JazzTokyo

Jazz and Far Beyond

閲覧回数 50,018 回

Reflection of Music 横井一江~No. 201R.I.P. セシル・テイラー

Reflection of Music Vol. 31(Extra) セシル・テイラー


セシル・テイラー @京都 2013年
Cecil Taylor @Kyoto 2013
photos & text by Kazue Yokoi  横井一江 Ⓒ2013


京都賞の授賞式で来日したセシル・テイラーの共同取材が、記念講演(公演)とワークショップ(コンサート)という関連行事を終えた翌日にセッテイングされるというので、当初2泊で予定していた京都滞在をもう一日延ばして参加することにした。

当日、私は10年前の11月のことを思い出していた。その時、私はベルリンにいた。ベルリン・ジャズ祭とFMP主催のトータル・ミュージック・ミーティングを取材するためである。フェスティヴァルが開演する前、午後の早い時間に、半ば引退したヨスト・ゲーバースに代わってトータル・ミュージック・ミーティングの運営とFMPのディストリビューション部門を任されたヘルマ・シュライフに話を聞きに行った時、突然彼女がこう言い出したのだ。「セシルにインタビューしなさいよ。彼の話は面白いわよ。紹介してあげる」と。

その夜、トータル・ミュージック・ミーティング(TMM)ではセシル・テイラーとトニー・オクスレーがデュオで出演する予定だったので、ベルリン・ジャズ祭の会場から開演時間に合わせてTMMが開催されているポーデヴィルへ向かった。到着した時にはすでに満席。演奏はまだ始まっていなかったので、後方でカメラを持って立っていたら、かわいいティーンエイジャーの女の子が私を呼ぶ。「(隣の席を差して)ここが空いたから、座りなさいよ。どこから来たの?日本?」と話しかけてきたのである。横にいるのはボーイフレンドのようだった。セシル・テイラーとトニー・オクスレーのコンサートにティーンのカップル、日本ではあり得ない光景だったのでなんとも不思議だった。しかし、後でその訳がわかった。彼女はトニー・オクスレーの愛娘だったのである。奇遇というしかない。

テイラーの場合、なかなかきっちりとアポイントメントをとれる人物ではない。しかも時計ぎらいだという。そこで労を取ってくれたのがオクスレー夫妻だった。翌日の夜、パリス・バーというレストランにいるから、フェスティヴァルが終わったら来るようにと言われた。私が到着した時、すでにすっかりリラックスしていたテイラーは、ダンスの話に夢中になり、そのうちあの時はああだったこうだったと、そしてまたダンスの話に戻り、それが延々と明け方まで続いたのだった。インタビューにはならなかったが、たしかに彼の話は面白かった。しかし、はたして今回はどうなるのだろうと思いながら、共同取材に向かったのである。


今回もやはり、最初のうちは質問に答えているのだが、話が違う方向に展開していったり、禅問答のようになったり、おそらくその場にいた人は皆記事をどう書くべきか頭を悩ませたと想像する。話は多岐にわたるのだが、ここでは彼の語ったことで印象に残ったことを簡潔に記すことにしたい。

*詩との出会い

セシル・テイラーは詩人でもある。パフォーマンスでは決まってポエトリー・リーディングを取り込んでいる。いつごろどのようなきっかけで詩作を始めたのだろうか。

母は哲学が好きで、ショーペンハウエルに傾倒していた。これはあとになってから知ったのだが父親も詩を書いていた。私も1962年頃から書くようになった。リロイ・ジョーンズ(現在の筆名はアミリ・バラカ)に勧められたのがきっかけだった。

その頃、リロイ・ジョーンズは当時の妻ヘティと『ユーゲン』というリトル・マガジンを発行していた。それに寄稿していたのは、アレン・ギンズバーグ、ウイリアム・バロウズ、グレゴリー・コーソ、ジャック・ケラワック、ゲイリー・スナイダーなどビートの主要人物である。ジョーンズ自身の処女詩集『20巻の自殺ノオトの序文』も1961年に彼らのトーテム・プレスから出版。また、ダイアン・ディ・プリマが出版していた『フローティング・ベア』というリトル・マガジンも共同編集していた。

