ジャケットは当時未決囚として獄中にいた荒井まり子さんに描いてもらったものだ。まり子さんとは、当時、文通をしていたのだが、彼女の裁判は「東アジア反日武装戦線」という70年代に爆弾闘争をしたグループの一員という形で進められていたけれど、彼女の場合は、彼女が購入した化学肥料が爆弾の原料になった可能性がある…、それだけで「精神的・無形的ほう助罪」を押し付けられ、彼女の、「反日」でありたいと願う「信念」が裁かれようとしていた。
まり子さんの絵は、所持が許されていた鉛筆で描くモノクロの世界だけれど、そのタッチはパステル画のような温かさを持っている。タイコ叩きと、ヴァイオリニストの絵を描いてくださいという、何とも大雑把な注文に、それぞれ2枚ずつ描いてくれたものをボクが選んで組み合わせ、まり子さんの白黒の絵にパステル調の色をつけ、LP「円盤」のジャケットが出来上がった。83年10月には、和光大学でフレッド・フリスとトム・コラによるスケルトンクルーをゲストに「反日アンデパンダン」というコンサートが若いミュージシャン達によって企画され、手作りのパンフレットやカセットテープも製作された。
80年代、東京のアンダーグラウンドな音楽シーンを特徴づけていたのが、インディーズという自主製作の動きと、社会的な問題へのコミットメントだった。「ぴあ」や「シティロード」という情報誌が、全てのコンサート情報やライブの情報を等価値に扱い、カセットテープに録音した演奏をWカセットでダビングしたものが商品として流通する時代。既成の音楽業界から離れたところで、自分たちの感性を頼りに新しい音楽を作ろうとした若いミュージシャン達を集め、音楽と社会的な運動の接点を作ろうとする「同時代音楽」の竹田賢一、平井玄らが、法政大学の学生会館で斬新なコンサートを企画する。
「同時代(コンタンポラン)」の音楽家が集まる機会は、その後「コンタンポラン・オーケストラ」といった形に発展し、竹田賢一率いる「A-MUSIK(アームジーク)」というバンドの枠を超えたユニットは、社会派の集会に出演しては、「同志は倒れぬ」といったかつての労働歌や、「不屈の民」や「プリパ」といった世界の抵抗歌を現代風にアレンジした演奏を展開していた。そんな中、「反日アンデパンダン」は、平井玄、工藤冬里、大熊ワタル、ローリー、霜田誠二、新井輝久といった面々が実行委員会を作る形で企画され、毎週、新宿ハバナムーンに集まって会議をし、イベントを共同で作っていった。
「反日」という、日本人にとって受け入れにくい考えや、今ならテロリストと一言で片付けられるような彼らの爆弾闘争というものを、自分の問題として考えることは簡単なものではなかったけれど、日本という国に虐げられた人達の視点で歴史を振り返ると、足を踏む側ではなく、踏まれる側に立って物事を見ていきたいと思うようになった。この音楽家やパフォーマーによる「反日」のイベントは、「反日アンパン」以降も、「支援連支援バザー」や「吉祥寺作戦」といった形で継続していく。吉祥寺では、サンロードの会場から井の頭公園までをデモ行進し、思い思いの楽器を持ち寄り賑やかに歩いた。
ツアーを繰り返すと、その町の知人や友人が増えていくことがある。はじめての町は緊張もするし、自分の音楽が受け入れてもらえるか不安になったりもする。ただ、友人のいる町は、その人との再会を思い、会えば話に花が咲く。携帯電話もインターネットもSNSも無かった頃は、人と人との距離は離れれば疎遠になり、近ければ濃密なものになっていく。何もかもが初めてだった82年のツアーは「放浪の旅」で多くの出会いがあったけれど、そんな無計画な旅を続けるわけにはいかない。そんな中、ライブを企画してくれる友人やお店も、少しずつ増えて、会いたい人の数も多くなっていった。
1983年のツアー「無産の音へ」は、8月末に東北・北海道へと8か所回り、11月末に名古屋から関西、九州、山陰、山陽と巡り、10日間連続公演のラストは徳島「やあこぷ」だった。「カザマキさーん、どこかで記念撮影しませんかー。」「そうやねー、どこでしよう。」ライブの終わった帰り道、車をとばしながら「やあこぷ」のママさんと、企画をしてくれたトンちゃんが相談をはじめる。この日のソロ・ライブには大人40人子供9人が集まって、しっかりと盛り上がった。「キリンの前にせーへん。」「そうやね、あんなカザマキさん、徳島にはキリンがおるんですよお。」お茶目な物言いで、トンちゃんが笑う。
徳島でアマチュア劇団をしている稲田さん(ぶんさん)から、「カザマキさんのさ、コンサートをね、企画したいっていう女の子がいるのさ。」と紹介されたのが、「ムッシュ冬子(とんこ)」を名乗るトンちゃんで、彼女も、ぶんさんの劇団の世話役のようなことをしていた。自分がバイトしている喫茶店を使って、常連のお客さんや友人・知人を集めてくれるというのでお願いしたのだけれど、こんなに人が集まるとは思わなかった。「わー、~さん来てくれたんやねー、ほんまありがとう。」メガネの奥の細い目をもっと細くして、トンちゃんが集まったお客さん達にそう話しかけるのを、その日は何度も聞いた。
「カザマキさん、着いたよ。」二人にうながされて車から外へ出る。白黒のフィルムを入れたボクのカメラを取り出して、交替で記念写真をとることにした。まず初めに「やあこぷ」のママさんと二人で撮ったあと、トンちゃんとツーショット。「撮るよー」というママさんの合図に、咄嗟にトンちゃんの肩を抱く。フラッシュが光るその一瞬だけ、二人はまるで古くからの友達か、恋人のように笑顔で写真に納まった。二人の後ろには、動かないキリンが、どこか遠いところを見ているようだった。その後、ボクは、徳島のアマチュア劇団の公演を手伝うことになり、そこにもまた、多くの出会いが待っているのだった。
ツアーで短期間に集中して演奏すると、即興といってもパターンのようなものが生まれてくる。この頃は、足の指で小さなスティックを挟んでオモチャのタイコを叩いたり、小さなハモニカを吹きながら声を出したり、一人でワンマンバンドのような演奏もよくしていた。パターンというものがあっても、演奏の一回性には変わらないし、お客さんの熱気が演奏を作ってくれるときもある。「反日」という考えが、自分のあり方を疑って新しい関係性を作る事であるように、即興もまた、日々新しい自分に生まれ変わっていくことなのだろう。新しい場所は、新しい自分を作ってくれる…、そんなことを感じていた。
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