Reflection of Music Vol. 67 齋藤徹

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齋藤徹 @東京・目黒「スタジオ ES」2003
Testu Saitoh @”Studio Es” Meguro-ku, Tokyo, April 15, 2003

齋藤徹&バール・フィリップス @ 横濱インプロ音楽祭 2005
Tetsu Saitoh & Barre Phillips @Yokohama Impro Musica, October 10, 2005

Photo & text by Kazue Yokoi 横井一江

 

ふと思い立って『Barre Phillips / End』(ECM)を聴き始めた。バール・フィリップス自身がジャーナル・ヴィオローネ最終章、最後のソロ・アルバムという作品である。ベース特有の倍音の響きに身を委ねているうちにそれがレクイエムに聞こえてきた。齋藤徹が他界したということを人づてに知った数日後のことである。私はFacebookにはあまりアクセスしないので、そこで情報が発信されていたことは後で知ったのだ。

年齢が近いということもあり、齋藤徹の軌跡は私の記憶の中でさまざまな事象にシンクロしながら、その時々の音楽動向、即興音楽を取り巻く変遷と共に蘇ってきた。それは「音をさがして」の旅だったのではと今にして思う。職業音楽家とは一線を画したその活動に、狂気を内部に抱え込んだ天才肌のアーティストというより、学究肌の研究者に近いものを私は感じていた。彼の探求心がそう思わせたのかもしれない。優れた芸術家も研究者も勘がいいものだ。彼の音楽的な変遷は時節の流れに即したもので、音楽的評価も高かったが、その誠実さゆえ商業的な成功とは残念ながら無縁であったことも確かである。

彼が初台の騒(がや)でデビューしたということは話としては知っているが、その頃の演奏は観ていない。そのキャリアの初期で富樫雅彦や高柳昌行のグループに参加するなどフリージャズとの関わりはあったにせよ、そこから離れ、即興音楽や時々インスパイアされた音楽の方へとその志向は向かっていったといえる。80年代半ばにジョン・ゾーンが登場し、ヨーロッパでもそれまでのフリー・ミュージックとは異なった志向の即興音楽を探求するミュージシャンが出てきた時流の流れから考えれば自然なことだったのだろう。

私が彼の存在を知ったのはタンゴを演奏したCDだった。90年代初頭には沢井一恵(箏)などの邦楽器演奏家との共演も始まっていた。その非凡な才を注視するようになったのは、沢井箏曲院の若手演奏家グループ Koto Vortex との共演で『ストーン・アウト』(OMBA)、ソロ・アルバム『CONTRABAJEANDO』(Jabara)、ピアソラ作品集『Ausencias』(Jabara)といったCDが次々とリリースされた90年代半ばである。金石出の名前から「ストーン・アウト」という作品が作られたように、当時の彼は韓国のシャーマン音楽に傾倒していた。韓国の民主化、ソウル・オリンピック後、韓国のミュージシャンとの交流も可能になったことから、彼だけではなく、韓国シャーマン音楽/民族音楽に興味を持つ音楽家が出てきたのである。1992年に日韓のミュージシャンによる「ユーラシアン・エコーズ」をスタート。音のミッシング・リンクを探す旅は始まっていたといえる。その後、東京中心文化圏、地方→東京→欧米という流れに対抗するオルタナティヴとして、インドネシアから発し、琉球、九州、朝鮮半島、日本列島の日本海側を流れ、稚内に辿り着くもうひとつの黒潮の文化圏をイメージした「オンバクヒタム」公演を2009年に、日韓のミュージシャンにピナ・バウシュ舞踊団のソロ・ダンサーのジャン・サスポータスが加わる形で「ユーラシアン・エコーズ第2章」の公演を2013年に行っている。

1986年にバール・フィリップスと出会ったことが、齋藤と海外のミュージシャンとの交流の機会を広げたといえる。齋藤が何度も日本に招聘し、日欧でツアーをしたミシェル・ドネダ(sax)がフィリップスのグループのメンバーだったことはその一例だ。フィリップスと親しくなったことから、2004年に互いが所有する19世紀後半に制作されたコントラバスGand & Bernadel(略してガンベル、糸巻き部分にライオンの頭部の彫刻があるのが特色)の交換に至るのである。事の始まりはヨーロッパでの演奏時、フィリップスが所有するガンベルを貸してもらった齋藤がその音に魅せられ、誰にも弾かれない状態で発見されたガンベルを購入。しかし、百年の眠りから覚めたばかりの楽器の音はまだ若い。フィリップスのガンベルの音色が忘れられない齋藤の希望で、楽器が交換されることになったのである。そのために行われたツアーは「2頭のライオン物語」と題された。私は横浜のBankArt 1929ホールで観たが、天井が高く、残響音が長いそのホールが、ベース・デュオにはおあつらえむきの環境だったことを記憶している。

