風巻 隆「風を歩く」から vol.14「KRAIN THEATER」~ダニー・デイビス
ニューヨークというところは雑多な町だ。その雑多さは、しばしばパッチワークに例えられるのだけれど、それはもちろん世界中から集まった人々が、それぞれ様々なコミュニティを作っているということでもあるし、音楽ひとつを考えても、大きなホールで行われるエスタブリッシュの音楽から、クラブや小さなスペース、キャフェ等で行われるライブ、さらには路上で行われるストリートミュージックまで様々なものが日々行われている。ミュージシャン達は、自分の育ったルーツや、それぞれの興味や指向性といったものから、ジャズや即興音楽といった、いくつもの別々のコミュニティを作り上げている。
ジャズひとつとっても、エスタブリッシュを志向するミュージシャンはジャズクラブの演奏で稼いでいるし、新しい音楽を志向して、さまざまな試みを続けるミュージシャンは、ロフトやギャラリー、キャフェなどの場所を開拓しながら自主的なライブをコツコツと続けている。また、即興演奏という共通のエレメントを持っているとはいえ、ジャズをルーツにもつ黒人のミュージシャンのコミュニティと、ヨーロッパの実験音楽やフリーミュージックに影響を受けた白人のインプロヴァイザーのコミュニティではそれぞれ別個の動きをしていて、何かフェスティバルでもない限り、一緒に演奏することはほとんどない。
84年にはじめてニューヨークへ行ったとき、ボクは、そういうことを全く知らなかったけど、「LIFE CAFE」では、ビリー・バングとデュオで演奏し、「INROADS」ではトム・コラと共演、「A-MICA」でジョン・ゾーンと共演するなど、ジャズと、インプロヴァイザーという二つの別個のコミュニティと、それぞれ取っ掛かりを持てていた。87年のニューヨークには、ダニー・デイビスが暮らしていた。5月24日、グリニッジヴィレッジの「 Bottom Line」 というジャズクラブへサン・ラ・アーケストラの公演を見に行くと、そこには、ジャズミュージシャンとして、水を得た魚のように活き活きとプレイしているダニーさんがいた。
サン・ラというピアニストの宇宙から来たような独特の存在感や、計算しつくしたようなパフォーマンス、そして何より一糸乱れぬビッグバンドの圧倒的なサウンドは心地よい。ライブが終わって挨拶をしに行くと、再会を殊のほか喜んでくれ、ニューヨークでも一緒に出来たらいいねという話にスグなっていた。そこからの展開は速かった。イーストヴィレッジの「KRAIN 」というギャラリー/小劇場と交渉し、7月9日にコンサートが出来ることが決まる。劇場がプロデュースするコンサートで、一部がダニー・デイビス、ベースのウィリアム・パーカーとボク、二部がビリー・バングのソロ。入場料が7ドル。劇場が作ってくれたフライヤーにクレヨンで着色して、友人や知人に渡すほか、街の中古レコード屋などにも店置きする。
一部は午後9時からで、レコーディングをするので空調も扇風機も止め、うだるような暑さの中で演奏は行われた。トリオの1曲目が約55分、デイビス alto sax、パーカー bass, cello, marimba, voice、風巻 percussion。2曲目は約5分、パーカー marimba、風巻 percussion。3曲目は約10分、デイビス alto sax、パーカー bamboo flute、風巻 percussion。一部として予定されていた75分を休憩なしで3曲続けたその演奏は、ジャズのゆるぎないグルーヴの土台に乗っかって、アーシーなテイストも取り入れながら、骨太の演奏をパワフルに繰り出していくスケールの大きな演奏になっていった。
ダニーさんの演奏には、音を聴く時間としての間が多い。じっくりとリズム隊の音を聴き、聴衆のテンションが上がってくるのをしっかりと待ってからおもむろに演奏をはじめ、また、音が飽和状態になると、そこからスッと抜け、次の展開をじっと待つ。メロディアスなフレーズを繰り出したと思ったら、そこからフリークトーンになだれかかる。そうした寄せ来る波のようなグルーヴを次第に高めながら、そのグルーヴをコントロールしながら演奏を形作っていく。その音楽が、土着のブルースというよりは宇宙的な広がりを感じるのは、おそらく、サン・ラから受け継いだ独特の世界観からくるものなのだろう。
「宇宙のすみずみまでが、とてもセンシティブなこの時代の中で、
