JazzTokyo

Jazz and Far Beyond

閲覧回数 53,993 回

Reflection of Music 横井一江~No. 201R.I.P. セシル・テイラー

Reflection of Music Vol. 30 セシル・テイラー


セシル・テイラー @京都コンサートホール2013年
Cecil Taylor @Kyoto Concert Hall 2013
photo & text by Kazue Yokoi 横井一江


セシル・テイラーが京都賞を受賞するというのは、嬉しい驚きだった。

京都賞といっても関西方面はともかく、一般にはさほど知られていないので簡単に説明しておこう。それは、京セラの創業者で名誉会長の稲盛和夫が私財を拠出し設立した稲森財団(*)が、「人類の科学、文明、精神的深化の面で著しく貢献をした人を顕彰し、今後その面でのますますの発展の刺激になってくれればという気持から」創設した賞(**)である。先端技術部門、基礎科学部門、思想・芸術部門の各部門で「科学や文明の発展、また人類の精神的深化・高揚に著しく貢献した方々の功績を讃え」て授与する国際賞で、ディプロマ、京都賞メダル(20K)と共に賞金5,000万円が授与されることもあり、日本版ノーベル賞とよく言われているが、例えば音楽のようにノーベル賞にはない分野も補完している。各部門とも4つの対象分野があるため、それぞれの対象分野が回ってくるのは4年に一度。今年の思想・芸術部門の対象分野は音楽で、セシル・テイラーが選ばれたのだ。

この音楽分野で西洋芸術音楽以外のジャンルから受賞者が選ばれるのは初めてである。しかも、過去の受賞者はニコラウス・アーノンクールを除いて全て現代音楽の作曲家、アーノンクールも古楽・古楽器の研究に対する功績を含めて評価されているので、純粋な意味での演奏家(実演家)の受賞もこれまた初めてということになる。例えば映画・演劇分野では映画監督、演出家、振付家、文楽人形遣い、歌舞伎俳優という具合に、思想・芸術部門の他分野の受賞者がバラエティに富んでいたのとは対照的だったのだ。

第一回のオリヴィエ・メシアンに始まり、ジョン・ケージ、ヴィトルト・ルトスワフスキ、イアニス・クセナキス、ジェルジ・リゲティ、ピエール・ブーレズと錚々たる現代音楽の作曲家の名前が並ぶこれまでの受賞者は、50年代60年代「前衛」だった彼らの業績、存在感から大いに納得がいく。だが、西洋芸術音楽作曲家にのみ「前衛」がいたわけではない。とするならば、そこにセシル・テイラーの名前が入るのはとてもしっくりする。ジャズならば彼しかいないだろう。作曲家リュック・フェラーリが制作した「大いなるリハーサル」シリーズでは、ヴァレーズ、メシアン、シェルヘン、シュトックハウゼンに加えて、セシル・テイラーを撮った作品があったように。しかし、今回が「前衛」という言葉が輝いていた時代に革新性を持って大きな足跡を残した音楽家が受賞する最後となるような気がする。それは生涯功労賞的な意味合いを持つ賞であるにせよ、時代は既に大きく変化しているからだ。

京都賞の受賞者が発表されたのは6月だった。授賞式は11月10日、その時にはセシル・テイラーが来日し、関連行事として講演(公演)も行うという。しかし、授賞式でその姿を見るまで、彼が本当に来日し、演奏するのか、私の頭の中で疑問符は消えなかった。なぜなら、昨年のブルーノート東京を始めこのところキャンセルが度々あったからである。今年1月、ニューヨークで行われたインデリブル・フェスティヴァルには出演しているものの、84歳という年齢だから体調を崩すということもあり得るからだ。実はセシル・テイラーのほうがソニー・ロリンズより年上なのである。

しかし、それは杞憂だった。授賞式では自分でデザインしたというスーツ姿で登壇し、受賞者挨拶で「音楽家として詩人として一生をかけた仕事」、そして「独自の思想と考えに創造的な活力を発揮する個人」として認めてもらったこと嬉しく思うと、エジプト神話に刺激を受けて書いたという詩の朗読を交えながら語った。その前に挨拶をした生化学部門の受賞者である進化生物学者根井正利博士の業績にインスパイアされた言葉も即興的に織り込んでいたということを後から聞いた。それはまさに音楽面で構造と即興を身上とし、詩人であるセシル・テイラーならではの言葉だったといえる。

