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Column音の見える風景 望月由美No. 225

Chapter 47 ローランド・カーク 

photo&text by  Yumi Mochizuki   望月由美

撮影:1964年6月5日  有楽町ヴィデオホールにて

ローランド・カーク (reeds) がホレス・パーラン (p) とJ・C・モーゼス (ds) をともなって日本にやってきたのは1964年の6月、日本人のベーシストを加えたカルテットで6月5日有楽町ヴィデオホールのステージに立った。

雑誌に掲載された写真では見ていたものの、そのいでたちに先ずびっくり。
黒メガネの奥から客席を威嚇するような鋭い視線、盲目とはわかっていても身体全体から発するオーラに圧倒された。『DOMINO』(MERCURY、1962)など数枚のアルバムで事前に勉強して客席に臨んだがカークがステージに登場し、手のひらをパチッと叩き、テナー、マンゼロ、ストリッチの3管を同時にくわえて音をだした途端に事前の予習なんかどこかへ飛んでしまい、カークの世界、カークス・ワークに魅せられてしまったのである。

そして頬を膨らませたり引っ込ませたりをなんども行い、息継ぎをせずに延々と途切れることなく音を出し続けるカークに二度びっくり、サーキュラー・ブリージングを目の当たりにしてカークの謎が一つ解けた、カークにとってノンブレスはこけおどしなんかではなくごく当たり前の吹奏技法だったのである。
当時スイングジャーナル誌の編集長だった故・岩浪洋三さん (1933.5.30~2012.10.5) はカークを「グロテスク・ジャズの旗頭」と命名して論陣を張り、カーク=グロテスク・ジャズというイメージをすっかり定着させてしまっていたが、なるほど生で見るカークは首から何本もの管楽器、テナー、マンゼロ、ストリッチ、クラなどを吊り下げ、さらにホイッスルやらカウベルやらタンバリンと鳴り物をたくさんぶら下げて登場、これはもう確かに尋常ではない。
そして鼻でフルートを吹いたり、フルートと声の一人二重奏を行うなど、出てくる音も天真爛漫にして唯我独尊、かなり飛んでいた。
このおどろおどろした風貌と世間の常識とはかけ離れた音の両面を合わせて岩浪さんはグロテスク・ジャズと定義づけたのである。
以来、このグロテスク・ジャズという言葉はカークを賛辞する人とカークを変人呼ばわりする人の両面からそれぞれの勝手な解釈で使われる重宝な言葉となった。

その異様な風貌とはうらはらにカークの身体から溢れ出てくる音はしごくまっとうであった。
カークの音はジャズの伝統の上に立って築き上げられたものだということがひしひしと伝わってくる。

カークを色で例えるならば黒、ブラックである。
光は混ぜ合わせると白になる。絵具は混ぜ合わせると黒になる。
光を失ったカークの音には色々な音が混ざっている。ブルース、フォーク、R&Bそしてジャズ。ジャズもニューオーリンズからスイング、ハード・バップ、フリーの領域までなんでもありで、カークにとってはどこにも垣根らしきものは存在しないのかもしれない。

あるときジミー・ヒース (ts) が弟のアルバート・ヒース (ds) からもらった尺八を、音の出し方がよくわからないのでカークにあげたところカークはそれから三日後には尺八をマスターしていたという話がある。
カークは自分の耳に入ってきた音が気に入ったら、それが何であれ咀嚼して自分の音楽にしまう感性という才能を身につけていたようだ。

カークは日本の土産に小さなオルゴールと大きなドラを持って帰ったという。
そのオルゴールは帰国から3か月後に『I Talk With The Spirits』(Limelight、1964)の中で<Ruined Castles>として使われた。オルゴールから奏でるメロディーは滝廉太郎の<荒城の月>であった。
もう一つの大きなドラは1972年のモントルー・ジャズ・フェステイヴァルのステージでカークの隣に鎮座していた。ドラには宝という大きな文字が刻まれている。

