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風巻隆「風を歩く」からNo. 305

風巻 隆「風を歩く」から vol.18 「NOISE NEW YORK」~トム・コラ  

text by Takashi Kazamaki  風巻  隆
photos : private collection

「あと1分、テープが残っているよ。」と、トムがミキサー室からマイクを通してボクらのヘッドホンに声をかける。ボクとサムはついたて越しに顔を見合わせて、「じゃ最後はコミカルに、ギャッとかワッとか声を出してやってみよう」とボクが言い、こんな風に...、と叩いてみせる。「OK、ワカッタ」とサムが応え、トムが「じゃあ、回すよ」とテープを回す。「NOISE NEW YORK」 というトム・コラの働くスタジオで、サム・ベネットとデュオのレコーディング。ミキサー室のトムは、曲の合間に「ラヴリー」とか「ビューティフォ」と声かけをしてくれ、「次は、ヴォイスだけでやってみようか」というアイデアも出してくれる。 

最後の曲が終わり、沈黙のなかでトムが、今まさにテープが終わろうとしていることをジェスチャーで告げ、ボクとサムが固く握手をしていると、「とてもヨカッタ」と声をかけてくれる。1987年のニューヨーク、ボクは半年ほど滞在したなかで、チェロのトム・コラとは、6月28日に「PS122」というスペースでのHOT HOUSEというダンスと即興音楽のシリーズで、コントラベース・クラリネットのポール・ハスキンとトリオで演奏し、また10月16日には「ROULETTE」というスペースでデュオの演奏をしてるけれど、それよりトライベッカの「NOISE NEW YORK」というスタジオで多くの日々を共に過ごしていた。 

そもそもスタジオでレコーディングすること自体、この「NOISE NEW YORK」が初めてのことだったし、トムにはスタジオワークを一から教えてもらった。昼の12時から夕方の5時まででスタジオ代が140ドル、テープ代が80ドル、テープは自分で買ってくれば安くあがるからと、Ampex456という品番や、Martin Audioというアップタウンの専門店も教えてもらう。当日はカセットテープに落としてもらったものをサムが持って帰り、翌日ダビングしたものを受け取る。滞在していたケイティ・オルーニーの部屋で聴き、ダブルカセットで順番を編集していく。ミックスダウンまで1週間、音楽に集中していく。  

ミックスダウンは朝がいいんだというのがトムのこだわりで、朝9時にスタジオに入る。途中、キャナル通りで中華の屋台が出ていてもつ煮込みが美味しい。9月17日にはエレクトリック・ハープのジーナ・パーキンスとデュオのレコーディング。20日には、トムともレコーディングをする。そのすべてのエンジニアをトムが引き受け、サムとジーナとのデュオは、この翌年『143 Ludlowst.NYC』というLPになり、西ドイツのDossierレコードからリリースされることになる。ただ、トムとのレコーディングは、残念ながらお蔵入りになってしまった。それだけ、サムとジーナとの演奏が良かったということでもある。 

トムとのレコーディングで印象的だったのは、その音へのこだわりだ。アコースティックなチェロの音を拾うマイクがあり、チェロに仕込んだコンタクトマイクの音をラインで拾い、コンタクトマイクからギターアンプを通した音をマイクで拾うというようにチェロの音でも3回路を用意する。それにディレイやサンプラーといったエレクトロニクスをフットペダルでコントロールするので、音はとんでもなく重層的になる。サンプラーなどを音楽に導入するのはこの頃のトレンドだったのは確かだけれど、それを使いこなし、自分の音楽にまで高めたのは、トム・コラとサム・ベネットが双璧だったのではないだろうか。 

トムはこの頃、フレッド・フリス、ジーナ・パーキンスとの Skeleton Crew というバンドを解散し、ジョージ・カートライト、デイヴィー・ウィリアムスらとのCURLEWというバンドで活躍する一方、さまざまなミュージシャンと「KNITTING FACTORY」等で共演していた。8月の末、トムの暮らすアパートでSkeleton Crew の解散パーティというのがあり、ボクも参加したことがある。ニューヨーク・ダウンタウンのミュージシャンがほとんどそこにいたような盛況で、おいしい料理でついついお酒が進んでいたのを覚えている。その集まりの時にトムからある計画を聞かされ、酔いが覚めるほどビックリしたのだった。

この頃、トムはWBAIなどの独立ラジオ局で番組を持っていて、彼がツアーで海外へ出かけたときに出会った音楽や、その音楽シーンというものを紹介していた。そこで東京の音楽シーンを取り上げるとともに、「反日」や「山谷」といった、難しいテーマに何で篠田昌已や大熊ワタルといった若いミュージシャンが結集していったのかということに興味を持ち、「YAMA」というラジオ・プログラムを用意していた。普段の会話ならそれなりに慣れてきたボクでも、こうしたポリティカルな話を英語で話すのは慣れていなかったけれど、トムは辛抱強くボクの話に耳を傾け、興味を持っていると話してくれた。

