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Column ラグランジュ・ポイント 金野Onnyk吉晃No. 333

青年は荒野をめざすか? 第一回 金野Onnyk吉晃

text by Yoshiaki Onnyk Kinno 金野Onnyk吉晃

<はじめに>

「ラグランジュ・ポイント」として、諸テーマの引力関係の均衡点を考えるコラムを書いて来た。
しかし、やむにやまれぬ衝動から、メディアとしてのレコード、特にそのジャケットアートを通して、個人的な視座から歴史と文化を考察したい。ただ、その渉猟範囲として、1970年代後半のパンク、ニューウェーヴ、米西海岸のLAFMS、レジデンツなどの作品移行はカバーしていない。その理由は多々あるが、その頃から印刷物より動画の役割が大きくなったことがある。過去の撮影記録、ライブやセッションなどの発掘、さらに宣伝を目的としたビデオクリップ、MTVなどが、家庭用ビデオデッキの普及で一気に拡大した。それはミュージシャンがさらに、プロダクションの意図に従属し、また音楽産業のビジュアルソフト販売という戦略に乗ったもので、筆者の意図する考察の範囲を超えている。
なお、関わるデザイナー、画家、イラストレーター、写真家などはあまりにも多く、個々に言及すると煩雑なので、今回は筆者がどうしても記しておきたい以外の存在は、説明を省いたことをお断りする。非常に心苦しい決断だった。

稿全体の構成は以下のようになっている。

第一回<ビートからヒッピーへ、ビバップからサイケへ><概観>
第二回<アメリカのニュ―ロックとデザイン><コミュナリズムの終焉>
第三回<英国のニュー・ロック><日本のロック>
第四回<ふたたび英国へ><ヴァージンとECM>
第五回<ジャズのジャケットデザイン><コンピュータ時代、そして西ドイツ>
第六回<結び>+α


第一回 <ビートからヒッピーへ、ビバップからサイケへ>

60年代中盤は、ビートニクスからヒッピイズムへの転換期となった。ビート族の表現は文学だったが、憧れはビバップ・ジャズであった。彼らの親世代の価値観は、第二次大戦に勝利したアメリカが、軍事、経済、文化のあらゆる面で世界をリードする大国であることに基づいていた。その価値観に反抗した戦後世代のインテリ達、つまり大学教育や出世コースからドロップアウトした若者達、ビート族が何を求めたのか。

40年代から発展したビバップは、その演奏の高速化によって、ダンス音楽、流行歌謡としてのジャズから脱却した。しかし、ビート族にビバップは可能だったのか。スピーク・イージー、禁酒法時代の暗黒、しかし揺籃期を経て開花したビバップは、白人達の追従を許さなかった。白人ジャズメンは西海岸の開放的な環境の中でクール・ジャズと言われるスタイルを創成していった。これはビバップの濃密さとは違う香り、色彩を得た。

ビバップに追いつけないビート族は、自分達の主張を詩の朗読で表現した。詩とジャズの共同作業が可能だという幻想を抱いた。ビート族の代表的なアーティストは、小説家や詩人達だった。ジャック・ケルーアック(1922~1969)、ウィリアム・バロウズ(1914~1997)、アレン・ギンズバーグ(1926~1997)などがその筆頭にあげられる。彼らはトカイ・ワインとマリュワナを常習し、貨物列車への無賃乗車、ヒッチハイクなどで放浪し、旅の最中に書き続けた。(図版1)

バロウズ ギンズバーグ ケルーアック (LtoR)

彼らの求めたものは戦勝者の価値観への批判、拒否だった。親世代への反抗は常にどの文化、どの時代でもあり得る形だった。子供はまず模倣し、それからイヤイヤ期を経て学習し、思春期を経て、自我の形成をおこなう。世界を獲得しよう、それは出来る、と思いこむ。そしてビート族もいつか成人してしまった。さらに若い世代ヒッピーは、ビートニクスの教養さえも批判した。ではヒッピーが精神的に依拠したものは何か。

<概観>

幾多のレーベルが、既にジャズ専門として、現在にまで伝わる名盤を輩出している。そのジャケットの多くは、色数を抑えて、白地に二色くらいを用い、ミュージシャンのポートレートまたはモデルを配し、タイトル、リーダーその共演者の名前をシンプルなフォントで配置している。色数が少ないのは経費の問題だが、それが奏功して、すっきりしたジャズアルバムの定番デザインを確立した。それはこの誌面の読者なら幾つでも例を思い浮かべるだろう(”COOL STRUTTIN’ “の美脚は別にして)。ジャズは何よりも聴いて楽しむべきものだったから、変に凝った図案、大袈裟なデザインは不要だった。ジャズも詩の朗読も、耳で受容された。