ビート文学の研究者ビル・モーガンによると、テイラーはときどきディ・プリマの部屋に立ち寄ると、ガリ版で印刷するのを手伝ったりしていたという(*)。ビート・ジェネレーションの詩人・作家は、ジャズに興味を持っていて、セシル・テイラーが最初に契約したジャズ・クラブ「ファイヴ・スポット」などに繁く通っていたことはつとに有名だが、ジャズ・ミュージシャンで詩作に興味を示したのはセシル・テイラーぐらいではないだろうか。

『ユニット・ストラクチャーズ』(Blue Note)のライナーノーツを書いたのもバラカの提案。彼と歩いている時にオマエ書けよということになったんだ。録音の時、ルディ・バン・ゲルターは9フィートのスタインウェイを持っていたのだけど、私が弾くと「ぼくの9フィートに、なんてことをするんだ」と怒ったのさ。

リロイ・ジョーンズがアレン・ギンズバーグのところへ連れていってくれた。『吠える』はすでに読んでいた。ギンズバークのより良い詩を書いてはいけないので少し控え目に書いたよ。2回ほど会ったね。2回目の時、ジョーンズは「ジャズ・ミュージシャンは文学的じゃないからね」と言ったんだ。でも、それは間違いだった。5年後、私のノーツを読んだジョーンズは「なかなかいいのを書くではないか」と文才を少し認めてくれた。ビート詩を始めたひとり、ボブ・カウフマンに会ったこともある。

*ジャズという概念、身体性

ジャズという音楽の概念について、セシル・テイラーはその肉体性、身体性を説明するのに物理学用語のダインを用いて、興味深いことを言っていた。1ダイン(dyn)は、質量1グラム (g) の物体に働くとき、その方向に1センチメートル毎秒毎秒(cm/s2)の加速度を与える力と定義されている。

ジャズについて評論家や物書きはいろいろなことを言ってきた。ジャズの本質を表現するのにスウィングという言葉が使われる。振幅という意味だが、黒人が音楽を演奏する時に生じる独特の現象だと思う。

ピアノの鍵盤をたたいて鳴らす時、音楽を加速させるのは力だ。私はこれをダインという力の単位を使って解説してきた。ダインは物体に加速度を与える力をはかるために使われる。音楽にはつねに肉体性、身体性が伴う。

(詩として書かれたテキストを出して読み始めた。詩ではとても翻訳できないので、これは言葉を単に日本語に置き換えただけにすぎない。)

毎秒1㎝。ダインという単位は物理学用語。音楽においては打楽器的な運動がある。叩く行為がある。運動の要素がある。それが意味を持つ。力の要素。力が動く、運動する。力の要素があるから移動、加速がおきる。それは毎秒1㎝。……

セシル・テイラーのピアノを特徴づけるもののひとつにパーカッシヴな奏法がある。それは子供の頃に優れたドラマーを観たこととなんらかの関係があるのだろう。

母に連れられてアポロ劇場に行ったのが5歳の時。バンドはチック・ウェッブ楽団。小柄なドラマーがリーダーさ。(後に)エラ・フィッツジェラルドの唄う<ア・ティスケット、ア・タスケット>も聴いたね。カーネギー・ホールではジーン・クルーパもキング・オブ・スウィング(ベニー・グッドマン)のバンドで観たよ。母の一番下の弟、叔父にあたる人はドラマーで、有名なミュージシャンとも知り合いだった。その影響もあったね。

京都賞の授賞式で、奉祝能として「鞍馬天狗 白頭」が始まった時に、壇上に座っていたセシル・テイラーの表情が変わったのが、客席からもわかった。能の音楽に反応したに違いないとは思ったが、その時何を考えていたのかを自ら語ってくれた。

京都賞の授賞式で能を観た時、モンクのピアノ演奏を思い出したんだ。モンクは指を伸ばして弾く。体重を真っ直ぐに伸ばした指にかける。こういう弾き方をするのは彼だけだ。伸ばした指に体重をかけ、完璧な和音を出す。モンクはよく演奏中に立ち上がってくるくると回るようにダンスしていたが、鍵盤にどのように体重をかければいいのかを完璧に把握していた。適切に力を伝えることは大事だ。これはテレビを観ていて気がついたんだよ。テレビではスローモーションで映すことがあるからね。だから気がついたんだ。彼は4,5歳の子供のように、なんの制約も受けないで弾いていたよ。