何かを創造するときは、ちょうど世界のはじまりのときのように、
全体のバランスをとりながら、すべてを一つに結集することだ。
すべての音(バイブレーション)は、自然界で互いに影響しあっている。
新しい音は、新しい世界の扉をあけていく。」*
こんなメッセージを、ダニーさんは「すとれんじふるうつ」が企画したコンサート「Variation」のチラシに書き残している。
多くのサックス奏者が、自分を中心に音楽を作ろうとするのに対して、ダニー・デイビスの音楽は、フラットなアンサンブルが基調になる。ときにベースが、ときにマリンバが、ときにパーカッションがアンサンブルの中心になることを、ダニーさんは厭わない。この日の演奏の中で、多く中心になったのは変幻自在に楽器を持ち替えながら、ジャズのグルーヴを保ち続け、全体の構成を形作っていったウィリアム・パーカーだったかもしれない。普段使わないチェロやマリンバを使っても、アバンギャルドなアプローチをしても、それがジャズになる、ウィリアム・パーカーという人の偉大さがわかる演奏だった。
演奏が終わって、暑かったことと、休憩もなく長く演奏したことで、かなりの消耗も感じたけれど、それ以上に、願ってもない形の演奏になったことにものすごい充実感を感じていた。これまで、ダニーさんとは何度もデュオで演奏してきたけれど、この日のトリオは、今まで乗り越えられなかったものを越えていくような演奏だった。ジャズでありながら即興音楽でもある…、とでもいうのだろうか。フリージャズの身体性と、知的な即興演奏が、高い次元で融和して、新しい音楽の扉を開いていく…、そんな演奏だった。おそらく今聴いても、時代を感じさせずに新しく聞こえる、そんな音楽を演奏できた。
ダニーさんとはその後ニューヨークで、その年、ダウンタウンの音楽シーンに彗星のごとく現れたニッティング・ファクトリーというライブハウスで、8月27日にエレクトリック・ハープのジーナ・パーキンスとのトリオで出演した。ジーナとはNO SAFETYという彼女とギターのクリス・コクランを中心としたバンドのライブを、ドラムのケイティ・オルーニーに誘われて見に行ってから、友人のようにつきあっていたし、エネルギッシュでパワフルな彼女の演奏は好きだったけれど、ダニーさんのサックスとどういう音楽を作っていけるのか、どんな演奏になるか想像がつかない、ある意味で冒険的な試みだった。
ジーナ・パーキンスは、ハープに取り付けたアームや、さまざまなアタッチメントを駆使して宇宙的なサウンドを繰り出していく。ボクも韓国の銅鑼をタムの鼓面で鳴らして倍音をコントロールしながら、揺らぎのあるリズムを繰り出していく。ダニー・デイビスは、二人の音をよく聴き、自分の入るタイミングを見極めて、いつもと変わらずに大きくブローしながら自分の音楽を貫いていた。客席にはトム・コラもいてカセットに録音してくれたし、ジョン・ゾーンがこのライブのフライヤーを見て、「そうだな、こういうことを、ちゃんと僕らもやらないといけないよなあ。」と、珍しく真顔で話していたのを覚えている。
ダニーさんはボクにとって、はじめてデュオを継続したパートナーだったし、かけがえのないミュージシャンだったのだけれど、ボクが10月末にニューヨークから帰国して、その年の暮れ、12月26日に自宅で吐血して倒れ、ハーレム・ホスピタルに入院したけれど、東京から駆けつけた家族に見守られて、翌年1月16日に帰らぬ人となった。42歳、あまりに突然のことだった。「KRAIN」で杉山和紀さんに録音していただいた、ダニー・デイビスとウィリアム・パーカーとのトリオの演奏は、その後、音場舎という友人のカセットレーベルから、88年に『曳航の旗』というタイトルで、一部編集し発表した。PCMに録音されたマスターテープは大切に保管しているので、もし機会があれば、ちゃんと作品化できればいいと思う。
*ダニーさんのメッセージの原文は以下の通り。
During this very sensitive time throughout the Universe,
just as in the beginning, it is up to the creators to keep it all balanced and together.
All sounds (vibrations) are related to each other by Nature.
New sounds for a new world. (Danny Davis)