Reflection of Music Vol. 62 トマシュ・スタンコ
トマシュ・スタンコ @ベルリン・ジャズ祭 2016 (リハーサル)
Tomasz Stańko @JazzFest Berlin, November 04, 2018 (Rehearsal)
Photo & text by Kazue Yokoi 横井一江
またひとり、レジェンドが旅立った。
まさかと思うニュースだった。なにしろ一年九ヶ月前に彼がトランペットを吹く、その姿を観ていたのだから。その時は健康に問題があるようには全く思えなかったからである。ポーランドのメディアがトップ・ニュースでトマシュ・スタンコの訃報を伝えるのを見て、Twitterに流れてきた情報が残念ながらガセではないことを確認したのだった。
トマシュ・スタンコというと、マンフレッド・アイヒャーの眼鏡に適った代表的なECMミュージシャンという印象が強いのではないだろうか。実際、70年代から多くの作品をECMでリリースしてきた。そんな彼のキャリアのスタートは、ポーランドやヨーロッパのジャズに通じる人には夙(つと)に知られているところだが、60年代初頭クシシュトフ・コメダのグループに抜擢されて頭角を表わしたことに始まる。ヨーロッパのジャズに造詣が深い星野秋男は、その著書『ヨーロッパ・ジャズ黄金時代』(青土社、2009年)でこう書いている。
そして東欧ジャズの革新ぶりをハッキリ示したのが、1965年のクシシュトフ・コメダ・クインテットの『アスティグマティック』で、モードとフリーを消化した意欲的な力演には、バップの殻を破ろうとする強靭な意志と覇気が溢れている。同年の『ジ・アンジェイ・トシャスコフスキー・クインテット』も同じ方向性を持った傑作だ。そしてこれら2枚のアルバムに参加しているトマシュ・スタンコ (tp) が圧倒的に良い。この時期の東欧にこれ程の演奏が生まれていたことは一種の驚きですらある。演奏全体としては、マイルスが最も前衛に接近した頃、つまり1967年の『ソーサラー』あたりのサウンドに近いが、コメダやスタンコの方が先だからコピーではない。ここには暗い陰影感や緊迫感、ひたむきな革新性や覇気といった60年代東欧ジャズの特徴がハッキリ表れている。
非常に興味深いのは、マイルスのコピーではなく、彼と同じようなことをスタンコ達が一足先に試みていたと星野が指摘していることだ。必ずしもアメリカのジャズの後追いではなく(もちろん多大な影響はあったとしても)、ハードバップ以降のジャズを独自に模索しているミュージシャンが東欧にもいて、そのひとりがスタンコだったというのである。
当時のことを考えてみてほしい。彼が頭角を現した1960年代は、東西冷戦の最中だった。東西ヨーロッパを分ける鉄のカーテンがあり、西側から見た向こう側=東側のシーンはなかなか伝わってこなかった。そこでのジャズ状況についてはわずかに入ってくるLP、ポーランドならばPoljazzやMUZAといったレーベルからのリリースによって知るのみだったのである。旧東欧圏では旧ソ連と同様、ジャズは好まざるものだったという認識が先行する。だが、ワルシャワではジャズ・ジャンボリーというジャズ・フェスティヴァルが開催されていて西側のミュージシャンも出演していた。『ジャズ・フォーラム』というジャズ雑誌があり、その英語版もまた(一時期はドイツ語版も)出版されていたのである。ドイツ、ライプチヒに居た評論家ベルト・ノグリックは『ジャズ・フォーラム』に寄稿していただけではなく、ポーランドのジャズを紹介したり、自身が関わっていたジャズ祭にポーランドのミュージシャンを招聘したりしていた。決して閉ざされた状況にあったわけではないのである。人々の活動に制限のあった共産主義国家ながらもおそらく各所に自由の抜け道があったからこそ、映画などと同様ジャズにおいても革新的で創造的な活動が展開されたのではないかと想像する。
1960年代終わり、スタンコはズビグニエフ・セイフェルト(エレクトリック・ヴァイオリン、アルトサックス)を擁したクインテットでの活動を始める。そして、1970年のベルリンジャズ祭へのクインテットでの出演を契機として、より活動の幅を広げていったように思う。スタンコはその年のベルリンジャズ祭でグローブ・ユニティ・オーケストラ(GUO)のメンバーとしても演奏している。GUOが最もアヴァンギャルドだった時代の貴重な録音『Globe Unity 67 & 70』 (Atavistic) にそれは残されている。それだけではなく、その後クシシュトフ・ペンデレツキ、ドン・チェリーを始めとする様々なミュージシャンと共演を重ねた。60年代から才気溢れるトランペッターだったが、フリージャズの即興演奏でも非凡さを発揮していたといえる。
しかし、やはり70年代の活動では、フィンランド人のドラマー、エドワード・ヴェサラ (1945〜1999) との出会いが大きかったように思う。アイヒャーにスタンコを紹介したのもヴェサラだ。ヴェサラとのカルテット編成の録音といえば『Balladyna』(ECM) を思い浮かべる人が多いと思うが、ヴェサラ自身が設立したフィンランドLeo Recordsからリリースされたカルテット編成の『Almost Grenn』が私としては印象に残っている。それを最初に聴いた時、ヴェサラのタイム感とスタンコのどこか哀感を湛えた叙情性が東欧とも北欧ともつかない、それまで耳にした西欧のミュージシャンの演奏とは異なった空気感を醸し出しており、それが耳に新鮮だったからだ。
ヴェサラは1997年にサウンド&フューリーで来日し、横濱ジャズプロムナードで演奏したのを観たが、スタンコはなかなか来日しなかった。彼を観る機会が訪れたのは2003年のベルリンジャズ祭で、評価の高かったカルテット(スタンコ (tp)、マルチン・ヴァシレフスキ (p)、スウォヴォミル・クルキエヴィチ (b)、ミハウ・ミシュキエヴィチ (dr))での演奏だったが、会場間の移動の関係でフルに観ることが出来なかったのが悔やまれる。2005年に来日しているが、ポーランド大使館での演奏のみだったため、そのような催しの常で知る由もなく、正直もうスタンコを観る機会はないだろうと思っていた。まさか、ベルリンジャズ祭でのグローブ・ユニティ・オーケストラの50周年記念コンサートでその姿を見るとは。写真はその時のリハーサルで撮影したもの。その時のGUOのトランペッターはスタンコ以外にマンフレッド・ショーフ、アクセル・ドゥナー、ジャン・ルイ・カポッゾ。トランペッターに限らず、屹立した個性のミュージシャンが並んでいる様はまさに「グローブ・ユニティ」という言葉を象徴していた。近年のECMでの諸作を聞く限り、再びGUOで演奏するとは想像していなかっただけに、貴重な場に居合わせたのは幸運だったとしか言いようがない。
2010年に『Desperado. Autobiografia Tomasz Stańko』(Wydawnictwo Literackie) というスタンコの自伝がポーランドで出版されている。日本語訳は難しいだろうが、せめて英訳本が出ないものかと思っている。なぜなら、そこからポーランドのジャズ・シーンが見えてくるだろうし、話としてもかなり面白いことが書かれていると想像するからだ。そして、ポーランド内外におけるその軌跡と映画音楽を含めた彼の業績がいつかきちんと検証されることを願いたい。
スタンコはコメダから大きく影響を受けた作曲法、そして即興演奏家としての類い稀な才能、よくスラブ的と表される陰影を湛えた叙情性と奔放さを併せもった稀有な存在だった。心からの冥福を。(『Leosia』(ECM) を聴きながら)