しかし、ヒッピーの音楽は違う。それはより視覚的でなければならなかった。その理由は彼らの世代の導師、LSD研究者ティモシー・リアリー(1920~1996)の影響を無視はできない。LSDは、より視覚に作用する。というより音楽が視覚として認識されるのだ。(図版2)

ティモシー・リアリー

ヒッピーは、まず音楽文化として発展した。それは黒人中心のジャズではなく、ロックだった。後に「フリー・ジャズ」と呼ばれるジャズの新しい潮流を「ニュー・ジャズ」「ニュー・シング」とジャーナリズムが名付けたことから、新しいロックが「ニュー・ロック」として認知され始めた。ジャーナリズムの役割は功罪はともかくとして名付けることにある。

ロックはロックンロール、リズム&ブルースとして、やはり黒人大衆音楽の模倣から始まった。カントリー、ヒルビリーなどと融合してロカビリーを生んだが、この時点では旧来のラヴソング、流行歌謡であり、またダンス音楽としての性格が強かった。しかし、それによって黒人音楽の性質を脱却した。1966年あたりまでに、米国西海岸を中心にロックの新しい顔ぶれが出そろった。その音楽傾向つまりニュー・ロックは、流行歌謡、ダンス音楽、黒人音楽の性質を脱却する方向に進んだ。それらが、サイケデリック・ミュージック、アシッド・ロックと呼ばれる事になる。ジェファーソン・エアプレイン、グレイトフル・デッド、クィックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィス、モビー・グレープ、カントリー・ジョー&ザ・フィッシュ、ドアーズなどである。彼らは皆、カリフォルニア州で結成された。西海岸とは違う傾向を持つバンドも次々デビューした。ヴェルヴェット・アンダーグラウンド(ニューヨーク)、マザーズ・オブ・インヴェンション(カリフォルニア)、レッド・クレヨラ(テキサス)、13THフロアー・エレヴェーターズ(テキサス)、ブルース・プロジェクト(ニューヨーク)などである。

60年代のモダン・ジャズは、個人的表現の集合、コンボとして発展して来た。技巧的に抜きん出たリーダーとその共演者、伴奏者という関係である。しかしロックではリーダーの性格、技量以上に、バンドメンバー全体の協調関係が重視された。すなわち集団表現としての形式である。またジャズが既に歌曲としてより、器楽中心になり、より抽象表現、楽曲構成の複雑さ、技巧性を極めてきたのに対し、まだ稚いロックは歌の詩的な強さ、感情の迸りをマイクに向かって叫んだ。演奏は激しいビートのドラムに、アンプで増幅されたエレキギター、エレキベース、電気オルガンを主とした大音量となり、会場内ではライトショウと呼ばれる特殊な明滅と運動性のある極彩色照明が聴衆の陶酔を誘った。この精神の崩壊寸前の感覚こそが、サイケデリックであり、またそれを助長するのがアシッド、つまり半合成麻薬のLSD(リゼルグ酸ジエチルアミド)だった。

ヒッピーにとってマリュワナは既にタバコと同様の日常であり、さらにLSD摂取による幻覚作用を以て達した、非日常の世界が「もうひとつの現実=アルタード・ステイト」であるかのように認識された。これは例えば他の麻薬、メスカリンによる感覚変容(サイケデリック)を記録したオルダス・ハクスリー(1894~1963)の書「知覚の扉」(1954)などに記載され、広く読まれた。ドアーズがその名をこの書名からとったのは有名である。こうしたサイケデリック体験は、摂取者に共通したものがあり、さらには幻覚作用を持つキノコや植物を儀式も用いる未開部族、古代人の芸術にも同様の反映がある。さらには幾つかの宗教的瞑想にも同様な体験が記される。これにより、現実とは異なるレベルの世界があり、神概念や宗教的観念はその世界との連絡によって開発されると考える者が増えた。カルロス・カスタネダ(1925~1998)の著作、<呪術師ドン・ファン・シリーズ>(1968~)は、この種の体験記としては最も読まれた。このような思考が、彼らの芸術、視覚表現や音楽に影響しない筈は無い。だから彼らヒッピーの芸術には、古代文明、非キリスト教的宗教、非西欧文明の要素、さらには時代の趨勢としての宇宙的な感覚が横溢している。