そしてまた、受賞者の紹介では、創造性のある若者を発掘し、奨学金を出すのが目的のセシル・P・テイラー財団を設立する旨のことを伝えていた。京都賞の賞金を財源にということだろうが、60年代にミュージシャン組織ジャズ・コンポーザーズ・ギルド設立に参画し、70年代初頭には自身のレーベルUnit Coreも立ち上げた彼らしい。実際、名前が売れてからも様々な困難に出会ったにも関わらず、葬り去られなかったのはその強靱な精神力があったからだ。商業主義とは一線を画し、創造的であろうとする芸術家は、いつどの国でも無理解な世間に立ち向かわなければならない。そのような現実と自身の経験をも振り返って、今度はサポートする側に立つことを決意したのだろう。式典後の記者会見で具体的な内容についての質問があったものの、まだそれを話す段階にはないとの答えだったが、その計画が軌道に乗ることを願ってやまない。

翌11日は3受賞者それぞれによる記念講演会だが、セシル・テイラーだけは講演ではなく公演、ダンサーの田中泯とのパフォーマンスがプログラムされていた。授賞式の姿からすると元気な様子。しかし、果たしてステージは、とここでまた疑問符が頭をよぎる。往年の名手による晩年の録音では随分と「よれよれだが味わいのある演奏」を聴いてきた。しかし、セシル・テイラーの世界はそうはなり得ない。そのようなことを考えていた時に、財団の広報部長から「テイラーさんはどんどん元気になっていますよ。担当者がニューヨークを訪ねていますが、今が一番元気です。日本に来てからも欠かさずピアノ練習をやっていらっしゃいます」ということを聞き、安堵したのだった。

受賞者紹介の後、暗転したままの舞台から聞こえてきたのは詩を朗読するテイラーの声。徐々に明るくなってきた舞台上には、シンバルを片手に時折ステップを踏みながら詩を読み続けるテイラーと田中泯。この二人の共演を観るのは二十数年ぶりだ。残念ながら詩そのものは上手く聴き取れない。もしかすると前日の授賞式のように、人類のアフリカ単一起源説を支持した根井博士の業績を受けて書かれたところがある詩作だったのかもしれない。テイラーのパフォーマティヴな朗読は、アミリ・バラカのそれを彷彿させるものがある。20分余り経っただろうか。やっとピアノの前に来たテイラーは、立ったまま鍵盤に指を置き、暗く重い低音を響かせる。やがて椅子に座り、演奏とダンスのコラボレーションが始まった。録音や公演でセシル・テイラーを知る人は、往年の音はもっと密度が高く、スピード感のある演奏だったと言うかも知れない。確かにそうである。だが、そこに立ち現れていたのは、まごうことなき「セシル・テイラーの世界」だった。この演奏を観た人からリリシズムを感じたという言葉を耳にした。セシル・テイラーの演奏でリリシズムとは。今までも演奏の端々から聴き取れたそれがそぎ落とされた音の中から、後半特に浮かび上がってきたことは確かに印象深かった。かくいう私は、演奏が終わった時に、長谷川等伯の『松林図』をなぜか思い出していたのだ。

11月12日は各受賞者によるワークショップである。リハーサル時の写真撮影の許可を得られたので、午後早い時間に京都コンサートホールへ出かけた。セシル・テイラーはまだで、ステージのピアノが弾き手の到着を待っていた。しかし、中央に置かれたピアノは小型のベーゼンドルファーである。昨日使用したベーゼンドルファーのコンサート・ピアノはなぜか隅に追いやられていて、やがてステージ上から撤去された。事情を聞いたら、ホテルで練習に使用していたピアノをすごく気に入り、それでコンサートをやりたいという強い希望によって、ホテルからホールへピアノを運んだのだとのこと。コンサート・ピアノについては「このピアノとよい会話が出来るようになるには一週間かかる」と言ったそうだ。よほどその練習用ピアノが気に入ったのか、それを調達した担当者は紹介された時、いきなりハグされたという。その理由はコンサートでわかることになる。

室内の暖房が暑かったのか、リハーサルに現れたテイラーは短パンにランニング姿。譜面台に自筆楽譜を置くと黙々と練習を始めた。それはおそらく何十年も変わらぬ練習風景だったと想像する。1971年にジャズ評論家の児山紀芳が自宅を訪れインタビューし、リハーサルにも同行した。その時のことを彼はこう書いている。