*ダンス

ダンサーでもあった母の影響で、セシル・テイラーは6歳の頃から見よう見まねで踊っていたという。ダンスが余程好きなのか、いったんダンスの話に脱線すると、そもそもの質問はどこかへ消え、まるで憧れのスターについて話す子供のように夢中になってしまって、止まるところを知らない。身振り手振りを交えて楽しそうに話すその姿は、10年前のベルリンと同じである。

シャーリー・テンプルとの共演で知られる黒人タップダンサー、ミスター・ボージャングルことビル・ロビンソンの逸話に始まり、フレッド・アステア、バレエのミハイル・バリシニコフ、マーゴット・フォンティーン、アリシア・マルコワ、マヤ・プリセツカヤ、フラメンコのカルメン・アマヤ、キューバ出身のバレエ・ダンサーのアリシア・アロンソと、著名ダンサーの名前がポンポンと飛び出す。かと思えば、アイルランドの足だけで踊るステップ・ダンスのことも話題に出たり……。ダンス評論家顔負けだった。

そのなかでも興味深かったのは、何十年も前だがジャドソン教会にポストモダン・ダンスを観に行き、そこではリロイ・ジョーンズと何度も会ったということである。60年代に起こったバレエやモダンダンスに対抗するオルタナティヴなダンスを観に行っていたのだ。ニューヨークでそのジャドソン・ダンス・シアターが活発に活動していた頃、日本では土方巽に代表される暗黒舞踏が立ち上がっていた。セシル・テイラーが、BUTOHとしてある種のブームが起こる以前から暗黒舞踏に感心を寄せていたことにも肯かされる。


セシル・テイラーのステージでは、詩の朗読もダンスあるいは所作も音楽に深く結びついており、総合的なものとなっている。授賞式のスピーチがそのスピリチュアリティを語っていたのでここに引用しておこう。

エジプトにおいてARTは科学であり、芸術である。音だけではなく、息づかい、胸の鼓動、音韻がどのように発せられるのかを大事にする。私たちは心拍と共に息をしてリズムを生きているのだ。ずっといつまでも私たちの存在に形を与えてくれている。これが私たちの生命、音楽、そして友情の表現を可能にしている。

ところで、私たちは彼の音楽をどう聴けばよいのか。十年前のベルリンに戻ろう。トニー・オクスレーと話をしていた時のことである。彼はこう言った。「セシルの音楽をモダーン・ミュージックのように決してシリアスに捉える必要はない。とても自由でエナジーに満ちていて、僕は演奏していてもとても楽しい」。そして付け加えた。「ただココロを開いて聴けばいいのだ」と。

聞きたいことは山ほどあったのだが、共同取材であり、1時間強という限られた時間の中では仕方がない。多くを聞きそびれたのが残念である。上の写真は京都国際会議場での授賞式後の記者発表の時、下の写真は11月13日グランドプリンスホテル京都での共同取材の時に撮影したもので、セシル・テイラーの横に座っているのは彼の古い友人でこの日の通訳をしてくれた東京藝術大学の木幡和枝教授(当時、現在は名誉教授)である。

 

* ビル・モーガン『ビート・ジェネレーション ジャック・ケルアックと旅するニューヨーク』今井栄一訳・ブルース・インターアクションズ 2008年

初出: No. 193, 2013年12月29日

【関連記事】

Reflection of Music Vol. 30 セシル・テイラー

Gallery #25  『Cecil Taylor Unit/Nicaragua: No Pasaran – Willisau 83 Live』

横井一江

横井一江 Kazue Yokoi 北海道帯広市生まれ。音楽専門誌等に執筆、 雑誌・CD等に写真を提供。ドイツ年協賛企画『伯林大都会-交響楽 都市は漂う~東京-ベルリン2005』、横浜開港150周年企画『横浜発-鏡像』(2009年)、A.v.シュリッペンバッハ・トリオ2018年日本ツアー招聘などにも携わる。フェリス女子学院大学音楽学部非常勤講師「音楽情報論」(2002年~2004年)。著書に『アヴァンギャルド・ジャズ―ヨーロッパ・フリーの軌跡』(未知谷)、共著に『音と耳から考える』(アルテスパブリッシング)他。メールス ・フェスティヴァル第50回記。本『(Re) Visiting Moers Festival』(Moers Kultur GmbH, 2021)にも寄稿。The Jazz Journalist Association会員。趣味は料理。当誌「副編集長」。 http://kazueyokoi.exblog.jp/

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください