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GUEST COLUMNNo. 326

ジャズ日和〜マーサ三宅さん亡くなる

text by Keiichi Konishi 小西啓一

日本のジャズ・ボーカルの草分け的存在で、多くのお弟子さんを育てたゴッド・マザーとでも呼べそうなマーサ三宅(本名 三宅光子)さんがお亡くなりになった。享年92。合掌!

マーサさんはこの5年ほど体調を崩しており、ほぼ自宅静養中だったと聞くが、最後にお会いしたのはもう7~8年ほど前。確か中野の“マーサ・ボーカル・ハウス”のあるマンション近くの、お気に入りの喫茶店…(店名失念)だったと思う。“このところ余り調子良くないのよ。やはり歳なのかな…”などと少し寂し気だったが、結構元気な様子だった。それから少しして自宅で倒れたらしいと聞き…、以降はその動向もほとんど入って来ず、心配していたのだが…。

 2018年に40数年の歴史を刻んだ「マーサ三宅ボーカル・ハウス(教室)」をたたんでしまったが、中央線の線路沿いのマンションにあるこのボーカル教室からは、プロ&セミプロ、アマチュア等など、数多くのジャズ・シンガー、さらにはポップス系シンガーなども巣立っており、その数はなんと数千人とも言われる。ある意味日本の女性ジャズ&ポップス・シンガーのかなりな人が、彼女の薫陶を受けていると言っても過言ではない。前夫になる故大橋巨泉さんとの間の、美加とチカの2人もジャズ歌手で、巨泉さんがマスコミで有名になったのにも、姉さん女房だった彼女の貢献度も大きかったとも聞く。 

そんな彼女は現在の中国東北地区~戦前の満州生れで、Jジャズの偉大な先駆者&功労者でもある穐吉敏子さんと同じ生まれ。色々と終戦時の苦労はあったと思われるが、戦前の帝国主義植民地だった満州国から、2人の偉大なジャズ演奏家&歌い手が誕生している事実、かなり興味深いことでもある。

戦後間もない1953年にプロ・デビューを果たし、当時人気だったレイモンド・コンデのゲイ・セプテットの看板シンガーとして名を挙げ、以降は Jジャズ・ボーカルの中心的存在として活躍を続ける。まさにJジャズ・ボーカルの大看板とも言える彼女だが、ぼくが接したその実像は少しも偉ぶることもなく、実にさっぱりとした気性の持ち主で、凛とした佇まいも魅力の大姉御といった趣き。気さくながらも風格ある真のジャズ・レディだった。

ジャズの歌い手としての彼女は、その生き方同様に変なフェイクなどを入れない、正統派スタイルというか“楷書体”とも言える歌い方の人だったと思う。そこがいささかジャズとして面白味に欠けるきらいもあったかも知れないが、また魅力でもあった。

ところでぼくは何故か彼女には良くしてもらった想いも強く、中野駅にほど近い彼女のお宅にも、インタビューなどで数回ほど訪れている。まあ普通はジャズ関係者の自宅を訪れることなど余りないのだが、この大御所からは何回かお誘いを受けたりしており、中でも一番印象深いのは、彼女の久々のリーダー作(確か8年振りの筈)『ソフトリー・アズ・アイ・リーブス・ユー』(09年/T-トック)の制作に関わらせてもらったこと。