ピアノに向かったセシル・テイラーが姿勢を正して鍵盤上に両手をのばし、やがて静かに4つの音からなるモチーフをゆるやかに反復しはじめる。セシルはしだいにそのモチーフを変奏させてゆく。私はこのときはじめてセシルの音楽のあのコンプレックスな響きが、実は単純なモチーフの高等数学のようなセシル独特の方式で複雑化したものだという、その過程を知ることができた。セシルはそのとき、モチーフを、あらゆる角度から発展させていった。スピードをしだいに速めてゆく、それを極限まで速めたときの彼の指の動きはアート・テイタムですらかなわないように思えた。別のときは、さまざまなタッチで音を変化させていた。ソナタのような美しい響きがナイヤガラ瀑布のような轟音と化した。(『ジャズ・ジャイアンツの肖像』スイングジャーナル社)

もちろん使用した楽譜は変わっているし、さすがに「ナイヤガラ瀑布のような轟音」には出会わなかったが、1971年に児山紀芳がみた光景とパターンは違うものの似通った場面が展開していたのだろう。往時ほどスピードを速めることは難しかったにせよ、そのタッチは確かで、軽快にピアノを弾き続けていた。そして、ピアノもよく鳴っていた。このピアノとは「よい会話」が出来ているようだ。半ば過ぎあたりからは、唸り声のような、唄うような声を出して弾いていた。正直なところ、カメラのシャッターを切るよりもじっと練習を観ることに集中したかったくらいである。2時間ほど練習すると満足したのか、セシル・テイラーは引き上げていった。私はその創造の源をいくばくか見ることが出来たのである。

やがて本番の時間となった。ワークショップとはいえ、セシル・テイラーの場合は、「セシル・テイラーの世界:構造と即興」と題した田中泯とのステージである。京都賞関連行事らしく、冒頭国際日本文化センターの細川周平教授の短い話があったが、個人的なセシル・テイラー体験、40年前の初来日時に大きな衝撃を受けたことなどを交えながらのもので、こういう場にありがちな退屈な講義と違い、今回の京都賞受賞でセシル・テイラーを知った人にもわかりやすく、好感の持てるものだった。

ステージのライトが落ちた。暗闇の中、しばらく沈黙の時間が流れる。目を凝らして見るとステージ上に二つの人影が。下手にはセシル・テイラー、上手には田中泯、少し明るくなったが、2人はじっとしたまま動かない。やがて極めてゆっくりと動いているのがわかる。今度はまるで『龍虎図』みたいだ。京都観光で少し寺社を見たせいかもしれない。私はなぜかまた長谷川等伯の晩年の作品を思い浮かべていた。背中を丸めた虎がテイラーで、龍が田中か。禅語に「龍吟雲起 虎嘯風生(龍吟ずれば雲起こり、虎嘯けば風生ず)」という言葉があるが……。支配しているのは静かな緊張感である。やがて二人は極めてスローなテンポで踊りというよりも動きながら舞台中央に向かっていく。いったい何分ぐらい経っただろうか。ピアノの位置に辿り着いたテイラーは、おもむろに詩の朗読を始める。そしてピアノに向かったが、その間合いを引き取ったような演奏、それに呼応する田中。程なくしてステージが暗転するもののテイラーはピアノを暫く弾き続け、やがて一部は終わった。舞台からさまざまなイメージを思い浮かべた人もいるのではないだろうか。幾重にも解釈可能なパフォーマンスだった。今まで何度か、田中との共演も含めテイラーの舞台を観たが、このようなのは初めてである。まるで、いままで観てきたセシル・テイラーの世界を反転させたような舞台だった。

二部はごく普通にセシル・テイラーが舞台に現れ、ピアノに座り、田中泯のダンスを見据えながら演奏を始めた。驚くべきことに、ファンならば誰もがよく知っている往年のテイラーを彷彿とさせる演奏が立ち現れたのである。発展させたモチーフがリズミックに重層的に立ち現れるあの演奏。スピード感は以前に比べると劣ることは否めないが、しかし、集中力と技術力がなければ到底不可能なハードコアな演奏をもぶっ通しではないにせよ、ここで観るとは。田中もまた一部とは異なった世界を踊りで見せる。一部が静ならば二部は動、あるいは陰と陽というように対をなすステージだった。全てが終了し、ふと時計を見たら、終演予定時間から40分ぐらい過ぎていた。しかし、長さは全く観じなかった。寧ろあっという間に時間が経過していったように感じたのである。

セシル・テイラーはなぜ田中泯を共演者に選んだのだろう。当初はイギリス人ドラマー、トニー・オクスレーと一緒に演奏することを望んでいたが、病気のためにそれが叶わなかったと、テイラーは短い会話の中でとても寂しそうな顔で言っていた。私もそれはとても残念でならない。近年のテイラーの知的創造力、身体能力を見据えて共演出来る最適任者はオクスレーだということは、ベルリンで見たステージでよくわかっていたからだ。全く異なった文化的なバックグラウンドを持つにもかかわらず、それぞれの個人が自らの手法、構築する世界を創ってきて、最良のコラボレーションが可能な地点に到達していたからである。それはともかく、オクスレーの来日が不可能になった時点で、あえてダンサーの田中とのデュオにしたのは最善の選択だったといえる。テイラーのダンスについての造詣は半端ではない。時に自らダンスも踊り、身体表現にも通じている。詩人でもあり、イマジナティヴでありながらも深淵な知性をもつ現在の彼と時空間を共有するのは、単なる演奏家よりも独自のダンスを練り上げてきた田中のほうが向いていたということを、ステージを観て納得したのだ。

ところで、二部の演奏を聴いた時、いつものテイラーと思ったが、それを聴くこと自体奇跡だったのではないかと思う。そして、その奇跡が可能だったのは、お気に入りのピアノがそこにあったからではないか。実は、帰京後ピアニストの友人との対話で、それに気がついたのだ。テイラーの場合、ドシャメシャのフリーに聞こえる音も闇雲に打鍵しているわけではない。即興演奏とはいえ、ただ相手に反応しているわけではなく、構造を見据えている。研ぎ澄まされた感性によって引き出される音のベースにあるのは、自身の楽譜にあるモチーフであり、それを発展させたものであり、技術的な裏付けがあるからこそ可能なのである。だとすれば、若い頃に比べれば当然運動神経も劣る84歳という年齢であの演奏をやってのけたのは、欠かさぬ毎日の練習もさることながら、お気に入りのピアノがあってこそだったのではないだろうか。ピアノといってもメーカーや型、加えて調律などのコンディションによって、演奏する側には大きな違いがある。現在のテイラーにとって、ピアノの違いはその音楽的内容も左右したのではないか。だからこそ、あの小型のベーゼンドルファーにどこまでもこだわったのだろう。

セシル・テイラーについて語る時、フリージャズの先駆者であるとか、フリージャズ・ムーヴメントの代表的なミュージシャンということがよく言われる。確かに彼は時代の寵児だったし、ビル・ディクソンが提唱したイベント「ジャズの十月革命」やジャズ・コンポーザーズ・ギルドに参加し、一種のムーヴメントにも関わっていた。だが、今なおその音楽をフリージャズという狭いカテゴリに閉じこめてしまうことは、いささか無理があると私は考える。誰もデューク・エリントンをジャズのサブジャンルのどれかに押し込めることが出来ないのと一緒だ。確かにテイラーの60年代の音楽には時代性も色濃く反映されている。だが、それを超克していったのだ。時代の音楽トレンドや音楽業界を取り巻く動向とは全く無関係に、その世界を深化させていった。ゆえに彼は単に時代と寝たミュージシャンではなく、もはやエリントン同様に音楽家として屹立した存在なのである。そして、今回再びそのステージを観て、彼が追求してきたのは、あくまでもパーソナルな音楽であり、世界だということを強く感じたのだった。

 

スライドショーには JavaScript が必要です。

* http://www.inamori-f.or.jp/index.html

** http://www.inamori-f.or.jp/ja_kp_phi.html

初出: No. 192, 2013年11月24日

【関連記事】

Reflection of Music (Extra) Vol. 31 セシル・テイラー

Gallery #25 『Cecil Taylor Unit/Nicaragua: No Pasaran – Willisau 83 Live』

横井一江

横井一江 Kazue Yokoi 北海道帯広市生まれ。音楽専門誌等に執筆、 雑誌・CD等に写真を提供。ドイツ年協賛企画『伯林大都会-交響楽 都市は漂う~東京-ベルリン2005』、横浜開港150周年企画『横浜発-鏡像』(2009年)、A.v.シュリッペンバッハ・トリオ2018年日本ツアー招聘などにも携わる。フェリス女子学院大学音楽学部非常勤講師「音楽情報論」(2002年~2004年)。著書に『アヴァンギャルド・ジャズ―ヨーロッパ・フリーの軌跡』(未知谷)、共著に『音と耳から考える』(アルテスパブリッシング)他。メールス ・フェスティヴァル第50回記。本『(Re) Visiting Moers Festival』(Moers Kultur GmbH, 2021)にも寄稿。The Jazz Journalist Association会員。趣味は料理。当誌「副編集長」。 http://kazueyokoi.exblog.jp/

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください