Reflection of Music Vol. 84 高木元輝

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高木元輝 @「横濱ジャズプロムナード」関内小ホール  2002年5月26日
Mototeru Takagi @”Yokohama Jazz Promenade” Kannai Hall, Yokohama, May 26, 2002
photo & text by Kazue Yokoi 横井一江


昨年から今年にかけて、高木元輝のCDが国内外のレーベルから数多くリリースされた。なぜ今なのかは定かではないが、彼の軌跡を辿るよい機会だろう。奇しくも今年は没後20年に当たる。

高木元輝(1938*〜2002)は日本のフリージャズ草創期に大きな足跡を残したサックス奏者として知られている。当時の録音、例えば1969年録音の富樫雅彦カルテット『We Now Create』(日本ビクター)や、その少し後に録音された富樫雅彦とのデュオ『Isolation』(日本コロムビア)など、1960年代終わりから1970年代にかけての録音を聴けば、時代の熱さと共に高木の激しく、抜きん出たサウンドを体感することが出来る。ちなみに『Isolation』は、永山則夫を映画化した足立正生監督『略称 連続射殺魔』の音楽として録音されたということでも話題になった。

京都で生まれ、横浜で育った高木は、吉屋潤とクルーキャッツ、チャーリー石黒と東京パンチョスなどで演奏していた。彼の音楽的な転換点は吉沢元治トリオ(時によっては高木元輝トリオと称した)からだという。そして、吉沢の紹介で富樫雅彦のグループに参加したのである。そこから富樫雅彦・佐藤允彦の双頭バンドESSG(実験的音響空間集団)へと繋がっていく。ESSGのメンバーは沖至と高木だった。しかし、1970年に富樫は事故に遭う。その後、高木は豊住芳三郎とのデュオを始めた。

ところで、高木という存在を他のミュージシャンはどう見ていたのだろう。山下洋輔は、ジャズ批評 No.48 「特集テナーサックス」(1984年)に掲載されたインタビュー「僕の付き合ったテナー奏者」でこう語っている。

キャリアは案外長いけれど、付き合った人間は少ないんですよ。バンドを組んだ十四年間に、ドラムが二人、サックスが四人、ベースが一人、それだけですからね。そのうちテナーは二人。考えてみたら武田(和命)と(中村)誠一しかいない。ただ、高木元輝のことは忘れちゃいけないです。彼はもう一方のシーンの重しみたいな人ですから。誠一がいた時代、やはり一つのスタイルを持っていて、いつも即興的な存在でした。

彼の音はやはり挑発的ですから。あの音があって、なおかつこういうことをやっているんだということを僕自身や、僕のところにいるサックス奏者はいつも考えなきゃいけなかったんですね。
アルトでは阿部薫ですね。

彼らのようなやつがいるぞ、という意識がいつもありました。彼らの”風”がこっちに吹いてくるようなもので、それに吹かれつつも、こっちから出し返す音があるぞ、負けていないぞという緊張感をいつも僕は感じていました。誠一が吹いている時に、”必ず高木を聴いている人間がいるぞ”という背景を感ずるということです。僕がテナー・サックスを入れて一緒に演っているという時に、なぜ高木を入れないかという疑問に答えていなきゃいけないという存在なんですね。

山下も「一緒に活動はしなかったけれども、高木元輝、阿部薫には意識した」のである。

1971年に豊住が渡米したことで、高木の活動は停滞する。ジャズ評論家の副島輝人によると「自己のグループを作ったが、何度もメンバーが入れ替り、彼自身、沖四重奏団のメンバーともなったりしたが、仕事は減り、自分の思いのままに吹けない日が続いた」(ジャズ批評25号、1977年)という。そして、間章の誘いもあって、1973年フランスに渡るのである。副島の記述によるとパリでも高く評価されていたようだ。具体的な情報源が不明なので伝聞以上のものではないが、高木元輝=加古隆『パリ日本館コンサート』(トリオ、1973年録音)を聴くと納得するものがある。

昭和49年11月の帰国まで、ちょうど一年間パリに在って、多くの外人ミュージシャンと接し、幾度かコンサートのステージに立った。その演奏によって、「タカギ」の名前は、パリのジャズ界に衝撃的な響きをもって広まった。フランス人のある批評家は「十年に一度現れる怪物」と評し、あるサックス・プレイヤーはみずからの力量の程を知らされ、荷物をたたんで故郷に帰ってしまったともいう。また、ある外人プレイヤーは「ビリー・ホリデー(原文ママ)、ジョン・コルトレーン、一時期のアーチー・シェップに通ずるものを持つ、今日唯一人のサックス奏者」と絶賛した。そして高木自身はといえば「フランスでは演奏する機会は少なかったけど、自分自身のことと、自分の音楽についてゆっくり考える時間を持てたことは幸せでした」と語っている。(ジャズ批評25号、1977年)

帰国後に再び豊住との活動を再開するなどし、1970年代後半にはデレク・ベイリーやミルフォード・グレイヴスとの共演盤を残しているが、1980年代の活動はレコードもなく、その活動はなかなか伝わってこなかった。『阿部薫2020 』(文遊社、2020年)を編集した大島彰は、ジャズ批評72号「テナー・サックス Vol.2」(1991年)で高木についてこう書いている。

デュオ・チームを組んでいたダニー・デイヴィスが88年に急死してから、高木元輝はインドへ旅立った。そしてジャズの現場から姿をほとんど消してしまった。それでも盟友=小杉武久が帰国すると、経堂の「伝」などにひょっこり現れて吹いたりはしている。「伝」にはそんな高木=小杉のデュオを収めたテープがいくつも大切に保管されている。(中略)現役のインプロヴァイザーにとって過去の音を賞賛されても好ましい筈がない。だから彼のベスト盤は「伝」や地方のライブハウスに保管されている生テープにこそあるとまず言っておきたい。

それらのテープは、30数年後に日の目を見る。Nadja21からリリースされた『高木元輝/Love Dance~Live at Galerie de Café 伝 1987/1997』と『高木元輝|吉沢元治/Duo&Solo〜Live at 伝 1987・1989』や『小杉武久&高木元輝/薫的遊無有』(Chap Chap Records、1985年録音)がそうなのだ。Nadja21の作品では、高木のメロディーへのアプローチがたっぷりと聴ける。独自の語法によるフリージャズ、時代を表象するような激しさがあった60年代終わりから70年代、そこからの転換点はどこにあるのだろう。副島輝人著『日本フリージャズ史』(青土社、2002年)には、パリ時代の高木についてこう書かれている。

その高木がパリの下宿屋で、演歌のテープを聞いて、ボロボロ涙を流したという。高木自身は永い間秘していたが、李元輝という本名の示す通り、彼の体には朝鮮半島の血が流れている。それが演歌という東アジア独得の情念と反応したものだった。「音楽の感動とは、何なんでしょうね」と高木は言う。それは言葉では表せない、感性の深い部分に突き刺さってくるものに他ならない。生きるということと音楽を聴くということが、まっこうから向かいあった瞬間に違いない。

彼のメロディー回帰の原点はここにあるのではないか。激しい情動と深い情感は合わせ鏡のようなものである。副島が言うように高木は情念を吹くサックス奏者だったと思う。そのサウンドの深みは他にないもので、フランス人がビリー・ホリデイを引き合いに出したとしても納得がいくのだ。また、70年代半ばにスティーヴ・レイシーに傾倒、当時のライヴを見てる大島彰は「彼にとっての不幸は75年のスティーヴ・レイシーの来日だったのではないか」(ジャズ批評72号、1991年)とクリティカルに見ていたが、そこを経た上での後年の高木のサウンドなのだろう。

1980年代から1990年代、高木の姿は私の視界には入らず、彼はいわば音盤の中の伝説の存在だった。それもその筈、関東を離れ、福岡や大阪、豊橋と転々と住居を変えていたようである。高木のライヴを見たのは、2002年の横濱ジャズ・プロムナードが最初で最後、その場に居合わせることが出来て幸運だった。この時のプログラムは「韓国NOW」崔善培 with 井野信義、小山彰太、沖至、高木元輝。刻まれた年輪がサックスの音に現れているようだった。高木は横浜に居を移し、活動を再開する間もなく、その約半年後にこの世を去ってしまう。晩年の録音は不破大輔、小山彰太との『高木元輝 “2001.07.06”』(地底レコード、2001年録音)だけだったが、これも昨年リリースされた高木元輝カルテット(高木、金剛督、竹内直、小山彰太)での『Live at Little John, Yokohama 1999』(NoBusiness Records)が晩年の活動を伝えている。

高木が亡くなった翌年(2003年)4月、横濱エアジンで「追悼・高木元輝」が行われた。渋谷毅、佐藤允彦、山口真文、梅津和時、中村達也、金剛督、大沼志朗、工藤邦明、永塚博之など高木の60年代から晩年までの活動で縁があったミュージシャンが参集し、客席はすし詰め状態だった。進行は竹内直、思い出話を挟みながら演奏が繰り広げられ、途中パリの沖至からのメッセージも読み上げられた。その日持ち帰ったエアジンのスケジュールに「40数年前の銀巴里セッションみたいだ。死んだ高木が場をつくったんだね。高木は死んでもフリージャズは死なず」と副島が横で呟いたとメモされていた。

 

注:
* 高木元輝の生年月日は、これまで1941年12月28日大阪府泉佐野生まれと書かれてきたが、1938年9月14日京都生まれであると親族からの指摘があり、昨年リリースされたCDライナーノート等ではそのように記されている。


「追悼・高木元輝」@横濱エアジン、2003年4月13日
”The Mototeru Takagi Tribute Concert” @Airegin, Yokohama, April 13, 2003

横井一江

横井一江 Kazue Yokoi 北海道帯広市生まれ。音楽専門誌等に執筆、 雑誌・CD等に写真を提供。ドイツ年協賛企画『伯林大都会-交響楽 都市は漂う~東京-ベルリン2005』、横浜開港150周年企画『横浜発-鏡像』(2009年)、A.v.シュリッペンバッハ・トリオ2018年日本ツアー招聘などにも携わる。フェリス女子学院大学音楽学部非常勤講師「音楽情報論」(2002年~2004年)。著書に『アヴァンギャルド・ジャズ―ヨーロッパ・フリーの軌跡』(未知谷)、共著に『音と耳から考える』(アルテスパブリッシング)他。The Jazz Journalist Association会員。趣味は料理。当誌「副編集長」。 http://kazueyokoi.exblog.jp/

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