そのラジオ放送は、ニューヨーク「THE KITCHEN」でトロンボーンの河野優彦とトリオで共演したばかりのサックスの梅津和時さん、山谷で写真を撮っている大島俊一さんを交えて、9月29日に収録が行われた。竹田賢一さんのA-MUSIKや篠田昌已のチンドンの曲、NYで録音したボクとサムのデュオの録音などが流され、トムも参加した83年の「反日アンデパンダン」コンサートや山谷の越冬コンサートの話、山谷の映画や二人の監督の死、抗議のデモのさなかにボクが当時誰もやらなかったタイコを叩いたこと、日本の地方のジャズ喫茶のネットワークのことなどが、次々と語られていった。 

もう、その週末には東京へ帰るという10月21日、トムと、西ドイツから来ていたギターのハンス・ライヒェルの「KNITTING FACTORY」でのライブに一曲だけ飛び入りしたことがある。終演後、4か月近く働いたキッチンを使って湯豆腐のような日本料理を作り、トムやハンス、そしてニッティング・ファクトリーのマイケルやボブ、ルイスといったスタッフと、お別れのパーティをした。トムとの「ROULETTE」でのデュオでの演奏は、翌年、友人の音場舎のカセットレーベルからダニー・デイビス、ウィリアム・パーカーとのトリオのライブ演奏とカップリングして『曳航の旗』というタイトルで発表された。

レコーディングのときは、やりたい事を絞り切れずに漫然とした演奏になってしまったのだけれど、「ROULETTE」のデュオは、ライブの緊張感がうまい方に作用して良い演奏になった。「ROULETTE」は春と秋にコンサートのシリーズをまとめて企画し、助成金を申請して運営されているニューヨークでも特別な場所だ。トム・コラのチェロは、一筋縄ではいかない演奏をする。長い両手・両足をつかって、アコースティックな音と、アタッチメントを操作したエレクトリックな音が重なり合い、野太い低音部から、かすれるような高音部、ひもを弓奏するノイズや、牧歌的なピチカートと、音色は豊富にある。 

トムとの演奏が難しいのは、その独特のグルーヴの展開に予測がつかないからだろう。瞑想的なゆったりとしたリズムから一気にジェットコースターのようなフルスピードに変化したり、短い断片を瞬時に変化させたり、清らかなバラードかと思ったらギギギギとノイズを振りまく...、その演奏の脈絡のなさは、クリスチャン・マークレイのターンテーブルに近いものがある。常に自分の演奏を異化していくようなトムの音に対して、こちらもやはり変化しつづけるようなアプローチが必要になってくる。音色を変化させ、リズムを変化させ、グルーヴを変化させて、瞬時の展開と予期せぬ結末へ向かっていく。 

そのアンサンブルのあり様といったものは、フリー・ジャズのグループ音楽としての祝祭性といったものとも、ヨーロッパ・フリーの個的な表現を土台とする知的な抽象性とも異なったもので、演奏の主たる興味を音色の変化と異化に置き、あらゆるスタイルというものを拒否し続ける「型破り」な演奏。それが80年代のニューヨークを席巻した「New Music」という潮流の中の一つの特徴だった。このムーヴメントは、ジャズやロック、現代音楽や民族音楽といったジャンルの垣根を取り払い、コンピュータやサンプラーという新しいテクノロジーを導入して、それまでにない「新しい音楽」を作ろうとした。 

88年にトム
・コラが来日した際には、「ジャズ批評」61号の誌上でボクとの対談が企画され、その中でトムの音楽観や即興観が明らかになった。その対談の中で彼は、ニューヨークという場所を特別視しないこと、即興演奏を聖域化しないこと、フリー・ジャズや、コンテンポラリー・ジャズの伝統から離れて、即興演奏と構成音楽(ストラクチャー・ミュージック)という二つのエリアをまたがって、ジャンルにとらわれない新しい音楽を志向することなどを語っていた。また、家賃の高騰で若い世代のミュージシャンがニューヨークに住みにくくなっていることで「ニューヨーク神話」も崩壊すると予見している。 

その後、奥さんのカトリーヌ・ジョニオーとフランス・マルセイユにわたり演奏活動を続けていたが、1998年4月、44歳の若さで亡くなった。88年、89年には東京・吉祥寺の「MANDA-LA-2」で、篠田昌已、大熊ワタル、ロリィ、木村真哉、西村卓也とのバンド「PIDGIN COMBO」でトムの社会問題を提起する曲やクレズマーなどを発表し、後に F.M.N. Sound FactoryからCD『THE LONG VACATION』としてリリースされる。また92年、アカパナーレーベルからリリースされた八重山民謡・大工哲弘の CD『YUNTAJIRABA』にも梅津和時、サム・ベネットらと参加し、その卓越した演奏を残している。

風巻隆

Kazamaki Takashi Percussion 80~90年代にかけて、ニューヨーク・ダウンタウンの実験的な音楽シーンとリンクして、ヨーロッパ、エストニアのミュージシャン達と幅広い音楽活動を行ってきた即興のパカッショニスト。革の音がする肩掛けのタイコ、胴長のブリキのバケツなどを駆使し、独創的、革新的な演奏スタイルを模索している。東京の即興シーンでも独自の立ち位置を持ち、長年文章で音楽や即興への考察を深めてきた異色のミュージシャン。2022年オフノートから、新作ソロCD「ただ音を叩いている/PERCUSSIO」をリリースする。

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