しかしまた一方で、面白い反動的な傾向が認められるのである。それはアメリカ開拓時代への憧憬、さらに牧畜、農林業、渓流での魚釣りなど、反都市化、伝統的な自活的な生活への志向である。これはヒッピーの生活スタイルの理想としてのコミューンへの回帰も影響している。ドロップ・アウトしたヒッピー達は少人数で山野の奥地、また僻地に生活拠点を設けて、そこで自給自足を達成しようと目論んだ。勿論殆どは、自活技術の未熟、農業などの経験不足、貨幣の必要性、家族関係の崩壊、性的放縦、疾患、構成者の堕落などにより立ち行かず挫折、失敗している。また、アシッド・ロック等が電気的な技術に支えられている以上、それを否定するかのような生活信条は矛盾を露呈する。都市に住むヒッピーは、それでも世界の変革のためにできる活動を模索した。そのひとつはロックバンドの支援であり、彼らの演奏する場所やメディアの獲得である。当然そこには商業資本の介入があり、それによって成功する。人気のあるバンドは、メジャーなレコード会社との契約でアルバムを世界的に配給することになる。我々が今、手にして鑑賞できる名作レコードの殆どはそうして残された、つまりヒッピー文化の商業的反映に過ぎない。ここでは主にアメリカの事情を意識した書き方をした。では大西洋の向こうではどうか。また太平洋の向こうでは?

あるアメリカ人によって英国のサイケデリック・ブームに火がついた。いや、文字通り「油をそそいだ」と言った方が通じるかもしれない。それがギタリスト、シンガーのジミ・マーシャル・ヘンドリックス(1942~1970)である。彼はR&Bバンドのギタリストだったが、渡英してすぐにベーシストとドラマーによるトリオ「ジミ・ヘンドリックス・エクスピリエンス」を結成し、華々しくデビューした。それは決して二、三のヒット曲が出たというレベルではなく、延々と続く高い技巧の即興演奏、派手なパフォーマンス(歯で弾く、背中に回して弾く、ギターに火をかける等)その圧倒的演奏は現在まで多くのミュージシャンに影響を与えている。(図版3)

ジミ・マーシャル・ヘンドリックス

また、ブルースに影響されて、それをリスペクトしつつ新たな演奏スタイルを作ったのは、ヤードバーズ、スペンサー・デイビス・グループ、グラハム・ボンド・オーガニゼーション、ジョン・メイオール・ブルースブレイカーズ、アレクシス・コナーズ・ブルース・インコーポレイテッドなどがあり、中でも長時間の即興演奏が驚異的だったクリームの存在は、当時英国ロックの一つの頂点ではあった。(図版4)

「クリーム」の3人。ジャック・ブルース エリック・クラプトン ジンジャー・ベイカー (RtoL)

さらにレッド・ツェッペリン、トラフィック、ザ・フー、コロシアム、ソフト・マシーン等の新しい音楽が英国に育った。彼ら英国の場合ヒッピイズムは比較的に弱いが、サイケデリックな意識ではアメリカにひけをとらない。英国には固有の風土、社会形態、階級制度、土地所有問題、湿潤寒冷な気候がある。それは安易なコミューン形成ができなかったこと、メディア自体が保守的で地域毎の音楽の動向は広がりにくかったことに繋がる。これらはアメリカの諸条件と対照的であると言えよう。それでも面白いのはアメリカも英国もジャケットのアートのかなりの事例がレトロ志向である事だ。(第一回終わり)

金野 "onnyk" 吉晃

Yoshiaki "onnyk" Kinno 1957年、盛岡生まれ、現在も同地に居住。即興演奏家、自主レーベルAllelopathy 主宰。盛岡でのライブ録音をCD化して発表。 1976年頃から、演奏を開始。「第五列」の名称で国内外に散在するアマチュア演奏家たちと郵便を通じてネットワークを形成する。 1982年、エヴァン・パーカーとの共演を皮切りに国内外の多数の演奏家と、盛岡でライブ企画を続ける。Allelopathyの他、Bishop records(東京)、Public Eyesore (USA) 等、英国、欧州の自主レーベルからもアルバム(vinyl, CD, CDR, cassetteで)をリリース。 共演者に、エヴァン・パーカー、バリー・ガイ、竹田賢一、ジョン・ゾーン、フレッド・フリス、豊住芳三郎他。

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