齋藤は、フィリップスやドネダだけではなく、ジョエル・レアンドレ(b)、オリヴィエ・マヌーリ(bandoneón)、フレデリック・ブロンディ(p)などを招聘してツアーを行っている。とりわけ、ダンサーのジャン・サスポータスは近年よく来日していた。即興演奏では同い年の今井和雄(g)とOrbitと題してplan Bで定期的にデュオ演奏行ったり、国内の即興演奏家とのセッションもまた機会があれば行われていた。10年代に入ってからは、さとうじゅんこ(歌)、喜多直毅(vln)との「うたをさがして」のシリーズが始まるが、3.11を経て、近年の主たる活動はこの延長線上にあった気がする。長年に亘る彼の軌跡を辿るとその思考の変遷が生き様と共に浮かび上がってくるに違いない。

ベース奏者としての齋藤はまた、ヨーロッパ由来の楽器の演奏でいかに自己を表現しうるのかを奏法も含めて追求し続けたといえる。倍音が豊かで、雑味を蓄えた楽器ならでは、また即興演奏家ゆえに実現し得たサウンドだったといっていい。ベースを寝かせて、ボウイングするという独自のスタイルもそのひとつである。そしてまた、彼はその活動の中にダイバーシティな発想を持ち込んだ希な音楽家だった。乾千恵(書、絵)との共作、また矢萩竜太郎(ダンス)とのコラボレーションは齋藤ならではのもので、アーティストの活動の可能性を拓くものだったと考える。そういう意味でもまたとない人物だったといえよう。

上の写真は、ドネダとの「春の旅03」の最後の公演。その日は、齋藤、ドネダ、沢井一恵、今井和雄という顔合わせだった。下の写真は2005年に2頭のライオンの再会した時のものである

数日前、JAZZ ART せんがわと交換プログラムがスタートしたカナダ・ケベック州ヴィクトリアヴィルの国際音楽祭のプログラムを見た時に、バール・フィリップスが5月17日夜ソロで出演していたことに気がついた。その日時を日本時間に置き換えるとまさに齋藤徹が旅立った時刻に重なっている。そこは齋藤も出演したことがあるフェスティヴァルだ。果たして、肉体を離れた魂はバール・フィリップスが奏でる音を聴いていたのだろうか。しかし、84歳のレジェンドに送られるとは…。

齋藤は全くもって独自の道を歩んだミュージシャンだけに、ぽっかりと大きな穴が空いたように感じる。人の死というのはそのようなものなのだろう。誰もその穴を埋めることはできない。新たな場所で新たな創造活動が生まれることを期待するのみである。だが、残された「ライオン」は誰かに引き継がれていく。楽器のほうが人間より長く生き永らえる。だから、新たな弾き手が奏でる音色の奥深くに齋藤徹の響きも生き続けるのである。楽器が演奏される限りずっと。

心からのご冥福を祈ると共に彼の音楽生活を支えたご家族にお疲れさまとひとこと申し上げたい。

 

【関連記事】

Reflection of Music Vol. 10
バール・フィリップス@横濱インプロ音楽祭2005
http://www.archive.jazztokyo.org/column/reflection/v10_index.html

Reflection of Music vol.34 ローレン・ニュートン
ローレン・ニュートン @横濱ジャズプロムナード2002
*この写真を撮影した時の共演者は齋藤徹と沢井一恵だった。
https://jazztokyo.org/column/reflection-of-music/post-4468/

#  このCD2014国内編『ユーラシアンエコーズ第2章』
http://www.archive.jazztokyo.org/best_cd_2014a/best_cd_2014_local_09.html

 

横井一江

横井一江

横井一江 Kazue Yokoi 北海道帯広市生まれ。The Jazz Journalist Association会員。音楽専門誌等に執筆、 雑誌・CD等に写真を提供。海外レポート、ヨーロッパの重鎮達の多くをはじめ、若手までインタビューを数多く手がける。 フェリス女子学院大学音楽学部非常勤講師「音楽情報論」(2002年~2004年)。著書に『アヴァンギャルド・ジャズ―ヨーロッパ・フリーの軌跡』(未知谷)。趣味は料理。当誌「副編集長」。 http://kazueyokoi.exblog.jp/

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