この日本公演のあと、カークは帰国直後の7月に『Gifts And Messages』(Mercury、1964)を、9月には『I Talk With The Spirits』を矢継ぎ早にレコーディングし、そのあとすぐにヨーロッパに渡り9月のベルリン・ジャズ・フェスティヴァルに出演、パリやミラノの公演を経て10月から11月にかけてはロンドンのジャズ・クラヴ「ロニー・スコット」に出演する。

その時のライヴの模様が『Gifts And Messages』(Ronnie Scott`s Jazz House、1964) としてリリースされている。
このロニー・スコット盤は日本公演から4か月後のライヴで、スタン・トレイシー (p) 率いるハウス・トリオをバックに伸び伸びと吹きまくっていてリラックスしたカークが収められているので永らく愛聴盤としているが、中でもエリントンの<カム・サンデイ>での魂を絞り出すようなテナーとカークのカム・サンデイ、カム・サンデイとシャウトする唄声がいつまでも耳に残っている。
この過密なスケジュールを難なくこなしてしまうカークの身体も心もそして音もまさに超人的なのである。

このヨーロッパ・ツアーの模様はたくさんのブートとして世に出回っている。
隔月刊誌『ジャズ批評』に「ローランド・カーク大全集」(ジャズ批評、2013)というカークの特集号がある。その中にカークがらみのアルバムのジャケット写真がブートも含めて132枚カラー・ページで掲載されているが、ブートの多さに驚く。ブートが多いということは隠れカーク狂が多いということかもしれない。

この1964年という年は、日本は東京オリンピックの年で街中がオリンピック一色に染まっていたが、カークの行動はまさに音の世界万博、目まぐるしくも鮮やかなカークのひとりオリンピック、いえパラリンピック・イヤーであった。

そして来日から10年後の1974年の1月19日、カークはミンガスに請われてカーネギー・ホールのステージに立った。
ミンガスが旧知の楽友8人を集めて盛大なジャム・セッションを行いカークにも声がかかったのである。
その時の記録が『MINGUS AT CARNEGIE HALL』(ATLANTIC、1974)でA面、B面に各一曲で20分を超えるジャム。
そのA面の<C・ジャム・ブルース>でジョン・ハンディ(as、ts) が珍しくテナーでソロをとるとハミエット・ブルイエット (bs) がそれに続き、待ってましたとばかりにジョージ・アダムス (ts) が大ブローを演じ次々に強者どもが大見得を切るが、そのあとにカークが悠然と登場する。
すべりだしはベン・ウエブスター (ts) のようにゆったりとかまえているが徐々にペースを上げてゆきあっという間にホール全体をカーク色に塗り替えてしまう。
こうなるともうカークの独壇場である。

カークはサイドマンとしての活動は殆んどしていないが唯一1961年ヨーロッパのツアー中にミンガスと出会い3カ月ほどミンガスのワークショップに入っていたことがある。このミンガスのワークショップでバードランドに出演するなどニューヨークでも評判になり翌年の1962年にはニューポートジャズ祭に出演する。
カークはミンガスの『MINGUS OH YEAH』(Atlantic、1961)でミンガスの型やぶりなヴォーカルとピアノに呼応してユーモラスでシニカル、とことんどす黒いブルースを吹いた。
カークとミンガスの世界はまるで兄弟のように相性が良い。

カークはひととの出会いにも恵まれていたのかもしれない。
1960年、インディアナポリスで演奏しているカークを聴いたラムゼイ・ルイス (p) がアーゴ・レコードに推薦し『Introducing Roland Kirk』(Argo、1960)のレコーディングが実現する。
また、このレコーディングを目の当たりにしたヨアヒム・ベーレントが絶賛。ベーレントの推挙で1960年ドイツのエッセン・ジャズ祭に出演しまたまた大絶賛、ドイツの新聞でもこの模様が大きく報道され、このあと毎年のようにヨーロッパ・ツアーに出掛けることになる。
そして、このヨーロッパでのカークを聴いたクインシー・ジョーンズ (arr,tp) の計らいでマーキュリー・レコードと契約、『We Free Kings』(MERCURY、1961) を皮切りにマーキュリーから次々とアルバムを発表することになる。
こうした人との巡り合いは勿論、たぐいまれな才能があってのことである。