このアルバムはひょんなことから生まれたアルバムで、当時まだジャズ誌「スイング・ジャーナル」が健在(今は廃刊)で、あるライターが彼女について書いたジャーナル誌の記事(ないしはレビューの一節か)が、彼女のお気に召さなかった事があった。その訂正の意味も含め再度インタビューをやって欲しいと言う、彼女からの強い要望が編集部に寄せられ、なんとその再インタビュー役をこのぼくに…というご指名。そこで編集部から頭を下げられ彼女の自宅へ向かった。どうやらインタビューも無事終了し、彼女の機嫌も治ったようで”いい記事にしてね…“などと念押しされ、その後はしばし雑談となった。そこで彼女から”わたしもう10年近く新しいアルバム出していないの…。小西さんどこかの会社から出せないかしらね…”というお願いあり。大看板のたっての頼みとあっては、引き受けざるを得ない。知り合いのジャズ・プロデューサーの何人かに声を掛け、その中で彼女の新作に最も強い関心を寄せていた、当時の新興レーベル“T-トック”の社長プロデューサー&ミキサーの金野貴明くんのところに決め、彼女に引き会わせると見事にマッチング。トントン拍子でアルバム制作も決定、ぼくも陰ながら制作のお手伝いを…ということになった。レコーディングにはピアノに北島直樹、ベースに加藤真一など、彼女のお気に入りの素晴らしいミュージシャンが招かれ、楽曲アレンジは寺井尚子バンドで活躍中の北島氏。北島氏とはこの後ぼくがプロデュース役として、同じT-トックで久々の傑作アルバム『アローン&トゥギャザー』を制作することになるのだが…。

さてこのレコーディング、マーサさんも久々のものだけに乗り々の上げ気分で、バックの好演もあって、実に素晴らしい出来栄えのものとなり、彼女もご機嫌で熱く感謝もされた。またこのアルバムは、“ミュージック・ペン・クラブ”の年間優秀賞にも輝くことになり、彼女にとってもまたぼく自身にとっても、忘れ難い記念作品になっている。

ところでこのレコーディングで大変に印象的だったのは、彼女がスタジオに来て直ぐに声出しのリハーサルを、なんとピアノの弾き語りで始めたこと。彼女の弾き語りなど今まで聴いたこともないので、密かに録音するようにプロデューサー兼ミキサーの金野くんに頼んだ。そんなこととは知らないマーサさんは、実にリラックスした感じで、軽やかにご機嫌に歌い弾き綴り、これがなんとも心に染みるもの。彼女にそのタイトルを聞くと、“これ余り有名じゃないけど、わたしの大好きな曲なの”と…。それが<ソフトリー・アズ・アイ…>で、イタリアの作曲家&ピアニストのトニー・デ・ビータの作品で、フランク・シナトラなども歌っているが、我が国では余り馴染みの無い銘品。全てのレコーディング終了後に、さっきのリハーサルも収録したのだと打ち明け、彼女の了解も得てこの曲をアルバムの掉尾にボーナス・トラックとして収録、同時にアルバム・タイトル曲にも決めたのだった。今でもこのレコーディングは大変に印象深いものだし、マーサさんの弾き語りナンバーは、彼女の数多いレコーディング歴の中でも、確かこれだけのはず。ジャズに関わってきたぼくの誇りだし自慢でもある。

あの美しくも優雅で、凛として気風の良い歌い手はもういない。実に寂しい。有難うマーサさん。願わくばもう一度ぼくのジャズ番組”テイスト・オブ・ジャズ“に登場して貰えれたならば…。でもそれも詮無きこと。貴女の優しさ、愛らしさなど、忘れられません。

ps)中野の弥生町にある正蔵院で行われた葬儀に参列してきたが、8割方スクールのお弟子さんの妙性の女性方がメインで、派手さこそないが心温まる式だった(ジャズ関係者は皆無だった様だが…)し、遺影が写真ではなく肖像画だったのも印象深かった。式の最後は一番弟子の金丸正城氏をメインに、スクールのお弟子さん達による合唱で、彼女は静かに送られていった。

再度 合掌!         

小西啓一

小西啓一 Keiichi Konishi ジャズ・ライター/ラジオ・プロデューサー。本職はラジオのプロデューサーで、ジャズ番組からドラマ、ドキュメンタリー、スポーツ、経済など幅広く担当、傍らスイング・ジャーナル、ジャズ・ジャパン、ジャズ・ライフ誌などのレビューを長年担当するジャズ・ライターでもある。好きなのはラテン・ジャズ、好きなミュージシャンはアマディート・バルデス、ヘンリー・スレッギル、川嶋哲郎、ベッカ・スティーブンス等々。

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