1963年の秋、カークはロンドンの「ロニー・スコット」へ一カ月間出演することになり9月30日夫人を伴ってロンドンに赴いた。
夫人のイーディス・カークによるとロニー・スコットでのギグが終わった後、カークはデンマーク、スウェーデン、フランス、イタリア、ドイツ、オランダそしてベルギーとツアーを行った。
このヨーロッパでのカークの評判を聞きつけたクインシー・ジョーンズが直ぐさまライヴ・レコーディングを設定しコペンハーゲンの「クラヴ・モンマルトル」で『Kirk In Copenhagen』(MERCURY,1963)を録音したのである。

カークはクインシーとミンガス以外のバンドでの演奏はあまり残っていないが何故か二人のビッグ・ドラマーとの共演盤を一枚ずつ残している。一枚はロイ・ヘインズ (ds) の『アウト・オブ・ジ・アフタヌーン』(ìmpulse!,1962)そしてエルヴィン・ジョーンズ (ds) との『RIP RIG&PANIC』(LIMELIGHT,1965)で、ロイ・ヘインズ、エルヴィンというヘヴィー・サウンドと真っ向勝負、どちらも正攻法でしっかり伝統と向き合っている。

ローランド・カークは1936年8月7日、オハイオ州コロンバスの生まれ、生きていれば今年で生誕80年ということになる(1935年生まれという説もある)。

本名はRONALD THEODORE KIRK、ロナルドのエヌ(N)とエル(L)を入れ替えてローランドとしたそうである。
生まれつきの弱視だったが、2歳の時にその弱視の治療中に看護婦が誤って多量の薬を投与したことによりほとんど視力を失ってしまった。
幼くして視力を失ったところはレイ・チャールズ (vo、p) と似ている。
音楽が好きだったカークは、始めビューグルというラッパ、そして次にトランペットを吹いたが医師にトランペットは目に負担をかけるから良くないといわれ、クラリネットにかえる。そしてその後Cメロディー・サックスを吹き、15歳の時にはテナーを吹くようになる。

盲学校を卒業するとカークはコロンバスの衣料店で働きながら土曜の夜のジャム・セッションで演奏していたが、15歳のときにR&Bのバンドにスカウトされプロになる。
このR&Bのバンドで地方の巡業に出掛けコロンバスに戻ってきたある夜カークは3本のサックスを同時に吹いている夢をみたという。
目覚めたカークは夢の中で響いたサウンドを求めて楽器店へ通い、楽器店の地下室にあった古い楽器の中から探し求めた楽器にたどりついた。
ひとつはマンゼロ、ソプラノ・サックスの一種で一般的にはサクセロと呼ぶがカークが手を加えてマンゼロと名付けた。
もう一つはそれからしばらくして同じ楽器店で見つけたストリッチ、アルト・サックスをストレートにしたような楽器でカークが片手で演奏できるように改良してストリッチと名付けたもので18歳くらいまでにはカークはテナー、マンゼロ、ストリッチを一緒に口にくわえて演奏する手法を身につけていた。

1956年、カークが20歳の時にファースト・アルバム『Triple Threat』(King,1956) をレコーディングするが注目を浴びることはなかった。
1960年にラムゼイ・ルイスに見いだされアーゴから事実上のデビュー・アルバムをリリースし躍進の糸口を見出す。
ラムゼイ・ルイス、ベーレント、クインシー、ミンガスといった大物の引きによって世界的なビッグ・ネームとなったカークは1969年の誕生日以降、自分の名前のかんむりにラサーン:RAHSAANをつけるようになった。
またしても夢がでてくるがカークは誕生日の前の日にみんながラサーンと呼んでいる夢を見たのだそうだ。
カークは後年『The Case of the 3Sided Dream in Audio Color』(Atlantic.1975)という2枚組の4面に13分程の長い無音が続いたあとに甲高い笑い声、そしてそのあともまた延々と無音が続き最後に短い男女の会話で終るというミステリアスなアルバムを作っている。
カークにとって夢の世界が音楽のかけはしだったのかもしれない。

カークは1965年にアトランティックのプロデューサー、ジョエル・ドーンのもとで『Here Comes The Whistleman』(Atlantic.1965) をレコーディングし以降アトランティックから次々とアルバムを発表するようになる。
ジョエル・ドーンは一般的にはロバータ・フラック (vo) のアルバムでグラミー賞を受賞した功績で知られているがマックス・ローチ (ds) やフレディ・ハバード (tp)、レス・マッキャン (p) など多くのジャズ・アルバムをプロデュースしていてカークはジョエル・ドーンのプロデュースのもとでどんどんブラック・ミュージック色を濃く反映するようになる。

ジョエル・ドーンとの2作目の『THE INFLATED TEAR』(Atlantic.1967) のタイトルはその後のカークの代名詞のように広まった。カークが2歳の時、弱視の治療をしているときに看護婦が誤って薬を大量にいれてしまい、その結果視力を失い、さらに後遺症か、ときどき涙があふれだしてしまうことが起きるようになってしまったという。
このアルバムで<溢れ出る涙>を演奏しアルバムのタイトルとして制作したもので、このアルバムの中にはカークの息子ロリ―の笑い声を使った<A LAUGH FOR RORY>という可愛い曲も入っていて筆者の愛聴盤の一枚になっている。

1970年代に入って録音した『Natural Black Inventions:Root Strata』(Atlantic.1971)にいたっては実に18種類もの楽器を一人で操り、さらに鳥のさえずる擬音まで使っていてまさにカークのワンマン・ショーが繰り広げられており、ジョエル・ドーンは<ラサーン・ローランド・カークはこれらの全ての楽器を同時に演奏している。ここに収められた演奏はオーバー・ダビングや電気的な処理は一切行わず一回で録音されたものである>とわざわざライナー・ノーツに断り書きをしているほど目まぐるしくカークの音の万華鏡がくりひろげられている。

1975年の秋カークは脳卒中に見舞われ、右半身の麻痺に陥ってしまう。それでもなお音への探究心、執着心が強く、強靭な意志を持っていたカークは猛烈なリハビリと左手だけで演奏できるように楽器を改良することによって翌年の1976年春には奇跡的な復活を遂げ、秋にはロンドンやパリなどのヨーロッパ・ツアーを敢行する。この時期の写真を見るとカークは座って吹いている。

カークは倒れる数カ月前にレコーディングを行い『Kirkatron』(Warner Bros. 1975)と『The Return Of 5000lb.Man』(Warner Bros. 1975)という2枚のアルバムにされている。
この『The Return Of 5000lb.Man』には3管演奏などはなくコーラスをバックにテナー一本でコルトレーンの<ジャイアント・ステップ>を吹き、ミンガスの<グッドバイ・ポーク・パイ・ハット>を唄っている。そしてライナー・ノーツの中でコールマン・ホーキンズ (ts) とレオン・チュー・ベリー (ts) などに感謝の言葉を述べている。
全体がゆったりとした流れで統一されていて、このアルバムを聴いているとひょっとしてカークは近い将来自分の身に起こる何かを予感していたのではないかという思いにかられる。

カークは1977年12月5日、インディアナ大学学生生協のフランジパニ・ルームで演奏を終えた後、二度目の発作を起こしその翌朝インディアナ州ブルーミントンで亡くなった。
41歳という若さで3管同時演奏という世にもまれな演奏方法と誰とも違った音の世界を探求し続け、命を絶つ直前まで演奏をし続けたカークの音への意欲は想像を絶する。
亡くなる一か月ほど前の作品『Boogie-Woogie String Along Real』(1977年 Warner)が遺作となった。

望月由美

望月由美 Yumi Mochizuki FM番組の企画・構成・DJと並行し1988年までスイングジャーナル誌、ジャズ・ワールド誌などにレギュラー執筆。 フォトグラファー、音楽プロデューサー。自己のレーベル「Yumi's Alley」主宰。『渋谷 毅/エッセンシャル・エリントン』でSJ誌のジャズ・ディスク大賞<日本ジャズ賞>受賞。

Chapter 47 ローランド・カーク 」への1件のフィードバック

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